“シアワセ”の方程式





一晩一緒にいられるだけで、今日はもう大丈夫だと思っていた。

少しでも気に入らない相手は近付かせもしない年下の幼馴染だから、
彼の領域にいる事が出来る、という事がどれだけ大きな意味を持つかも知っている。


食事は悟空が作り、二人一緒にリビングでテレビを見ながら食べた。
声をかければ江流は素っ気無いけれど返事をしてくれたから、悟空にはまたそれが嬉しかった。
機嫌が悪いと返事どころか話を聞いてもくれないのだ、この年下の幼馴染は。

食器洗いは江流が引き受け、悟空はその間に風呂に入った。
久しぶりに入った江流宅の風呂に、どうせなら一緒でも良かったな、と思ったりもしたが、それは心の中だけに留めた。
何分、幼馴染はキムズカシイ時期な訳だから。



そうして、今夜は楽しいまま過ぎると思っていた。
“傍にいる事を許される”ということは、“嫌われていない”ことだと判ったから。



────しかし。

江流が風呂を上がった直後に、またその不安は再来した。






「あ、江流、湯加減どうだった?」
「……温い。お前、水入れただろ」



江流は熱い湯で入るのが常だが、悟空はどうにも逆上せてしまう。
だからあまり熱い湯では我慢できず、悪いと思いつつも水を入れて温くしてしまうのだ。



「だって熱かったんだもん」
「うちじゃあれが普通だ。郷に入りては郷に従え、我慢しろ」
「ムリ」



きっぱりと言い切る悟空に、江流は溜息を吐く。

それから、紫闇が悟空の大地色の髪に向けられる。
先に風呂に入ったにも関わらず、悟空の髪はまだ雫が落ちていた。



「お前、風呂から上がったら髪もちゃんと拭けって言っただろ」
「え?拭いたよ、ちゃんと」
「拭けてねぇよ、雫が垂れてるじゃねえか。床が濡れる」



確かに、悟空が腰掛けているソファにも僅かに染みが出来ていた。


悟空としてはちゃんと拭いているつもりなのだ。
けれどいつも拭き切れなくて、家にいる時は見兼ねた金蝉が拭いてくれる。
それがすっかり癖にもなっているから、悟空はいつまで経ってもこのまま。

泊まりに来た時はと言うと、殆どは光明が苦笑しながら拭いてくれた。
光明が忙しくて何事か手が離せない時は、江流が。


だから、悟空は昔のように言ったのだ。



「じゃあ、江流が拭いてよ」



そう言えば、江流は呆れたように、怒ったような乱暴な手付きでいつも拭いてくれた。
どちらが年上だか判らないような会話でも、江流はちゃんと受け止めてくれたのだ。


泊まりに来たのは久しぶりだったけれど、過ごす時間は昔と変わりなかった。
だから江流が此処のところ自分を避けていたのは、やはり思春期特有の何かだと思っていたのだ。
普通に接すれば普通に返してくれる、何も変わった事はないのだと。

跳ね除けられるなんて微塵も思っていなかった。
帰って来るのは「仕方ねえな」という、聞き慣れたぶっきら棒で優しい声だと。



けれど。



江流は、ふいと悟空から視線を逸らした。

少しの間動きを止めていたと思ったら、此処数ヶ月と同じように目を逸らされた。
過ぎった不安に駈られるように名前を呼んでも、返事がない。








─────それは、初めての拒絶だった。








「江……」



また呼ぼうとすると、振り切るように江流は階段を上がっていった。
何が悪かったのか、悟空には判らない。

ただ昔と同じようにしただけで、江流もついさっきまで昔と同じだった筈だ。



(────だから、いけなかった?)



階段を上っていく江流を、茫然として見送る。
その背中が追いかけることを拒絶しているのを、悟空ははっきりと感じていた。

幼い頃はそうなる時は拗ねている時で、直ぐに追い駆けて頭を撫でたりした。
無言で“構え”という雰囲気を醸し出していたから、悟空はそんな年下の幼馴染が可愛かった。
すぐに追い駆けると仏頂面で、けれど紫闇は嬉しそうだったから、それを見るのが嬉しくて。


なのに、今はそれを赦さない背中。


昔のように急いで追い駆けようとソファから立ち上がっても、それ以上前に進めない。
江流は振り返りもせずに階段を昇り、“おやすみ”も言おうとしなかった。
言っても、返事があるとは思えないほどに拒絶されていると感じた。

