partition street








例えば、その瞬間に
どんなに印象強く根付いた事でも






後で結局、忘れてしまうと言う事は



つまり、それだけ










必要ないという事なのだろうか。



























「悟浄の馬鹿! エロ河童! 赤ゴキ!!」



最早慣れてしまうほどに聞き飽きた罵声だ。
もともと、悟空はボキャブラリーが多い方ではない。
口喧嘩になれば勝ち目はないのは、誰の目にも明らかだった。

相手が三蔵であれば、まぁ、喧嘩をする前に悟空があまり逆らわない。
八戒であるのならば、怒った悟空を宥める事が出来るだろう。


しかし、罵声を浴びせられたのは悟浄だ。
牽制して黙らせることも出来なければ、宥めることもしない。

冷静な状態であれば、もう少しまともな対処が出来ただろう。
適当にあしらいながら、遠回しに気分を和らげてやる。
合間合間に少々ふざけた事を言いながら、それでも相手のことを気遣うぐらいの余裕はあった。


けれども。



「てめぇが馬鹿だ、この軽量脳ミソ猿! 何度言やぁ判んだよ!!」



今は悟浄も激昂し、言われれば言われるだけ、怒髪点をついてしまう。



「人語理解出来てんのか、この猿!!」
「猿言うな! そっちだって河童の癖に!!」



悟浄も頭の隅では判っているつもりだ。
落ち着いて話をしなければ、悟空も益々憤ってしまうという事ぐらいは。
このままでは堂々巡りをするだけで、一向に進展が見られない事も。

判っていても、感情のセーブは容易ではない。
いつもなら抑える事ぐらい楽なのに、こういう時に限ってストッパーは壊れてしまって働かない。




「………もういい!!」





だから、泣きそうな顔で部屋を出て行かれても、





「おお、こっちだってもううんざりだよ!!」









そんな言葉しか、出てこなかった。


















荒々しく締められた扉をしばし見詰めてから、悟浄は舌打ちした。
ジャケットのポケットに手を突っ込めば、簡単に目当てのものが見付かった。
言わずもがな、煙草である。

一本取り出して咥えて、火をつけようとする。
が、ガス切れでもないのに、なかなか火は灯ってくれなかった。



「………っの…!」



カチカチと、乾いた音だけが静まり返った室内に響き渡る。
先程までの騒々しさがまるで嘘のようだ。
こんな小さな音が耳障りに聞こえるぐらいに、静かだなんて。


今は三蔵も八戒も、此処にはいない。

三蔵は煙草が切れたついでに、何処かで飲んでいるのだろう。
酒場は嫌いな彼だが、酒は好きなのである。
帰ってから騒がしい二人に尽き合わされるのを厭うたというのも理由になるだろう。

八戒は一時間ほど前に買い物に出掛け、まだ帰って来ていない。
大方、主婦よろしく迷いながら安値を探しているのだろう。



「……あー、くそっ」



結局火が点かず終いで、悟浄はライターを放り投げた。
カタンと軽い音を立てて、それは備え付けのテーブルにの上に鎮座した。

ちらりと転がったライターの横を見遣れば、灰の積もった灰皿がある。
今朝から吸い通しだったのだから、当たり前と言えば当たり前の事だ。
だが此処まで吸っていたのかと自覚したのは、この瞬間が初めてだった。

三蔵のも混じっているだろうが、多くは悟浄が築き上げたものだろう。
八戒が帰って来たら、又何かしら煩くなりそうだ。



「……あーあ」



小言に付き合うのも面倒だし。
かと行って外に行くのも面倒だし。
増して、出て行った小猿を探すなんて気分は毛頭ない。

さてどうしたもんかと思いつつ、悟浄は天井を仰いだ。


煙草は吸えない。
本を読むなんて気にはならない。
揶揄って遊ぶ相手もいない。

そうなると必然的に暇になってしまう。
このまま部屋の虫になっていようか。



「……猿は…どーせ腹が減ったら帰って来るだろうしな」



うんざりだとか言っていた割に、その程度には気になった。
だって今の騒ぎが知れたら、保護者達が煩いに決まっている。
言い訳のように続いて考えたその事柄に、阿呆か、俺は、等と呟いた。

