santih





翌日、空は何処までも青く澄んで広がっていた。
けれどそれと反比例するように、悟空の心には暗い雲がかかっているままだった。

太陽は既に高い位置に上っていて、寝起きの悟空の鼓膜を焼く。
じりじりとした痛みに悟空は眉根を寄せて、今ならきっと三蔵と同じような不機嫌な顔が出来ると思った。
勿論、彼と全く同じような顔は出来ないと思うけれど。

室内を見回すと、既に冷めてしまっている朝餉がテーブルの上に置かれていた。


流石にずっと寝転がって眠ってばかりいると、身体が鈍る。
動く気もないのだが、あちこちが軋んだ音を立てるのは否めなかった。

起き上がったとて、誰が相手をしてくれる訳でもない。
それでも眠りっぱなしと言うのは身体に良くないんだと、参拝に来た老夫婦から聞いた気がする。



窓を開けると、草の香りが風に乗って運ばれて来た。
いつもなら良い天気だと思えるのに、外で思い切り遊べると嬉しいのに、今日は少しもそんな気持ちになれない。

どうしてか、なんて判りきっている事だ。


彼がいないからだ。
あの太陽が傍にないから、こんなに世界が暗いんだ。

大地を照らす太陽は煌々としているし、空は何処までも蒼く大きいけれど。
手をつけた窓枠は陽光を浴びていた所為で、少し熱を持っているけれど。



何故か、全てが灰色で。





「………飯、食おう…」







其処から逃げるように、悟空は空から目を逸らした。













三蔵が一緒の時は何を食べても美味しい筈なのに、今は味さえも判らない。
それでも食べなければ腹は減るし、空腹感と言うのはどうにも嫌いだから、詰め込むようにして胃に収めた。


胃が落ち着いたところで、悟空は背筋を伸ばした。
思っていたよりも固くなっていたようで、少し痛い。

誰か遊びに来ないかな、と思いつつ、当てになる人物は特に思い浮かばなかった。
元々この寺院内で、悟空の味方は三蔵以外にいないと言って良い。
かと言って街に下りる気分にもならないし、何より───……



(……早く帰って…来る、かも……知れないし……)



最高僧という肩書きを持つ彼が、それほど気楽に行動できる人物ではないと、一応判っているつもりだ。
それでも三蔵は、どうにか仕事を早めに切り上げて帰ってきてくれる事がままあった。

煩くて仕方がないから、と。
お前がいつまで経っても呼ぶのをやめないから、と。
悟空が意識してのことではないけれど、三蔵は早く帰って来る時、いつもそう言っている。


今回も早く帰ってきてくれるとは限らない。
それでも、もしも早く帰って来た時、「お帰り」がいえなかったら……淋しいような気がするのだ。



(……帰って来たら、笑わなきゃ)



不安な顔なんて見せてはいけない。
なんだかんだ言って三蔵は優しいから、心配させてしまうだろう。
彼に迷惑をかける事は、悟空としても良しとする所ではない。

だからいつも通り、彼が帰って来たら笑顔で迎えよう。
出来る筈だ、いつもそうして迎えているのだから。


一人なんて平気だよ、と。
淋しくなんかなかったよ、と。
我慢できるようになったよ、と。

言ったら三蔵は、口端を少し上げて、悟空の頭を撫でるのだ。
それから「ガキの癖に背伸びしてんじゃねぇよ」と呆れたように呟くのだ。



見破られるのは判っている。

それでも、泣き顔を見せるよりはずっとずっと良いと思う。



寝巻きのままでぼんやりしていたら、扉を叩く音が鼓膜を震わせた。
三蔵の不在は知られている筈だから、いつもならあり得ない事だ。

寺院の僧侶達で、悟空に向けて敬意を払う者は殆どいない。
寧ろ三蔵の庇護を受けている悟空を疎んじている者の方が多いし、隙あらば追放しようと思っている者もいる。
そんな者達ばかりの中で、悟空を気遣うように扉をノックする者は滅多にいない。


多分、食事の食器を下げに来たのだろう。
ノックしたのは、悟空が眠っているかどうかを確かめたいのだ。

悟空は急いでベッドに戻って、シーツを頭からかぶって丸くなった。
起きていたら何を言われるか判ったものではないから、そうしている方が安全だ。
卑下する言葉は対して怖くないけれど、やはり気分の良いものではない。



