月下の惑い子














たった一つの太陽を追い駆けて


ずっとずっと手を伸ばして




やっと掴んだ、この光











どうか間違えないように



























「さんぞー、さんぞー」



呼ぶ幼い声に振り返ってみれば。
法衣の裾を引っ張って見上げて来る養い子。

大きな金色の瞳は、夜だというのによく煌く。
零れ落ちんばかりの、大きなそれ。
これは眠っている時以外の殆どは、保護者に向けられている。



拾った時を10歳程と想定して、今年で13になる。


最初よりも髪は伸びたが、背は低いままだ。
いや、少しは伸びているのだろうが、やはり小さい。
幼い顔立ちも世間知らずである所為なのか、垢抜けない。

声は変声期がそろそろ来るのではないかと思うが。
子供の声はまだ高いままで、耳元で騒がれると酷く煩い。



いつも自分の周りをちょこまかと走り回る子供。
今は夜であるからか、幾分静かではあるけれど。







瞳の奥に高揚としたものがあるのは、何故か。









時刻はもう子の刻に当たる。
子供は眠る時間だろう。

けれども、己の養い子はと言えば。
眠たそうに目を擦るものの、それだけで。
幾ら言っても寝所に戻ろうとはしなかった。


三蔵と一緒に寝る。

そんな事を言いながら。


執務机の上に積み上げられた下らない書類。
これはしばらく片付きそうになかった。

三蔵とて、さっさと寝てしまいたいのだが。
此処でサボると、明朝余計に仕事をしなければならなくて。
そんな面倒臭い事をするなら、さっさと終わらしたい訳で。


意外と仕事はスムーズに進んでいた。
子供が半分寝ているようなものだから、邪魔が入らないのだ。

時折構って欲しいといわんばかりの目が向けられるけど。
仕事詰めである事を、流石にもう理解したか。
拗ねた顔をしながら、大人しくしていた。





そうして、仕事が半分ほどに減ったところで。

窓の外を眺めていた悟空が、傍に寄ってきた。






法衣の裾を引っ張る手は、随分小さくて。
発育途上、と言っても可笑しくないのかも知れない。




「なぁ、太陽がある」
「はあ?」



可笑しなことを言い出した子供に、三蔵は筆を止めた。

外は真っ暗だ。
月と星と、篝火程度の明かりしかない。
天地を照らすような大きな光は、何処にもない筈だ。


眠気で頭が可笑しくなったか。

そう思ったが、悟空は至って正常のようで。
真っ直ぐに見詰めてくる顔は、真面目なものだった。



「何を言い出すんだ、テメェは」



取り合えず、反応してしまったので無視も出来ない。
一先ず、謎の言語を解読せねばなるまい。

筆を硯に置くと、悟空が三蔵の手を引っ張る。
仕方なく立ち上がると、窓辺へと連れて行かれた。



「ほら、太陽」
「……何処にあるんだ、そんなモン」



真っ暗な空間を見回しても、そんなものはない。
やはり何かを見間違えたのではないだろうか。

人間と言うものは、見たいと思ったものを見るものだ。
思い込みから何かを見間違う事はよくある。
あれはこれなんじゃないか、と。


理解できない三蔵に焦れて。
悟空は窓を開けて、乗り出す勢いで空を指差す。

空にあるのは、やはり月と星と闇夜だけ。
けれども悟空は確かに其処を指差していて。




「……ある訳ねぇだろ。寝惚けてるなら、さっさと寝やがれ」
「寝惚けてねぇもん!」
「さっきまでうたた寝してたのは何処の誰だ」




部屋に設置されたソファ(殆ど悟空用)に座って。
お気に入りのクッションを抱きかかえて。
半分意識の飛んだ顔で、悟空は窓の外を眺めていた。

今は瞳に光が戻っているけれど。
つい数秒前まで、睡魔に手招きされていたのは事実だ。


筆も置いてしまった事だし、もうサボろう。
そう決めて、三蔵は煙草を取り出した。



「今は夜だ。太陽なんか何処にもねぇよ」
「違うよ、ちゃんとあるもん」



まだ言うか。

このまま放って置いてもいいのだが。
どうせ直にまた眠りに誘われるのだろうし。
けれども、放置すると明日には拗ねて、色々面倒だ。





……話に付き合ってやるしかないのか。

自然と溜息が漏れた。






「……で?」



煙草に火をつけ、随分下にある悟空を見下ろすと。
悟空は「へ?」ときょとんとした顔をしている。



「何処に太陽があるんだ」



それぐらいは聞いてやろう。
