aurora




きらきらと

光る空をただ見上げて


掴めそうなほどに大きなそれは

するりと通り抜けて消えていく

それが今、ほんの少しだけ寂しくて






だからせめて

この繋いだ手のひらだけは








離さないで、いて欲しい













寒い。

現在の状況は、その一言に尽きる。



小さな小猿が、暖を求めて擦り寄ってきた。
いつもならハリセンの一つでも食らわせるのだが。
今ばかりは、三蔵もそれを感受していた。

子供の体温は、三蔵のそれより暖かい。
こちらとしても、暖を取るには丁度良かった。


時折、大地色の髪が三蔵の頬を擽った。
かと思うと、今度は首に細身の腕が廻されて。
子供のまろい頬が、三蔵の頬に摺り寄せられる。

小さな体が、僅かに震えているのが見えた。
だからこんな日に外で遊ぶなと言うのに。





外は、雨。
それも、バケツをひっくり返したような土砂降りの。







子供の温もりが、今は唯一の砦だと、随分前に自覚していた。










梅雨なのだから、仕方のない事と言えば確かで。
小猿を拾ってから、今年で三年程が経つが。
未だに、揃ってこの季節が嫌いだった。

三蔵は、雨そのものにいい思い出がない。
悟空は、外で遊べないのが嫌なのだ。



そして、もうすぐ夏だというのに。
雨のお陰で空気が冷やされ、夜が意外と寒いのが嫌だった。



湿気が纏わりつくし、外に出るのも億劫。
悟空は外で遊べず、三蔵は遠方の仕事が面倒臭い。

恵みの雨だと言っても、こうも降られては鬱陶しいだけだ。
部屋の窓辺では、幾日前だっただろうか、子供の作った照る照る坊主が申し訳なさそうに吊るされていた。

ささやかに晴れ間を望んで作られたそれは。
今の所、それらしい役目を果たしてはいない。




(………うぜぇ……)




思った事を、口に出して言う事はしなかった。
言ってしまえば、きっと子供の耳に入る。

別段、気にしなくてもいい事かも知れない。
だがこの子供は、そう言った言葉に敏感で。
向けられていないものさえ、自分の所為だと思い込む。




(……くそったれ……)