幼稚園の頃、気付けば悟空の手を握っていた手は握り締められたまま解かれない。
伸ばされていた手を取るのが好きだったのに、それもない。




また、泣きそうになる。




普通通りだった。
いつも通りだった。

昔と同じ筈だった。


自分も江流も、何も変わったところはなかった筈だ。
少し複雑で微妙な江流の琴線に触れないように、少しだけ自分が遠慮した部分はあったかも知れないけれど、
江流は昔と同じように家の中に入れてくれたし、話しかければ昔と同じように返事をしてくれた。

だけれど、江流は拒絶した。
また、目を逸らした。



──────本当は、嫌われてた……?



いつも他人に対して冷たい態度を取る江流だが、性根は優しいと悟空は思っている。
中々それを人に理解して貰えないだけで、江流も無理に理解してもらおうとは思っていないから。

そんな風に優しくて、悟空が一人が苦手だと知っているから、仕方なかったのか。



どんどん浮かぶ嫌な考え。
それはバタン、という二階からの音でようやく途切れた。



「あ……」



音の無くなった家に、悟空はサッと血の気が引く。
悟空は、こういう“無音”も酷く苦手だった。


慌てて階段を駆け上ったのは、その“無音”を消したかった所為もあった。
自分の足音でも、なんでもいいから“無音”を壊せるならなんでも良かった。

上りきってすぐ、江流の部屋へ向かう。
慣れた気配は其処にあったから、江流は変わらず其処にいると確信した。




こんなに騒がしい足音を立てたら、いつも煩い、と言われていた。
不機嫌そうに紫闇を細目ながら、これだからガキは、と呟かれるのも嫌いではなかった。
前に江流の友達との遣り取りを見た時は、気に入らないと直ぐに喋らなくなったから。

江流が自ら声をかけるのは、彼自身の父親と悟空ぐらい。
仲良くなりたいと思っている人達には悪いと思うが、悟空はそれが嬉しかったりしたのだ。
きらきらキレイな年下の幼馴染を、独り占め出来るような気がして。




江流の部屋は、鍵がない。
だから彼の幼年期、一人で寝起きする彼を起こす時に悟空が入る事が出来た。
鍵がついていたら開ける時の小さな音で目覚めてしまうだろう、眠りの浅い彼は気配に敏感だから。

けれど、内開きのドアだから中から棚でも持って来られたら開けようがない。
お願いだから開いて、と切羽詰ったように考えながらドアノブに手をかける。


勢いそのまま、ドアは少々激しい音を立てて開いた。




「江流っ!」




悲愴に満ちた声が、久しぶりに見た幼馴染の部屋に響く。
江流は既にベッドの上にいて、悟空を玄関で迎えた時と同じように瞠目していた。

それがまた、悟空の心に突き刺さる。


自分がどんな顔をしているかも考えずに、悟空は江流に詰め寄った。



「も、なんだよ、江流!なんで無視すんだよ!?」



じわじわと滲んでいく視界の中で、つっけんどんに問い質す。
江流はその鬼気迫る年上の幼馴染に気圧されたように、僅かに肩を引いた。



「なんで!?中等部上がってからずっとそうじゃん、学校行くのも帰るのも一人だし、話もしてくれないし!」



気難しい年頃、多感な時期。
それで済ませてまたいつか昔に戻れる日を待てるほど、悟空は辛抱強くない自分を自覚していた。

だからせめて一言二言、挨拶だけでも交わしてくれるなら安堵出来た。
どうしても言葉を交わしたくないのなら、僅かな時間でも紫闇と交わる事が出来ればそれで良かった。
そうであれば、きっともう少しの時間だけでも待っていられた。



「教室行ってもいつもいないし、探しに行っても見つかんないし、家に行ってもいつも出てきてくれないじゃん!」



江流の顔が判らなくなる程に、視界がぐにゃぐにゃになっていく。
だから今、江流がどんな表情で自分を見つめているのか判らない。

ただがむしゃらに、ぶつけるしかなかった。



「嫌になったんなら言ってよ!はっきり言ってくれた方が、オレだって楽だよ!」



変に気を遣われるより、辛くても言の葉にされた方が良い。
“嫌われてるんじゃないか”とずっと伺うように見つめているより、そっちの方がずっと楽。
何をするにも不安を抱えて、目があっても逸らされて、その度泣きたくなるのは辛い。





