オシリスの審判









「それ以上、うちのバカ猿に汚ぇ手で触るんじゃねえよ」









聞きなれぬ────けれども青痣男にとっては忘れようのない声。
振り返って倉庫の出入り口を見れば、銃を構えた金糸の最高僧と、並んで男が二人。

出入り口の重厚な扉は、開けようとすれば勿論、その重さと古さに比例した軋む音がする筈だった。
それも聞こえない程に男達は悟空に夢中になっていたのである。


煙草を咥えていた紅髪の男───悟浄が紫煙を吐き出した。



「取り合えず、どうするよ?」
「どうもこうもないでしょう」



答えたのは金糸の男──三蔵を挟んで反対側にいる、柔和な笑みを浮かべる男だった。
その笑みは完璧で非の打ち所がなく、逆に空々しささえ感じさせる冷たいものだった。


たかだか三人の男に気圧されているなど、リーダーも青痣男も、何も言わぬ巨漢も認めたくはなかった。
けれども自分達の躯は蛇に睨まれた蛙の如く動かない。

動いたのは三蔵一人だったが、それにさえ男達は戦慄した。
金糸に霞む事のない深い紫闇は明らかな憤怒の色を宿し、男達に向ける眼は侮蔑を含んでいる。
僅かでも動けばその手の中の小銃が、迷う事無く己らの急所を狙うことを本能で悟る。


間近まで来た三蔵は、無言で悟空に覆い被さろうとしている青痣男を蹴り上げた。
蟇蛙のような醜態の悪い声を上げ、男は吹っ飛ぶ。



「どーよ、三蔵」
「気絶してるな。放せ、下衆」



紫闇が悟空の細腰を掴む巨漢を睨むと、巨漢はそろそろと解放する。

支えを失って倒れかける身体を、三蔵が掬い上げる。
硬直している三人の男に目もくれずに、三蔵は悟空を二人の下へと連れ帰る。



「ったく、ガキ相手に……」
「救いようがありませんね。悟浄、これ壊せます?」
「おう」



悟空の腕を拘束する鎖を悟浄が手にかけ、力任せに引っ張る。
バキンと耳障りな音を立てて、金属の拘束具はその役目を放棄した。

八戒が肩にかけていた布を取り、悟空の体を覆う。
次いで悟浄も上着を脱ぐと、凄惨な幼い体を隠すように被せてやった。


その間、男達は逃げることも襲い掛かることも出来ず、ただじっとしていた。
復讐してやるのだと息巻いていた男も、昼間とは様相の違う三人に完全に圧倒されている。
誰一人として自分達を見ていないのに、それでも。

辛うじてリーダーの男が口を開いたのは、三蔵が悟空を連れて一人、倉庫から出て行こうとした時だ。



「お、俺の…俺の弟分達はどうした!?お前らを呼びに」
「────ああ」



リーダーの言葉を遮ったのは悟浄だ。



「あの弱っちい兄ちゃん達なら、その辺に転がってお寝んねしてるぜ」
「何か言ってましたよね。悟空を返して欲しかったら、大人しくしろ──…とか、なんとか」
「言葉を選べよなぁ。言った瞬間、おっかねえ保護者がプッツンしちまうんだから」



宥めて居場所を聞き出させるまでが大変だった。
肩を竦めて言う悟浄と、笑う八戒の、そんななんでもない仕種さえ恐ろしさを掻き立てる。



「俺らがボコった連中はともかく、三蔵に捕まった奴等は確実に地獄を見たよな」
「笑顔で関節圧迫した奴の方が俺は危険だと思うがな」
「即行で銃殺刑を敢行しようとした人に言われたくありませんね」



物騒な言葉の応酬は、決して男達に向けられたものではない。
だが事実である事は、彼等の纏う更に不穏な空気が何よりも証明していた。




「─────で」




ポキ、と悟浄が指を鳴らす。




「どうするよ、こいつら」
「半殺しじゃ済まされませんよねぇ」




八戒の瞳がすうと細くなり、笑みが薄れ、冷徹な色のみが其処に映し出される。

最早見る価値もないと、三蔵は男達を振り返ることはしなかった。
とうに興味を失った金糸の最高僧は、その腕に愛しい子供だけを抱き、その場から遠ざかる。


その最中で。









「骨も残すな」






































「ん………?」




差し込む光に目を細め、起き上がる。
体のあちこちが痛かったが、それよりも頭の中がぐるぐると回って気持ちが悪かった。

それでものろのろと起き上がってみると、カーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいる。
瞳の瞳孔が開いたままだった悟空は、その細い光にさえ眼球に痛みを覚え、目を細めた。


