優しい毒











黄昏の海を出て

二人は二度ともう巡り会えないの














黄昏だけを抱いて

あの日の波はもう深い海の底


哀しみを知らない蒼い夢を見て眠っている






























「焔!!」





名を呼んだのは、未だに変声期を迎えぬ高い声音。
その音は空気を震わせ、焔の鼓膜に届き、内部へと浸透していく。
何よりも心地よいその音が、焔は好きだった。

それと同時に駆け寄ってくる軽い足音も、とても気に入っている。
いつも無邪気に名を呼んで、距離をゼロに持って行ってくれる。


人と常に距離を保つ焔に、その声の持ち主は決して物怖じしない。


立ち止まって声のする方に目を向ければ、眩しい金色が其処にある。
自分の右と同じ色だというのに、己よりもずっとずっと、何よりも明るい光の色。
全てを照らす、まるでそれは太陽の光だ。

500年の昔から、ずっとそれを望んでいた。
ずっとずっと、きっと誰よりも強く、手を伸ばして望んで。






……ようやく、掴まえた。






この腕の中に。










優しい笑みを讃えるダーク色の持ち主に、悟空は力いっぱい抱きついた。
気持ちだけ伸びている大地色の後ろ髪が尻尾のように揺れる。

抱き締めると陽の匂いがした。




「おっかえり、焔!」
「…ああ、ただいま」




まるで其処だけ、光が溢れているようだ。
先刻まで色のなかった世界が、嘘のよう。

自然と焔の頬も緩む。
端正な顔が浮かべた笑みは、少しだけ淋しさを見せたが、まるで慈愛のようにも見えた。
腕の中にすっぽりと収まった少年を見詰めるオッドアイは、酷く優しいものだ。


少年の方はと言えば、放って置かれたお返しとばかりに、強く強く焔に抱きついている。
きっと痛いと言っても離そうとはしないだろう。

けれども、好きにさせる。
この細い腕から伝わる強い感情と、温もりが好きだから。



「良い子にしてたか?」
「うん。あのな、是音にな、カード教えてもらってたんだ」



一緒にやろうよ、と。
腕の中から抜け出した子供は、今度はその幼い手で焔の手を握る。
そのまま引っ張って歩き出して、焔もその意に沿って足を前へと進める。

傍から見て、どんなに奇妙な光景だろうか。
恐れられる闘神たる者が、幼子に手を引かれて歩くなど。





……遠い日に見た、不機嫌な顔の太陽と、果たしてどちらが不似合いだろう。





歩幅の違いで、気付けば自然と二人は並んで歩いていた。
500年の昔よりも成長したというのに、まだ頭一つ分も届かない、幼い子供。
まだ見下ろさなければ、あの綺麗な金色の光は見えない。

それでも抱きついてきた時には、以前よりも顔が近い。
昔は腰辺りまでしか身長がなかったから。



平仮名しか読めなかったのに、いつの間にか漢字も読めるようになった。
まだ難しいものは読めないし、もともと読書は好きな方ではない。
嫌い、とまでは行かないのだろうが、じっとしているのが耐えられないのだろう。

そんな悟空が是音にカードを教えて貰っているとは。
果たして、上手く覚えられたのだろうか。


煮詰まって投げ出して、是音を困らせていたのではないか。
だとしたら、そんな部下の顔も少し見てみたいものが。




「あのな、是音ってカードすげー強いんだ。オレ全然勝てないんだよ」
「イカサマでもしてるんじゃないか? まぁ……是音だからな」
「もう悔しくってさ。なんで負けるのかな?」