早く止んでしまえ、と途方も無く思いながら。







服を握ってきた子供を、掻き抱いた。










拾ってきた最初の年。

こちらの事も考えず、煩い子供に辟易して。
耐え切れず、雨の中に放り出した事があった。



そこまでされれば、流石に自分で何処かに行くだろうと。
もっと別の、居心地の良い場所を探すだろうと。
思っていた。

だが、呼ぶ聲が消える事はなくて。
「ごめんなさい」と言う霞んだ聲さえ聞こえるようになった。

あまりにもそれが、長く続いて。
その頃に既に馴染んでしまった気配が、遠退かなくて。
まさかと思い、放り出した場所に赴いてみれば。





土砂降りの中で。
一人佇んで。
俯いて。

泣いている子供が。
ずっと、三蔵を呼んでいた。




どうして、こうまで三蔵に縋るのか。
此処までされて、離れて行かないのか。

判らなかった。
判らなかった、けれど。






もう一度、その手を取った時。
雨と涙でぐしゃぐしゃだった顔が。

笑った時、ほんの少し。








雨が降っている事を、忘れていた。









その次の年。
去年。


昨年の出来事もあって、だろうか。
子供の呼ぶ聲は、相変わらず聞こえてきたものの。
傍で煩く騒ぐ事はしなかった。


だが、三蔵の苛立ちは消える事が無く。
何もしていない子供に、一方的にそれをぶつけた。

子供はそれに、何も言おうとしなくて。
傷ついた顔をしても、泣いても。
ただ、三蔵の傍から黙って距離を置くようになった。

今思えば、大人気ないにも程があるけれど。
その時は、そんな事を思う余裕さえなかったのだ。




そうして、悟空が三蔵から離れている間に。
庇護者がいないのを、好機と見たのだろう。
寺院の僧侶達の嫌がらせがあった。


けれど三蔵は、それに気付く事が出来ず。
また悟空は、伝えようとしなかった。


長雨が止んで。
三蔵が気付いた時には、悟空の全身は傷だらけだった。

それを三蔵が問いかけた時。
何故言わなかったのかと詰め寄った時。
悟空は、何故か。







笑って。


その時。
離れてはいけないのだと、感じた。











何をされても、子供は離れて行かない。
他に頼れる場所がないからかも知れない。

それでも良い、と思うようになったのは。
いつだっただろうかと、三蔵はふと考えた。
随分前のような気もするし、最近のような気もした。



雨の日は、感覚が狂う。
あの日から、ずっとそうだった。
失った、あの日から。

痛みも苦しみもごちゃごちゃになって。
最後には深遠へと、全てを引きずり込むのだ。


情けない事だと思う、それぐらいの余裕は出来た。
思考回路と感情回路は別物で。
未だにあの出来事に縛られている己がいる。

雨など、いつでも降るものなのに。
そう思っても、やはり止まらないのだ。


雨音は、子守唄にはならない。
落ちる雫は、恵みにはならない。

奈落へ引き摺り込むものだった。









それを、唯一繋ぎ止めるのが。

腕の中に閉じ込めたままの、小さな子供の存在。















くい、と小さな手が、三蔵の髪を引っ張って。
思考に沈んでいた意識が、現実に返る。

引っ張ったのは、誰かなどと確認する必要はない。
この部屋に今いるのは、自分ともう一人だけだし。
そんな命知らずな事をするのも、一人しかいない。


腕の中に閉じ込めた子供を見下ろすと。
不安そうに、瞳をふるふると震わせていた。




「………なんだ」
「………さむい……」
「……知ってる」




言いながら、三蔵は子供を軽々と抱き上げると。
胡坐を掻いた膝上に座らせ、毛布を手繰り寄せた。
それを被り、子供を布で包ませる。

子供はすっぽりと其処に納まっていて。
三蔵のアンダーシャツを握り、身体を摺り寄せた。



「お前がこんな日に外に出るからだ」
「……だって…止みそうだったから……」



言われた三蔵は、ふと思い出した。
今日の正午頃、ほんの少し、雨の勢いが弱まっていた事を。

それを止む合図だと思ったのだろう。
悟空は久方ぶりに外へと飛び出した。
多少濡れるくらいなら構わないか、と三蔵も思った。


だが予想に反し、一転して空は暗くなり。
外にいた悟空が帰って来る頃には、また土砂降りで。

挙句、悟空の服は泥だらけ、所々血も滲んでいた。
転んだのか、それともまた下らない連中の仕業か。
いずれにしても、悟空の身体はそれによって冷え切っていた。



すぐに服を脱がせ、風呂に入れさせた。
それにより、温もりを取り戻す事は出来たのだが。
湯冷めしてしまうと、悟空はまた寒がり出した。

幸い、三蔵の本日分の仕事は終わっていた。
そうして、ずっと三蔵は悟空の傍にいる。





仕事をするより、何もしない方が楽で。
何もしないより、子供を見ている方が楽。

いつの間にか、三蔵の中に入り込んでいた子供に。
何故こうなったんだろうと、思いながら。
たどたどしく紡がれる言の葉を、嬉しく思う自分がいた。





「もう一回、風呂は入るか?」
「う〜……」





三蔵の言葉に、悟空は首を横に振った。
入れば手っ取り早く温もるだろうに。

しかし悟空は、三蔵に密着して離れようとしない。




「こっちのほうがいい……」




ぎゅぅ、としがみついてくる小さな身体は。
離れてしまう事に、酷く敏感だと知っている。





「……甘えんじゃねぇよ」





そうは言ってみるけれど。
突き放す事が出来ないのも、また事実。




「三蔵、もっとだっこ……」
「……ふざけんな…」




言いながら、三蔵は悟空の身体を自分の腕で包み込む。



雨音が煩く聞こえてくるけれど。
そうしていれば、少しは誤魔化せる気がした。


雨音よりも煩い聲。
暗闇の中で輝く金色。
冷えた空気の中にある、温もり。

見上げてくる悟空の目の上に、キスを落とした。





「……今日、優しいね」
「…気の所為だろ」





三蔵の言葉に、悟空は首を横に振った。
優しい、と小さく告げて。
悟空は三蔵の胸に、己の顔を埋めた。

小さな呼吸音が、三蔵の鼓膜に届いた。
悟空の手は、三蔵の心臓の位置に置かれている。



「今日は……平気?」
「……さぁな」



雨の日の変化を、子供はよく理解していた。
理由までは判っていなくても。

苛立ち、焦燥し、奈落の底へと叩き込まれ。
そんな保護者を、子供は拙い思いで守ろうとしていた。
ただ傍にいるしか、出来ないけれど。

せめて雨音が聞こえなければいい、と。



「………止まないね」
「…梅雨だからな」
「……うん」



悟空の手が、三蔵の両の耳を塞いだ。




「……聞こえる?」
「…どっちが?」
「………雨の音」





耳を塞いでも、三蔵には悟空の聲が聞こえる。
小さな声でも、聞き取れた。

そして、雨音は。
尚も激しさを増したのか、僅かに鼓膜に届き。
三蔵は黙したまま、また悟空を抱き締めた。



「……降らなきゃいいのに…雨なんか……」
「そういう訳にも行かねぇだろ」
「だって」



無茶を言う子供に、諭してみれば。
泣きそうな顔で、こちらを見上げられる。

子供は、ただ三蔵に楽になって貰いたいだけ。
雨が降る度、殻の中に閉じこもってしまう三蔵に。
いつものように、戻って欲しいだけ。




雨が止めば、それは叶うから。


望みのない願いは、その所為。






「……悟空」
「…なに?」



名前を呼ぶと。
悟空の身体が、小さく震えた。


何故だろうと頭の隅で考えて、答えは直ぐに見付かった。
口に出して名前を呼んだのは、今日はこれが初めてだった。

雨の日は、滅多に名前を呼ばない。
何故か、そんな風になってしまっていたから。
突然の呼応に、驚いていたのだろう。



三蔵は悟空を抱いていた腕を外した。
途端に離れた温もりに、悟空が不安げな顔をする。



悟空の顎をとらえて、上向かせた。
金瞳が真っ直ぐに、三蔵を見ている。
寒さからか、悟空の唇は僅かに色を失っていた。

三蔵、と名を呼ぼうとするのを遮って。
三蔵は、悟空に口付けた。

子供をあやすような、触れるだけのキスをして。
悟空がとろとろと瞼を下ろす。
三蔵の耳に当てられていた小さな両手が、首に廻される。





「………さ…んぞ……」





解放すると、たどたどしく名前を紡ぎ出して。
悟空は離れまいと、三蔵に抱きついた。

子供の軽い重みが、心地よいと。
そう思うようになったのは、何時からだろう。






「………寝てろ……」













その言葉に、悟空はいやいやと首を横に振る。


煩い雨音は、まだしばらく終わりそうにない。