「嫌いになったんなら……言ってよ………」





言われたからと言って、簡単に幼馴染離れが出来るとは思ってはいないけれど。
一緒にはいられなくなったのだと判れば、淋しくても泣きたくても、いつか自分で折り合いがつけられる。

それもないから、いつまでも格好悪く僅かな希望に縋り付いてしまう。


江流のベッドに乗り上げたまま、悟空の頬から大粒の涙が零れていく。
耐え切れなくなったそれは最早留める術など知らず、ベッドシーツに落ちて染みになった。
けれどそれも、洗って乾かせば判らなくなってしまうだろう、そんな風に自分の気持ちも消えればいいのにと思った。

江流の顔が見れなくて俯いて、そうすると余計に涙がぱたぱたと落ちる。
シーツを握る手は震えていて、爪が食い込んでいた。



────勝手に希望を抱いて、拒絶されて一方的に喚いて。
年上の癖に、それが誰から見ても情けない姿であると判ったけれど、我慢できなかった。


ずっと幼い頃から一緒だったのだ。
それこそ江流が物心のつく以前から、赤ん坊の頃から面倒を見ていた。
大人びた子供だから、いつの間にか立場が逆転していた所もある。

それでも江流と一緒にいられることは何より嬉しかったし、江流の事は今でも一番大切だ。
男手一つで育ててくれた父は勿論、学校の友達だって大切だけれど、悟空の一番はいつまでも江流だった。



それが嫌になったと言うなら、今此処ではっきり言われた方がいい。




けれど少しの沈黙の後、江流の口から漏れたのは、







「勝手に決め付けるな、バカ猿」






呆れでも、侮蔑でもなく。
幼馴染が口にした言葉は、まるで何かの覚悟を決めるようなものだった。

今度瞠目するのは悟空の番で、くしゃっと自分よりも少し小さな手が大地色の髪を撫ぜる。
高校生になってから切った大地色の髪を、まるで幼子をあやすように優しく梳く。


頬に手を当てられて、そっと顔を上げてみる。



「さっきから聞いてりゃ、好き勝手ばっかり言いやがって…」
「………こーりゅ……」
「嫌いになったなんて、決め付けてんじゃねえよ」



口振りは相変わらず乱暴だけれど、声音は優しかった。

幼い頃から滅多に泣かない江流に代わるように、悟空は高校生になった今でもよく泣く。
その度に年下の幼馴染に慰められて、頭を撫でられて優しい声で囁かれた。
一人が嫌だと子供のように泣く年上の幼馴染を、江流が突き放す事は決してなかった。



「だって…江流、なんも…言わないから……」
「……言える訳ねぇだろ」
「なんで……?」



やっぱり嫌いになったから?

さっきから江流は、その事についてはっきり言葉にしていない。
だから同じように問いかけたら、江流は少しだけ視線を外し、



「………好きだなんて、言えるか」



告げられた言葉に、悟空は目尻の涙をそのままにして、きょとんとした。


目の前にある年下の幼馴染の頬が、珍しく紅潮していた。
それが照れているのだと、気付くまで数瞬。

気付いてからも、悟空は何故それだけの事で、と首を傾げる。



「オレも、江流好きだよ」
「……違う」
「違わないよ、好きだもん」
「意味が違うって言ってんだ」



また、悟空は首を傾げる。
江流は悟空が理解できないと予想していたらしく、溜息を吐く。



「…好きは、好きでしょ?」
「……お前がそうだから言いたくなかったんだ……」
「なんで?」



顔に手を当てながら半ば恨めしげに呟かれ、悟空はまた問いかける。


江流はそんな悟空に言葉を探るように口を開閉させたが、結局音にならない。
あれこれ文句を並べても理解できないと、悟空自身、悔しいけれど自覚していた。
だから江流が言ってくれるのを待つしかない。

何度も紫闇がこちらを伺うように見遣ってきて、悟空はじっとそれを見つめていた。


ややもしてから、江流はがりがりと乱暴に自分の後頭部を掻いた。




「あー、くそっ!」




突然、彼にしては珍しくヤケクソ染みた声があがったと思うと、悟空の視界は金糸に染まった。
父親と良く似ているけれど、金蝉の場合は月の光が反射したような金だ。
他者は同じだと言うが、悟空は違いが判る。

