オシリスの審判




用足しを済ませて部屋に戻ろうとして、悟空は足を止めた。
丁度向いている方向に宿の出入り口があり、窓からは雅な光が零れ落ちている。

宿のフロントロビーは消灯時間という事もあってか、少しだけ照明を落とし、落ち着いた雰囲気だった。
客が出入りするのだから真っ暗ではないけれど、外の雅な輝きには劣る。
だから余計に窓から零れる外界の光は、迷子の子供を誘うように明滅を繰り返しているように見えた。


用足しをしたらさっさと部屋に戻って眠ろうと思っていたのに、足が動かない。
部屋に戻らなきゃと思考は訴えているけれど、まるで根を張ったかのようだ。



そんなつまらない場所より、こっちにおいでよ。
面白いものが一杯あるよ、見られるよ。

─────大人になりたいんだろう?



そんな言葉を投げかけられているようで、悟空は耳を手で塞ぐ。
静かなフロントロビーで誰が声を発している訳でもないから、何も聞こえないし、聞こえてくる筈もない。

その声が幻げある事ぐらい、ちゃんと判っている。
でも判っているから部屋に戻れるのかと言うと、そうではなかった。


何かに操られるように、悟空の足が宿と外界を隔てる扉へと向けられた。
部屋へと続く階段の方向へは一つも進もうとしなかったのに、此方には不気味なほどスムーズに進む。



(………ちょっと、だけ)



昼間、八戒に散々言い含められたことは覚えている。
悟浄は途中から喧嘩口調になったけれど、それだって彼が心配してくれるからだ。
特に三蔵が何を言ったかは一言一句間違える事無く、復唱できる自信がある。

だけど。
だけど雅な光は、好奇心を駆り立てる。



(すぐ戻るから)



円形のこの街は、道も綺麗に湾曲を描き、円で構成されていた。
この地区の幅がどれ程か悟空には判らないが、路地に入らずに一周すれば必ず此処に戻って来れる筈だ。


扉のノブに手をかけ、少しだけ力を入れて押せば、簡単に外への道が作られる。
言い付けを破るという行為から、心臓は煩く高鳴っていたが、悟空は戻る気にはならなかった。
此処で誰かが戻ってきたりしたら、その時は素直に謝って部屋に戻ろうかとは思ったけれど、自分の意思で今戻ろうとは思えない。

今まで夜の街を一度も見たことがなかったとは言わないけれど、それだって夏祭り等の催しの時ぐらいだ。
それもやっぱり一人ではなくて、三蔵が一緒で───でなければ悟浄や八戒と一緒だった。
初めて一人で夜の街に行くのだと思ったら、きっと外界で雅な光が明滅していなくても、悟空の心は高鳴っただろう。
好奇心旺盛な子供の心なんて、そんなものなのだ。


近くに三蔵達がいない事を確認してから、悟空は宿の敷居を跨いだ。



「わ…………」




明滅する光は白磁色だけでなく、橙、緑、時には青と様々だ。
昼間に比べれば閉まっている店は多いし、数も少ないが、悟空にとってそれはどうでも良い。

所々で客を呼び込む出店の店員の声がしたが、どのみち金を持っていない。
美味しそうな匂いは心惹かれるものがあるけれど、無銭飲食をするほど常識知らずではないのだ。
あまりじっくり見ていると腹が鳴ってしまうので、横目で流すだけで見る事にする。


足を止めてしまうと近くにあるものに気を惹かれすぎるから、悟空は早足で大路を進んで行った。


開いている店の殆どは、どうやら夜だけ開店する出店らしい。
祭りのような雰囲気もあって、悟空はウキウキするのを止められない。

この光景を八戒辺りが見たら、妖怪退治が終わった後でも、少しぐらい一緒に出かけてくれそうだ。
悟浄もこんな雰囲気が嫌いではないし、三蔵はあまり期待出来ないけれど、少しだけ強請ってみよう。