(……三蔵は、気にするなって言うけど)



自分だって気にしていないつもりだった。
三蔵が傍にいてくれれば、それだけで、周りがどんなに敵だらけでも平気だった。

でも、今はその太陽は傍にない。


ギィ、と扉が軋んだ音を立てて開かれる。
努めて息を殺して、悟空は気配が去っていくのを待つ。



「寝ているか?」
「ああ」
「全く、何故こんな奴の世話を……」



この程度の罵倒の言葉は、悟空が寝ていようがいまいが変わらない。
何故妖怪なんかを寺院に置くのか、とか。
この寺院が穢れる、いつか仲間を呼んで皆殺すつもりだ、とか、そんな事ばかり。

三蔵がいないと判っているからだろうか、いつもより選ぶ言葉が嫌悪を増している気がする。



(……でも、平気だよ)



だって、三蔵が帰ってきてくれたら、それだけでもう何も怖いものなどなくなる。
暗闇だって、一人で待つ事だって、怖くもなんともない。

だからこんな中傷の言葉も、なんともない。
耳に残って嫌な感じがするのは、今だけだ。




「それより、本当に寝ているのか? あの妖怪」
「此処数日ずっとああだったから、寝てるんだろう」
「俺達の油断を誘っているのかも知れないぞ」



別にそんな事しなくたって、彼等に負けるつもりはない。
喧嘩をして三蔵に迷惑はかけたくなかったけれど、正面からぶつかって勝つ自信はある。
この頃は手加減する事も覚えたし、無理に手出ししなくても牽制する事も覚えた。

確かに子供ではあるけれど、力は大人達に負けない。



「確かめてみるか?」
「よせよ、噛み付いてくるぞ」



まるで野生の動物に対して言っているようだ。
いや、彼等にしてみれば同じようなものなのだろう。
得体の知れない子供に、随分な警戒態勢だ。

此処まで警戒してくれているのなら、何かされる事はないだろう。



「……いや」



だから。






「噛み付かれない、いい方法がある」










この時は、野生動物並みに五感が働く事に感謝した。











布団を剥ぎ取られる直前に、悟空は其処から飛び出た。
予想していたよりも早い反応に驚いたらしく、二人の僧侶は苦々しい顔をしている。

ずっとこの部屋にいたかったけれど、こうなってしまっては仕方がない。
此処で暴れて部屋を散らかして、後で怒られてしまうのも嫌だ。
何より、彼等の好きにさせるつもりなんてなかった。


とにかく部屋を出るのが先決だ。
廊下に通じる扉よりも、窓の方が手っ取り早い。

そう思って、悟空はベッドヘッドを蹴った。



「ちっ! 逃がすか…!」



此処で逃がしたら、後で自分にどんな制裁が降りかかってくるか。
今まで悟空に嫌がらせをした僧侶が、三蔵の手によって厳重に処罰されているのを知っているのだろう。
悪態をついた僧侶の声は、半ば恐怖に引き攣っているようだった。


二人の僧侶が投げた紙切れが悟空の脇をすり抜け、壁に張り付いた。
恐らくそれは呪符だろう────岩牢にいた頃、格子の全面に張られていたものと、同じだった。

構わず窓に足をかけようと昇ると、見えない壁に弾かれた。
体勢を崩した悟空は、そのまま背中から床に落ちる。
一瞬呼吸が止まって、次の瞬間にはむせ返っていた。



「退路は塞いだが……どうするんだ?」
「これを使えばいいんだよ」



袖の袂から取り出された、別の呪符。
それを視界の端に捕らえた悟空の警鈴が鳴った。

早く此処から離れないと、危険だ。
何か問題を起こしたら、保護者に迷惑がかかる。
そうしたら、傍に置いて貰えなくなってしまう。



「暴れるなよ……って言っても」



思ったよりも派手に背中を打ちつけたようで、まだ動けない。
けれど視界はクリアであるから、徐々に近付いてくる手がはっきりと判った。

その手の中に在る、忌々しい呪符も。



「動けやしないと思うがな」