それは思っている事が素直に顔に出るからだ。
判ってはいるけれど、言ってやらない。

言ったところで、悟空には中々ポーカーフェイスは難しいだろう。
普段から感情を隠す練習をしていないと、いざという時に全部ボロが出てしまう。



「悟空はまだ始めたばかりだろう。その内勝てるようになる」
「そっかなぁ……でも紫鳶にも負けたんだよ」
「それも直に勝てるようになる。慣れていないだけだ」



だから今は、それだけ言って。
柔らかい大地色の髪を撫でてやると、頑張る、と言って悟空は笑った。



「焔は、カード強いの?」


突然の悟空の質問に、焔はどうだろう、と曖昧に答えただけだった。

あまり遊びと言うものをした記憶がない。
相手もいなかったし、何より自分のその気がなかったから。


「判んないの?」
「した事がないからな」
「つまんなくね? それって」


遊びは大事だと、大方是音辺りに吹き込まれたのだろう。
真面目な顔をしていうものだから、苦笑が漏れる。


「やった事ないなら、オレと一緒にやろうよ」
「気が向いたらな」
「それじゃやだ、やるの!」


経験がないという焔なら勝てると思ったのだろうか。
悟空は殊更嬉しそうに焔の腕を引っ張る。

どうにもそんな悟空に甘い自分がいる。
このまま言ったら、遅かれ早かれ、輪の中に自分も参加することになるのだろう。
常ならば、それは御免なのだが………





この笑顔を壊す気には、どうしてもならないから。



















最奥にある突き当たりの部屋は、悟空の部屋だ。


あまり広くはない。
広すぎる部屋は淋しくなるからと、こぢんまりとした此処で落ち着いた。

その理由の他に、最奥の突き当たりならば間違えたりしないから、と。
フロアさえ間違えなければ、迷う事はない。
壁伝いに外へ外へと向かって歩けば、自然と其処に辿り着く。


其処の扉を開ければ、窓際にベッド、部屋の角に本棚と箪笥。
それから決して大きくはないテーブルと、四人分の椅子。




「おう、大将」




その椅子の一つに座って片手を上げたのは、是音。
紫鳶は壁に背を預けて立っていた。

悟空が紫鳶に向かって座ればいいのにと言っても、あまり聞かない。
最初は気にかけていた悟空だったが、最早諦めたか、あまり言わなくなった。
是音は勝手知ったるなんとやら、と言った風である。



「随分早いお帰りだったじゃねぇか。悟空、お迎えご苦労さん」
「うん!」



是音が悟空の頭をぽんぽんと叩けば、嬉しそうに返事をする。

悟空は撫でられるのが好きだ。
だからこうされると、まるで仔犬のように気持ち良さそうに目を細める。



「是音、カードやろ! 焔も一緒に、皆で!」
「ええ? やんのかよ、大将」
「……悟空が言うからな」



焔の一言に、是音は呆れたような顔をした。
が、カードを配ってくれと悟空に渡されると、手際よく分けていく。

ふと悟空の視線が壁際に立ったままの紫鳶に向けられて。



「紫鳶もやるの!」
「……はぁ……」



皆で、と言ったのが聞こえていなかったのだろうか。
紫鳶は少々面食らったような顔をする。

焔と悟空が腰を落ち着かせると、紫鳶も空いている椅子に座った。
その間も悟空の視線はじっと是音の手の中にあるカードへと向けられている。
是音は特に気にする様子はなかった。




「ポーカーでいいよな。ババ抜きは時間がかかるから」
「なんでもいい!」




是音の問いかけに答えるのは、やはり悟空だけだ。
焔と紫鳶は、椅子の背もたれに体重を預けて分けられるカードを見ている。

悟空は自分のカードが配られると、待ちきれないという顔でカードをひっくり返してみている。
それなりに良いカードが揃っているのか、表情が明るい。
判り易い悟空に、思わず口元が緩んでしまう自分に気付く。



時の運は、何処まで子供の味方だろうか。
























……例えば。

例えば。


………もしもの話だ。




このまま優しい時間が流れたなら、どんなに幸せなことだろう。
それを誰が望んでいないとしても、自分は望んでいるから。

このままでいあられたら、それはどんなに幸せだろう。


本来の時間軸を外れて、堕ちても構わない。
何を違えても構わない。

こんなに幸福な事はない。
愛する存在が腕の中にいるのだ。
手を伸ばせば、必ず届くのだ。

こんなに幸せな事はない。



……もしもの話だ。



このまま、優しい夢の中にいられたら。
このまま、優しい夢魔に食われたら。
このまま。

それはきっと、何より甘美な誘惑。





この身を毒が蝕んでも、その毒さえも甘美な餌。


そして自分は、躊躇う事無くその毒に手を伸ばすのだろう。
だってそれは、疑似餌などではない。
確かに其処にあるものなのだ。

その甘美な餌を手に取る事が出来るなら、身を蝕む毒など、ないのと同じだ。



優しい甘い毒。
蝕まれる事さえ。

戻れなくなる。
時間軸を壊したくなる。
このまま止まってしまえと。



腕の中に閉じ込めて。

何も見ないように。
何も聞こえないように。


知らなくていい、外の事など。
知らなくていい、呼ぶ聲など。

自分の声だけが届けば良い。
自分の事だけを見れば良い。
他は何も、判らなくて良い。





それは、なんて優しくて甘い毒なのだろう。



.