と、もぞっと枕元で何かが動き、突然の事に驚いてそちらに視線を落とす。

其処にいたのは丸く蹲ったジープであった。
悟空が起き上がった振動が伝わり、安眠を阻害されたのか、瞼も開けぬままジープは首を伸ばす。



「……ジープ?」



呼ぶと、今度はぱちっと目があいた。
悟浄とは違う緋色の瞳が悟空を捉え、悟空の目にも判る程、ジープはぱっと破願した。

ピィ、と嬉しそうに鳴いて擦り寄ってきたジープに、悟空はしばしきょとんとしていた。
けれども昨日の夜にこっそりと部屋を抜け出したのを思い出し、心配かけたのかも、と思い至る。



「おはよ、ジープ」



そう言うと、ジープも可愛らしい声で鳴いて答えた。


一頻りジープの鬣を撫でると、ジープも満足したらしい。
羽根を広げて舞い上がると、部屋の中をぐるぐると飛び回り始めた。

それを目で追ってから、悟空は空のままになっている他のベッドに気付く。
昨日の夜、彼等は情報収集と言って酒場に行っていた筈だが、まだ戻っていないのだろうか。
悟浄だけならともかく、三蔵や八戒まで朝帰りなんて珍しい────と、思っていたら。



「悟空!」
「悟空、起きたか!」



バタバタと慌しい足音を立てて、八戒と悟浄が部屋に駆け込んできた。
その尋常ならざる様子に悟空は目を剥いて、ベッドの上で僅かに後ずさる。



「お、おはよ……いつ帰ったの?」
「いつって、んな事よりお前っ」
「何処か痛いところありませんか?大丈夫なんですか?ああもう、三蔵だけに任せるんじゃなかった!」



矢継ぎ早に問う八戒に、悟空は答える暇さえない。
同じく詰め寄る悟浄は言葉こそ八戒に奪われたものの、同じ心境であるようだった。

いつにない二人の勢いに圧倒されて黙る悟空に、八戒と悟浄はまた騒ぎ出す。



「怖かったですよね、もっと早く行けば良かった」
「つーか昼間の内に徹底的にボコしときゃ良かったんだよ、やっぱり!」
「あんまり思い出させるような事言わないで下さい、僕も腹立ちますから」
「おい悟空、腕とか痛くねえか?頭は?」



二人の話す内容に一貫性がない。
これは、彼等にしては実に珍しい事だった。

圧倒されつつも黙っていると彼等の勢いに拍車がかかりそうで、悟空は答える事にする。



「頭は、なんか、グルグル気持ち悪いけど…あ、後は別になんにも」
「本当か!?」
「我慢しちゃ駄目ですよ!」
「へ、ヘーキだって!ホントだよ!」



答えても尚も詰め寄ろうとする二人に、悟空は大丈夫だと繰り返す。
その傍らにジープが降り立ち、そのジープまでもが本当かという瞳で見つめてくる。

どうしたら落ち着いてくれるのかと眉尻を下げると、ドアを開ける音がした。
馴染んだ気配で、それが誰であるか、見えなくても悟空にはすぐ判る。


悟浄の頭で、ハリセンが小気味の良い音を立てた。



「煩ぇぞ、テメェら」
「って〜……おい、なんで俺だけなんだよ?騒いでたのは八戒もそうだろが」
「日頃の行いって奴でしょうね」



…八戒の言葉は間違いではないだろうが、その中身が当人と周囲の間で大きく隔たりがあるのは確かだろう。

八戒の言葉を流すことに決め、三蔵が悟空に向き直る。
その見下ろす紫闇は、不機嫌と言うか、怒っているような───、それにも少し違うような雰囲気。
三蔵にしては珍しく何かを躊躇っているような様子で、悟空は首を傾げる。



「三蔵?」



昨日、夜中に宿を抜け出したことがバレたのだろうか。
それなら顔を見るなり、真っ先に叱りそうなものだ。


そう考えてから、悟空は反対方向へと首を傾げる。
昨日宿を抜け出して、夜の街をあちこち見て回って────その後どうしただろう。
キレイな石を売っている店の前で立ち止まっていた所までは、スムーズに思い出せた。

それから石の店を離れた後、柄の悪い連中に絡まれて。
相手にするつもりはなかったのだけれど、図体のでかい男に捕まって────……



(うわ、ヤベっ!!)