太陽が煌くような眩い金糸。
それが、江流の金糸。


さらりと金糸が流れて、次に目の前にあったのは子供特有の大きめの紫闇。
それしか見えない程に顔が近くにある。

どうして、と思った直後に自分が息が出来なくなっている事に気付く。
唇に少し冷たい柔らかいものが押し付けられて、息をしようと口を開けたら今度は生温かいものが侵入してきた。
それは悟空の舌に絡んでぴちゃりという音を立て、悟空は訳も判らないまま唐突な羞恥心に襲われる。



──────キスされてる。



其処に行き着くまで、また更に時間を要した。

その間に咥内を生温かいものが蹂躙し、息苦しさともう一つ、知らない何かが湧き上がってくる。
“何か”が判らないのが無性に怖くて、縋るように目の前の幼馴染のシャツを掴む。



「っん…ふ……むぅ……っ」



漏れる自分の呼吸は、いつもの自分のものと違っていた。


息苦しさに視界がまた歪んできた。
沸き上がる“何か”から逃げるように、ぎゅっと強く目を閉じる。

それでも間近にある紫闇の強さに体を震わせた時、ようやく呼吸を許された。



「─────っは…!はっ、はぁっ……!」



江流の服を握り締めたまま、悟空は必死で酸素を取り込む。

江流は悟空の呼吸が落ち着くのを待ってから、自分の服を握る悟空の手を見下ろした。
無意識に縋った悟空の手の力は強く、無理に離そうとしてもきっと離れることはないだろう。


幾らか混濁したままの意識で、悟空は顔を上げた。
座って同じ高さになった目線の先で、江流は先刻よりも赤い顔をして、




「俺の“好き”は、こういう事だ」




鈍いだのお子様だのと言われる悟空とて、キスの意味を知らない訳ではない。
ただ自分には到底無縁のものだと思っていたから、誰かとする事があるとも思っていなかった。

まして、それが男で、幼馴染だなんて。


珍しく紅くなっている江流から伝染するように、悟空の顔にも朱が昇る。
それを江流は少しだけ嬉しそうに、けれど直ぐに淋しそうな顔をする。



「もう判っただろ。二度とされたくなかったら、今後俺に近付くな」
「……な、んで……」
「こんな事、幾らお前でも嫌だろ」



言いながら、江流はくるりと悟空に背中を向ける。
その背中は数分前に階段下で見送ったものと同じだったけれど、違って見える。

まだ幼さを残す小さな背中は、やはり優しい。
傷付けるのは嫌なんだと、それは決して言葉にしない代わりに、こうして態度で示す。
それをきちんと汲み取る事が出来るのは悟空だけだ。


江流は、このまま悟空が部屋を出て行くことを望んでいるのだろう。
向けられた背中が最後の境界線なのだと、悟空はなんとなく感じていた。

けれど、悟空はそっと手を伸ばして。



「────……おい……」



聞いてなかったのか、という声。
聞こえてたよ、と小さく答えた。



背中から抱き締めた幼馴染は、自分よりもまだ小さかった。
けれど記憶にあるよりもやはり成長していて、其処は少しだけ淋しい。

でも、その程度の淋しさがなんだと言うのだ。


嫌われるより、ずっといい。



「ヤ、じゃ……ない、よ……」
「嘘吐くな」
「ウソじゃないよ」



意地っ張りな幼馴染、素っ気無いばっかりの幼馴染。
本当は優しくて、いつも自分を大事にして守ってくれる幼馴染。

避けられていたのが嫌われていたからじゃなくて、大事にしたかったからだと気付いてしまった。
其処にある感情はまだ悟空には曖昧な感じだったけれど、それでも嬉しいと思った。
自分の想いよりも、悟空を大事にしようとしてくれた江流の気持ちが。

自分だったら無理だ。
バカみたいに正直だから。


肩口に頭を乗せて、今度は嬉しい所為で涙が浮かんできた。
じんわりと肩が濡れるのが判ったのだろう、江流が僅かに震えたのが判った。





「こっち見て…江流………」




ずっと逸らされたままは辛いから、背中を向けられたままは嫌だから。
だから呟いた言葉は、まるで睦言のような声に乗って滑り出てきた。






「─────知らねえぞ」








境界線を払ったのはお前だと、そう言う声もやはり優しかった。