当たり前の幸福論





見詰め合うこと

傍にいること

触れ合うこと


ごくごく当たり前のように

毎日の風景の中に入り込んだ光景









当たり前、だから




………だから




















「可愛いですよね、悟空」





唐突な言葉に、三蔵は筆を動かす手を止めた。
顔を上げてみれば、満面の笑顔を見せる食えない男と。
その半歩程後ろで、にやにやと締まりの無い顔をした男。

筆を止めたついでに、三蔵はそれを置いて。
袂に入れていた煙草を取り出し、火を点ける。


「誰かさんが育てたとは思えない位ですよ」
「素直だよな、バカだけどよ」
「其処が可愛いんじゃないですか」


親バカ的トークを炸裂させている二人。
三蔵は紫煙を吐き出しながら、それを眺めている。

ついに沸いたか、と思いつつも。
こちらを見る二対の瞳は、明らかに面白がっていて。
なんらかのリアクションを待っているらしい。


相手をするのも面倒臭いのだが。
放って置けば、恐らく延々と続けられるだろう。
それもそれで、鬱陶しい。

三蔵は眉間に皺を寄せ、二人を睨み付ける。






「貴様ら、何が言いたい……」






苛々とした口調を隠さずに言えば。

二人は、これもまた楽しそうに笑みを深めた。














悟空を拾ってから、今年で6年が経つ。
相変わらずチビで大喰らいでバカ猿を地でいっている。

拾った頃に比べると、少しは背も伸びた。
しかし幼さを示す高い声音は変わらない。
表情がコロコロと変わるものだから、更に幼さを助長させる。


頭の中身に関しては、幼稚園レベルか。
八戒が家庭教師になって、少しはまともになったのだが。
一般知識はやっぱり足りていない。

閉鎖的な場所で育ったとしても、限度を知らない。

ひょっとして、自分が育て方を間違えたか、と。
らしくもない事を思った事もある三蔵であった。




知識の方は、いまいち基準値に達していないが。
それでも、悟空の心は真っ直ぐに育っている。

それこそ、幼稚園児と変わらないほどだ。
嫌なものは嫌だと言うし、好きなものは好きだと言う。
金色の瞳は、その感情をクリアに映し出している。



慈悲を重んじる寺院、とは名ばかりの場所で。
自分への誹謗と中傷を聞きながら。
たった一人しか、味方のいない空間で育って。

翳を知らない子供は。
金色の太陽を、いつも見上げて追い駆けている。







……それが不思議だと、この二人の知人は言うのである。













執務室の中、沈黙の蚊帳が下りた。
机越しに向けられる、二対の色の違う瞳。
それを憮然と睨み返す、紫闇の光。

しばらくそのままの状態が続くかと思ったが。
予想に反し、早くに沈黙は打ち破られた。


寺という空間には似つかわしくない足音が響く。
誰の仕業かなど、考えるまでも無い。
こんな空間で騒々しい足音を立てる人物など、一人しかない。

また何かしら壊していないと良いのだが。
文句を言われるのは、自分なのだから。



そして、程なくして。




「さんぞー、見てみてー!」





勢い良く、扉が開け放たれて。
その勢いのまま、室内に入ってきたのは、養い子。

爛々と輝く金色の瞳は、喜びに満ちて。
何処から走ってきたのか、肩で息をしている。
頬はほんのりと赤みを帯びていた。


綺麗な花を見つけたんだ、と。
悟空は手に持っていたものを、よく見えるようにと掲げた。




そして、まだ小さなその手には。
藤色の花が、大事そうに収まっていた。






「あのな、さっきな、これ見つけたの! 裏山のね……あれ?」




嬉々として早口で喋る悟空だったが。
来客に気付いたのか、言葉は一端止まり。
やがて、その表情がまた違った喜びに満ちる。



「悟浄、八戒! 来てたの?」
「ええ、つい先程から」
「相変わらず元気だねぇ、お前は」



駆け寄る悟空を迎え入れて。
悟浄と八戒は、悟空の柔らかな大地色の髪を撫ぜる。

その感触を、悟空は気持ち良さそうに受け止めて。
日向ぼっこしている子猫のような表情。
長い大地色の髪を束ねた紐が、ゆらゆら揺れる。


三蔵はそれをいつもの仏頂面で見ていて。
まだ然程短くは無い煙草を灰皿に押し付けた。
眉間の皺は、いつもより深い。

二人とじゃれている悟空がそれに気付く訳もなく。
唯一の友人二人に甘えている。



「悟空は今日は何処で遊んでいたんですか?」
「裏山の川んとこ。水冷たくて気持ちいいんだ」
「転んでびしょ濡れになったんじゃねぇの」
「してない! そんなにドジじゃねぇよ」