酒場の近くはなるべく通らないように、どうしても通る場合は走ってやり過ごした。
宿の近くならともかく、もう随分歩いたし、こんな所で見付かったら大目玉どころではない。
宿に戻った時に彼等が先に帰っていても、結果は同じものだろうけど。



─────それにしても。



「……これの何処が危ないんだろ」



昼間、彼等が悟空の夜間での単独外出を禁じた理由は“危ないから”というものだった。
けれども悟空には、このお祭りに似た雰囲気の何処が危ないのかが判らない。

円形の街の外部分は、確かに悟空から見ても治安が悪かったけれど、此処はそんな風には見えない。
外側の人間だろう粗暴な者も所々で目に付いたが、基本的には賑やかで楽しい街である。
絡まれるでもないし、スリのようなものも見受けられない(いても何も持っていないので心配はしない)し、
大人達が言うような危険な匂いは、悟空には一切感知できなかった。

……だからこそ大人達は悟空の外出を禁じたのだが、やはり悟空にそれは判らなかった。



「あ、キレーな店見っけ」



ふと見つけた店に、悟空の足が向いた。


少し汚れたガラスケースの中で、きらきらと小さな石が光っている。
店のライトを当てられたその石は、悟空の心をしっかりと掴んでいた。

トパーズ、アメジスト、ルビー、ヒスイ、琥珀、パール─────他にも様々種類はあったが、悟空にとってはどれも“キレイな石”だ。
一際輝くダイヤモンドさえ、悟空の中での意識は川原に落ちている角のない丸い石と似たようなものであった。
だがキレイなものをキレイと思うことに偽りはないし、悟空はそういうものは、対象が有機物であれ無機物であれ好きだった。


石の横に並べられた金額を示す桁数は、悟空にとって見たことのないものだった。
所謂“バカ高い”値段は、ゼロの数を数えるだけで大変な労力だ。


そんな高級品を扱う店のウィンドウに子供が張り付いているという光景は、傍目に見てとても奇妙な光景だった。



「んー……ちょっと欲しいかも……」



漏れた言葉は、悟空にとって、やはり道端の小石を拾うものと同じだ。
だが流石に無茶な話であると、自分でもすぐに理解できる。


それに、もっとキレイなものなら傍にいるから。



「いい人に買われたらいいな」



きらきら輝くこの石が、せめて大切にしてくれる人の下に行けたらいい。

物言わぬ石にそう言うと、きらきらと光が嬉しそうに輝いたような気がした。
ライトの当たり具合か錯覚であるとは思うが、それでも悟空は嬉しかった。


そうして去ろうとした悟空だったが、聞き慣れぬ声に呼び止められる。





「おい、其処の坊主」





オレ?と思いながら振り返れば、見覚えがあるようなないような───厳つい顔の男達が数名。
口調と粗暴な雰囲気、周りの敬遠しているような表情からして円の外側の人間だろう。

さて何処で見たのだったかと、悟空は首を傾げる。
お世辞にも記憶力がいいとは言えないと自覚はあるし、これだけ人の多い街である。
会った事がなくても、会った事があるような既視感は湧いてくるのだ。
それが道端で擦れ違っただけであっても、ちょっと店先で立ち話をしていた相手であっても。


男達はその厳つい顔を更に厳ついものにさせ、首を傾げる悟空に近付いていく。
普通の子供なら一目見ただけで泣き出しそうな強面だが、生憎、悟空は普通の子供ではない。
見掛け倒しの強面などより、もっと恐ろしいものをよく知っているからだ。