終わったら、今日はもう寝る。
決めて、三蔵はさっさと次第を済ませる事にした。

三蔵の言葉に、しばし間の抜けた顔をしていた悟空だったが。
言われた事を理解すると、ぱっと破顔する。



「あれ! あそこ!」



嬉しそうに悟空が指差す。
先刻よりも判るようにと、窓から乗り出して。

けれども、指差す先にはやはり空しかなくて。
空に浮かんでいる物と言えば。
何度見ても、月と星と闇夜しかない。




……月と、星と、闇夜。

月と。








………ああ、そう言うことか。









今日は満月だ。
心なしか、月が大きく見える。

青白い光沢ではなく、鮮やかな金色を持って。
月は闇夜を照らし、明かりなどなくても十分に道が見える。
其処此処で鈴虫が鳴いていて、情緒を漂わせている。



「……猿語はよく判らんな」
「猿じゃない!」



呆れた風に煙草の煙を吐き出して言えば。
最早条件反射か、そんな台詞が返って来る。


本当によく判らない。
月を太陽と呼ぶなんて、きっと悟空しかいない。

そして、多分。
それを見ただけで直ぐに理解出来てしまうのも。
きっと自分だけなのだろうと、三蔵は思った。



「どう見たってあれは太陽じゃねぇだろ」
「だってきらきらしてるもん」
「…テメェにとって光物は全部太陽か?」
「そうじゃないけど」



抗議する悟空に、三蔵は取り合わない。


確かに、この子供は光物が好きだけど。
月を太陽と言い出すなんて。

けれども、三蔵の金糸を太陽のように思っているのだ。
金色のものは、自然と其処にイメージが行き着くのだろうか。



素っ気無い態度の三蔵に、悟空はまた剥れてしまう。



月は、太陽であると。
全く違うとは言い切れないと、三蔵はふと思う。

あれは太陽の恩恵を受け、光を放つ。
あの光が太陽を持ってして輝くのだというなら。
悟空の言う事は、あながち外れていないかも知れない。


隣で拗ねた顔をした悟空。

唇を尖らせて、窓の桟に腕を乗せ、その上に顎を乗せて。
半目にされた目は、露骨に不満を表している。




くしゃり、と大地色の柔らかい髪を撫でる。
気落ちした瞳が、ゆらゆらと向けられる。





「……太陽じゃないの?」
「月だろ」
[



何処からどう見たって、そうだ。

どんなに太陽の恩恵を受けていると言っても。
“月”が“太陽”なる事はない。




「……だって凄く明るいよ」




確かに、今日の月はいつもよりも光が強い。
青白い、頼りない優しい光ではない。

けれども、月は月。
他の何者でもないのだ。
子供がどんなに見たとしても、あれは、月だ。


淋しそうな顔をするのに、少し胸の奥が痛むのは気の所為か。


どうして、太陽だと言うのだろう。

突拍子な事をよく口にする子供ではあるけれど。
今回のような発言は、流石に可笑しい。




「何故、そう思った?」




月を、太陽だと。
今時分が夜半であると判らぬ筈はないだろう。

太陽は空が明るい時に見えるものであって。
それが沈んでから、闇の空となり。
次に太陽が昇るまで空に在るのは、月と星であると。


500年の間、暗く狭い岩牢にいた時でも。
この現実は変わる筈のない事。

何処にいても、どんな時であっても。
太陽が沈めば、昇るの月と星。
次に太陽が昇るのは、数時間も後の話。



けれども、悟空は見間違いで言っていた気はないようで。

気落ちした金色の瞳は、まだあれが太陽だと。
信じている───信じたいと望んでいるようにも見える。








泣きそうな、顔で。









三蔵の問いに、悟空の表情に翳りが落ちた。
拗ねている顔とは少し違う、それ。

法衣の裾を、また小さな手が握った。





「……オレも、よく判んない」





小さな声の返事に、三蔵は溜息を吐く。

けれども、悟空はまだ何かを言いたそうで。
仕方なく、続く言葉を待ってやる。


法衣を握る手が震える時は。
怯えている時か、不安な時かのどちらかで。
多分今は、後者と見て良いのだろう。

三蔵は煙草の灯を窓の桟に押し付けて消し、そのまま捨てる。
火事になったって別に構いやしなかった。



「……判んないけど」



悟空が三蔵の胸に顔を埋めた。
抱き付く小さな塊は熱かったけれど、好きにさせる。





「でも、太陽だって思ったんだ」





今が夜だとか、小さな光は星だとか。
そんな事は、ちっとも頭になかったんだ。