悟浄の言葉に、すぐさま反論を返す悟空だが。
どうだか、と肩で笑われてしまうだけ。
剥れた悟空は、悟浄からそっぽを向いた。

すると、向いた方向の都合により。
執務椅子に納まったまま動かない三蔵と、視線がぶつかった。



拗ねた表情をしていた筈なのに。
悟空はぱっと明るい顔になる。

進行の邪魔にもならないのに、悟空は悟浄を押し退けた。
悟浄が何かしら文句を言う前に、執務机に張り付いて。
持っていた花を三蔵に見せる。



「なぁ、これ、なんて花?」
「……杜若だな」
「かきつばた?」



繰り返した悟空に、小さく頷くと。
悟空はへぇ……と呟いてじっと花を見つめる。


「…少し季節外れだな」
「そうなの?」
「普通は5月中に咲いてるもんだ」


暦は、既に6月になっていた。
杜若の時期は終わり、今は花菖蒲の頃か。

だが、悟空に其処まで判るものではなく。
悟空も悟空で、深くまで追求しない。
ただじっと、花を見つめているだけだ。


藤色の花弁を見る度、悟空の瞳が柔らかくなる。
花一つに、一体何を考えているのか。
いつも突拍子な悟空の行動は、三蔵には予測し切れない。

早く水に挿さないと萎れてしまうのに。
悟空は手の中に収めたまま、動こうとしない。




それを見兼ねたのは、八戒で。
くす、と小さく笑って、八戒は花瓶らしきものを探す。




しかし、それらしきものは見当たらず。
どうしたものかと、八戒が考えていたら。



「いつまでも見てんじゃねぇよ」
「だってきれーなんだもん」
「萎れるぞ。嫌なら水に挿してからにしろ」



三蔵の言葉に、悟空は返事をすると。
執務机の隅に置いてあった空のコップを取った。

そのまま部屋を出て行こうとして。
一端足を止めた悟空は、振り返り。
後で遊んでね、と誰に向けたのか判別し難い事を言った。


おそらくは、三蔵に言ったのだと思うが。
三蔵の仕事がまだ終えられていない事は一目瞭然。
遊びに来た友人に構って貰いたいと思うのは、当然か。

構って貰えるなら、誰でもいいのだとは思うが。
やはりあの子供が心から求めるのは、一人だけだから。




執務室の扉が、重い音を立てて閉じられて。
軽い足音が遠退いていく。

三人はしばらく、その扉を見ていたが。
悟浄が小さく呟いた言葉が、またも沈黙の空気を破る。






「マジで、三蔵が育てたとは思えねぇんですけど」






その台詞に、三蔵が渋面を作ると。
悟浄の隣で、八戒が深く頷いている。

これは、キレていい所だろうか、と三蔵は思った。



「だってそうだろ? この陰険鬼畜生臭坊主が育て親だぞ」
「てめぇ、そんなに死にてぇか……」



いつも手元に持っている銀銃に手が伸びるが。
悟浄はさっさと八戒の陰に隠れた。

八戒に向かって撃つ事はしない。
後でどんな報復があるか判ったものではないからだ。
悟浄のように命知らずな真似をする気は無い。




「まぁまぁ……落ち着いてください」
「じゃあお前ら帰れ」
「そう言わずに」




この二人がいないだけで。
きっと三蔵のストレスは、半分以下になるだろう。

判っていながら、この二人組は此処にいるのだ。
出入り禁止にしてやろうかと思いつつ。
壁の一つや二つ、簡単に乗り越えれる連中なので無駄骨だ。



「でも、本当にいい子に育ってますよね」
「バカだけどな」
「一体どうやって育てたんですか? もう気になって」



そんな事を聞く為に、わざわざ寺院に来たのか。
よほど暇なんだな……と三蔵は勝手に結論付ける。

机に広げていた書類を整頓する。
あと半分ほど残る山に、溜息が出た。





「別に教育だのなんだのってのはしてねぇよ」





しているのは、躾ぐらいである。
これは事実だ。

悟空は拾った頃から、ずっと変わっていない。
背が伸びて、髪も野伸びて、足のサイズも大きくなった。
しかし、それ以外は何も変わっていない。




「……という事は、悟空は本当にいい子って事ですよね」





何故そんな結論に行き着くのか。
三蔵には少々理解が示せなかったが。
八戒はお構いなしな様子である。



「けどよ、三蔵様。一般知識が足りないのはやばいんでない?」
「そうですね、この間も危ない事になりそうだったんですから」
「…………んだと?」



悟浄の台詞は、事実なので流した三蔵だったが。
八戒の言葉に、紫闇に剣呑な色が覗く。

悟空は、そんな事は一つも言って来なかった。
何かあれば毎日、逐一報告してくるのに。
となると、三蔵の留守中の出来事か。




「二週間ほど前ですよ。あなたが遠方に行った時に……」









三蔵が面倒ながらも、遠方の仕事へ赴いて。
一週間ほど空けるから、悟空を二人に預けて行った。
寺院で一人でいるより、よっぽど良いと思ったから。

最初は駄々をこねて、ついて行くと言った悟空だったが。
最後の方は、拗ねた顔をしていたものの了解した。


一週間の間に、悟空は八戒の買い物などに付き合って。
賑わう市場に二人で行って。
あちこちの食べ物に気を取られ、案の定、逸れてしまった。

そして焦った八戒が見つけた時には。
どう見ても堅気ではない輩に囲まれていたのである。




おまけに。
悟空は、その状況がどんなに危険か判っていなかった。





八戒が事前に見付けたから良かったものの。
もう少し遅かったら、一体どうなっていたか。

一応、悟空も変な連中だとは思ったらしいが。
一緒に来たら食べ物をあげるから、と言われ。
ついて行くべきか、本気で迷っていたのである。



三蔵の言いつけがあったから。
安易についていく事は躊躇われたと言うが。

それにしても、警戒心が無さ過ぎる。
箱入り育ちの小さな子供と大差ない。





知らない奴に物を貰うな。
知らない奴について行くな。





何度となく、三蔵は悟空に言い聞かせている。
その都度、悟空は判ったと元気良く返事をするのだが。
やはり食べ物の誘惑は、あの子供にとって絶対なのだ。





「注意だけじゃなく、もっと色々教えるべきですよ」
「だぁな。このままじゃ、いつ何処で、どうなるか」





悟浄が肩を竦めて言った直後。
八戒が執務机から乗り出さんばかりの勢いで。

しかも、嬉しそうな、楽しそうな顔で。













「悟空、僕らが引き取ってもいいですよね?」













八戒の言葉に、三蔵の眉根が上がる。

悟浄は八戒と同意見なのだろうか。
何も言わずに、三蔵を見ているだけだ。