「なんか用?オッサン達」



相手が何処の誰かは思い出せなかったが、取り合えず自分に用件があるのは判った。
背が低い所為で見上げる事になった男たちに、悟空は臆する事無く問い出す。

リーダー格らしい男が一歩前に出る。


「ちょっとな……付き合っちゃ貰えねえか」
「ヤダ」



きっぱり、間髪要れずに返した悟空に、相手の方が呆気に取られた顔になる。



「見るからに“何かします”な奴らと一緒に行く訳ないじゃん」
「そりゃ誤解だ。俺達ゃ別に、乱暴しようとは思ってねぇよ」
「じゃあ後ろの連中なんだよ?」



どう考えても不穏な空気を纏う手下らしき連中を指差す。
リーダーもそれは感じ取っていたようで、手で“向こうに行け”とジェスチャーした。

意外にあっさりと手下たちは下がり、人ごみに紛れて見えなくなった。



「これでいいか?坊主」
「ぼーずじゃない。悟空だ」
「そいつは悪かった」



言いながらリーダーは丸腰であると示すように、両手を広げて肩を竦める。
腰に小刀のようなものが差さっていたが、柄はゴテゴテに装飾されている。
ああいうものは実用性に欠けているのが常で、戦闘に使うには向いていない。

上半身は薄手のタンクトップ一枚で、腕にサラシが巻いてあるものの、暗記の類は見られない。
それでも悟空はいつでも応戦できるように、若しくは逃げられるように、大人の足一歩半分の距離を開けて立っていた。



「んで、なんか用?」
「いや、お前に用ってんじゃないんだ。ちょっと聞きたい事があってね」
「飯屋だったら、あっちの方が美味そうなのあったけど」
「そんなのじゃねえよ」



悟空とて、それが見当違いの答えである事は判っている。
けれど、こう言うことが自分のスタンスだ。
相手は自分を子供だと思っているし(癪ではあるが)、油断を誘っておいた方が後々楽だ。



「じゃ何?」
「ああ。昼間な、お前、坊さんと一緒にいただろう」
「三蔵のこと?」
「やっぱそうか、ありゃ目立つからな」



男の言葉に、悟空もそれは判ると頷いた。

円形の街の中心部に信仰心が固まっているとは言え、それでも仏門の教えは一応全区に広がっているのだ。
三蔵法師は僧侶の中でも最高の位に位置し、双肩の経文の事もよく知られていた。
更に三蔵自身が自らを印象付けるものの中に、通常托鉢である筈の僧侶が、有髪である事があげられる。
おまけに他に類を見ない見事な金糸であるから、その出で立ちは否応なしに人目を引き、記憶に残るのだ。

何故か当人は、いつまで経ってもその事に自覚がないが。



「三蔵になんか用?言っとくけど、何処にいるかはオレ知らないよ」



その辺りの酒場を手当たり次第に探せば、何処かで見つけられるだろう。
悟空は目星もつけられないのである。

先に正直に話せば、男は肩眉を上げ、考えるように顎に手を当てた。



「そうか………」
「んで、オレの用事は終わり?じゃあもう行くからな」



こんな所で厳つい男と立ち話をしているより、街を見回った方がよっぽど楽しい。
もう一度さっきのキレイな石を見に行こうかな、と悟空はくるりと踵を返す。

進もうとして、どんっと塊にぶつかった。


────男の手下の一人だ。



「なん─────」



これ以上なんだよ、と言おうとして、阻まれた。
悟浄よりも二周り以上もありそうな巨漢の男が、悟空の腕を掴んで宙に持ち上げる。

足元が地面から離れて不安定になり、悟空は突然の浮遊感に目を剥いた。



「ちょっ、なんだよ!?三蔵達ならオレ知らないって!」
「だったら来て貰おうと思ってな」
「はぁ!?」



リーダーの男が薄ら笑いを浮かべ、悟空に近付いてくる。
蹴り飛ばそうと足を振ったが、踏み込むことなんて出来ないから、脚の筋肉だけではダメージなど望めない。
案の定簡単に避けられて距離を詰められた。

卑下た笑みに殴ってやりたい衝動に駆られたが、巨漢が両手を掴んで持ち上げているので叶わない。
どうにか腕を外せないかともがいてみるものの、無駄な足掻きでしかなかった。



「連れて行け。お前らはなんでもいいから、あいつらがこいつを探すように仕向けろ」



人ごみに埋もれていた手下たちが動き出す。
リーダーはそれを見送った後、ククッと喉で笑った。