思い出して来た。


油断していのだと言われれば、悟空は反論する術がない。
宙ぶらりんの情けない格好で連れて行かれ、逃走を図るも失敗して。

だが、やはり途中で悟空の記憶は途切れる。
酒臭い男が近付いてきて、何事か言っていた事までは覚えていたのだが、その後が判らない。



(…いや、ヤベエってか。ヤバいけど。あれってオレ、とばっちりなんだよな?)



アルコールに酔った男の近くに、青痣男がいたのも思い出した。
その男の青痣は、昨日の昼間に三蔵達に絡んでぶっ飛ばされた時のもの。

それで、その男達に囲まれて、自分はどうなったのだったか。



「……悟空」



考え込んでいる悟空に、三蔵の声が降ってきた。
殆ど反射で顔を上げると、また迷うような瞳。

他の二人を見れば、悟浄も八戒も、視線を彷徨わせている。
ジープを見下ろすとじっと心配そうに見つめていて、悟空はそんなジープを腕に抱いた。


迷う彼等を見るのは滅多にない事だから、不思議には思うけれど、このままでは話が進まない。
いつも口火を切る三蔵や、軽口からでも会話を始める悟浄が黙ったままなのだ。
悟空は頬を掻いて一度ジープを見下ろし、また三人を見上げた。



「あのさ………なんか、あった…の?」



何かも何も、自分が言われる事と言ったら、昨日宿を抜け出した事ぐらいだ。
けれども、それが彼等の言葉を迷わせているような出来事とも思えない。
あれは完全に悟空自身の失態と言えるし、彼等が何か気を遣うような必要はない筈だ。



「あ、後さ。あの…昨日、その…オレ、宿から出ちゃったんだけど…それは、その、反省してるから、ちゃんと」
「………………」
「で、ね、えっと……ちょっと、どうやって帰ったんだか、覚えてないんだけど……」



続いた悟空のその言葉に、ピクリと三蔵の肩が揺れたのが判った。
咄嗟に頭を庇う。



「ご、ごめんって!えっと、誰か…連れて返ってくれた、とか…?」



頭を庇いながら、おそるおそる三蔵達を見上げ、悟空は問い掛ける。

三蔵の紫闇は前髪の影になり、悟浄は間の抜けた顔をして、八戒は珍しくも驚いた顔。
腕の中のジープは首を傾げており、こちらは何が起きたかをあまり把握していないらしい。
恐らく、昨日の晩、ふと目覚めた時に悟空がいなかった事に気付き、故に心配していたのだろう。


それからたっぷりと長い沈黙の後。
三人同時に、これもまた長い溜め息が吐き出された。



「うぇっ!?何、なんだよ!?」
「……煩い。黙れ、バカ猿」
「あー…そういうオチかよ…」
「まぁ無理はありませんでしたね…」



脱力しました、とばかりに三人は力なく呟く。
悟空はそんな三人に目を剥いて、一体何が起きたのか余計にパニックになっていた。



「そーかそーか、そうだよな。酒の匂いしたもんなぁ」
「あの後、酒瓶を確認したら殆どがラムでしたよ。度数30%以上の」
「そりゃ記憶も飛んで当たり前だな」



悟浄が悟空のベッドに腰を落とし、八戒が備え付けの椅子に座る。
三蔵は眉間に皺を寄せたものの、珍しくハリセンも打たず、煙草を取り出して火をつけた。



「髪からも匂いがしましたから、頭からかけられたんじゃないでしょうか」
「でなくても、あの倉庫、あっちこっちに酒が転がってたぜ。幾らか飲まされたんじゃね?」
「悟空、さっき頭がグルグルするって言ってましたよね」
「え?……うん」



答えた内容は嘘ではないし、今もグルグルする。
素直に頷くと、そりゃ二日酔いだな、と三蔵が言った。

強い酒気の匂いだけでも気持ちが悪くなる事がある悟空だが、翌朝までそれが響くなんて初めてだ。
そうか、これが二日酔いか……と暢気に考えつつも、最悪だとも思う。
こんな事になるぐらいなら、酒なんて飲めなくたっていい、と。


辛うじてリーダーの男が酒を飲んでいた事は思い出せたから、恐らくあの男の所為だろう。
頭からかけられたと言うのはよく思い出せなかったが。



「じゃあ、体にも異常はねぇんだな?」
「体?」



言われて、悟空は服をたくし上げたり、背中に手を回したり。
腕には拘束具として使われていた鎖の後が残っていたが、それも言う程痛みはない。

ふと、腰周りを一周するように大きな手形がついているのに気付く。
大きさからしてあの無口無愛想の巨漢だろうが、そんな所を圧迫された覚えはなかった。
悟空が不思議に思って首を傾げると、悟浄もそれに気付いたらしい。



「これ、なんだろ?」
「……連中に酒飲まされた上に、憂さ晴らしに殴られたりしたんじゃね?」
「だって他には何にもないもん」



悟浄の言うとおり、殴られたと言うなら、他の箇所にも痣が出来ている筈だ。
けれど悟空の体は綺麗なもので、昨日の晩と違うと言ったら、服が寝巻きに着替えられているという事ぐらい。
後は連中のアジトである倉庫に連れて行かれた時と寸分違わない。

頭の中がハテナマークで一杯になっている悟空だったが。
三蔵達はそれ以上の事を言うつもりはないようで、悟空も問い掛けようとはしなかった。
なんとなく聞きたくない気分だったし、彼等も言いたくないようだったから。
誰でも自分の情けない醜態なんて思い出したくないものだ。


煙草一本を吸って気が済んだのか、悟浄と三蔵が煙草を灰皿に押し付ける。



「何処もなんともねぇなら、さっさと着替えて来い」
「あ、うん」



此処に来た理由は、決してピクニック等ではなく、妖怪退治の為なのだ。
それをすぐに思い出して、悟空は急いでベッドから降りた。

着替えは手早く八戒が用意してくれ、悟空は畳むなんて面倒臭いと慌しく寝巻きを脱ぎ捨てる。
動き易い袖のないチャイナ服に腕を通し、ズボンも履き替え、靴を履き終えるまでものの一分程度。


昨日の夜、一人宿に残されて退屈だった事を思い出し、悟空は小さく笑った。
バレたのかバレなかったのかはよく判らなかったが、怒られなかったのだし、蒸し返すこともないだろう。
頭がグルグルする程度のお仕置きで済んだと思えば、随分と気分も楽になる。




「行こ、三蔵!」
「仕切るな、バカ猿」



言いながら、くしゃりと頭を撫でられた。
これもまた珍しいことで、悟空はきょとんとして撫でられた頭に自分の手を当てる。

一体今日はなんの気紛れなのか、昨晩の間に美味い酒にでもありついて気分が良いのか。
悟浄と八戒にまで頭を撫でられ、ジープには頬に擦り寄られ、悟空は訳が判らない。
でも撫でて貰うのは好きだったし、彼等の気分が良いなら自分も嬉しかった。


部屋を出て行った彼等を追い駆け、悟空も部屋を出る。
調子に乗って三蔵の腕に飛びついたけれど、これも今日は怒られなかった。



─────宿を出る直前、フロントロビーでふとした会話が耳に入った。





「聞いたか、外の奴らの……ほら、あいつ……───」
「ああ、あれな。聞いた聞いた、惨かったらしいな…」
「まぁ、いつかそんな目に遭うだろうとは思ってたけど」
「それにしたって、あれはねぇよ。半殺し所じゃなかったぜ……」
「頭から血ィ流して?全身酒浸しで、両腕両足が───…」
「─────の方は頭イっちまったんじゃねえかって」
「もう駄目だな、───は……これで少しは平和になるといいんだが…」






誰の何を聞いたのか、それの何が惨かったのか。
悟空にはよく判らなかったが、特に興味も湧かなかった。

その者達に、誰が何をしたのかも。










─────────聖域を侵した罪は、



その身と魂の全てをもってしても、償い切れるものではないのである。
























誰も触れてはならなかった




誰も踏み入れてはならなかった







何より無垢な、その魂を












穢した罪のその重さは、マアトの飾り羽でも量れない













FIN.




後書き