静かな室内では、その声さえもよく反響する。



「……煙草も十分あるしなー」



吸えないけれど、不足はない。
これで益々、外出する理由も気分も萎えてしまった。



「……あ」



ふっと、悟浄の頭に浮かび上がる事。
思えば、自分は随分と女とご無沙汰ではなかったか。

この男所帯、あの面子で、三蔵はとくに淡白なようだが、自分は違う。
普段からエロ河童だのなんだのと呼ばれているが、その原因が己の振る舞いによる事だという事は自覚している。
性欲は人並みにあるし、溜まればそれなりに辛いものである。


旅に出てから、女を抱く頻度は激減した。
一所に留まっていられない上、移動時間の方が長いのだから当然だ。

街についてからは買出しに付き合わされたり、勝手な行動は厳禁。
一人部屋の時以外は、よく悟空と相部屋にされるから、構ってやらないと直ぐに拗ねて、ついでに保護者達に単独行動を言い付けられる。
歓楽街に行くような暇など、ないも同然だったのだ。



「……ま、別に溜まってる訳じゃねぇけど」



久しぶりに行ってみようか。
あの、他人に無関心で、けれど全てを赦す場所へ。








それなりに大きい街なので、歓楽街も広い。
道形が少々狭いのは、こういう場所ではよくある事だ。
大きな通りの方が少ない。

空は夕闇を纏い始め、この全てを赦す街が目覚める時間を迎えつつある。
昼間も酒場は開いていようが、やはり夜の方が賑わうものだ。



(あー、なんかすげー久しぶり)



いつから行ってなかったんだっけと思いつつ、思い出せなかったが気にしなかった。

元々、自分はこの世界にいたのだ。
賭け事をして稼いで、女を抱いて、そして帰路につく。
偶にいちゃもんをつけられて、それは蹴飛ばしてしまえば終わり。
やはり、そういう世界の方が己は落ち着くのだろうか。



(おっ)



路地の端に立つ女が目に付いた。
客引きであろう事は、すぐに判った。



(あー、でも……)



女に歩み寄ろうとした脚が止まった。
このまま行けば、以前のようになるのだと言う事は判っている。
それが嫌いではないという事も。

一夜限りの愛を囁いて、束の間の夢世界へ導かれる。
悪くはないし、それで生きていた。
だから、やり方を忘れる事なんてないし、何も厭う事などない筈だ。


けれど、脚は止まってしまった。



(…まぁ、溜まってる訳じゃねぇんだしなぁ)



別に無理にでもやりたい訳ではないし。



(……他行くか)



くるりと踵を返せば、其処からは何事もなかったかのように脚が動いた。





何処へ行こうかと思って辿り着いたのは、やはりと言うか、酒場だった。
バーと言う程上品な空気ではないし、どう考えても堅気でない連中もいる。
けれども悟浄は、気にする事無く扉を開いた。

カウンター席に座ると、マスターが無言でこちらを見た。
キツいの、と言えば、なんの反応もしないままに酒棚へと向かった。



(……そういや、一人で飲むのは久しぶりだな)



宿の食堂で酒を飲む事はあったけれど、大抵誰かが横にいた。
それは殆どが八戒で、旅の愚痴り合いになっていた。

三蔵の場合は、相手が相手なので無言で飲んでいた。
隣にその存在はあるのだが、一緒にいる訳ではない。
そこそこ飲んだと自分が判断した所で、勝手に部屋に引き上げていた。

悟空はまだ酒が飲めないし、飲んだとしても即潰れてしまう。
一緒にいる時は、悟空は専ら酒の摘みを突いていた。


やはり一人で飲むのは久しぶりだ。
以前はいつだって一人だったのに。



(……よくやったよな、俺も)



よく今まで我慢した。
そのご褒美だなどと思いつつ、悟浄は差し出された酒を一気に飲んだ。

ついでに摘みを注文すると、マスターはやはり返事をしない。
けれど仕事はしているので、特に文句はなかった。
寧ろこんな風に、はっきりとした壁を作ってくれている方が色々と楽だ。


他人とは隣にいるけれど、決して一緒にいる訳ではない。
そんな場所。

だから悟浄は、此処にいる。
誰がどんな生まれで、どんな生き方をしていても、この場所では関係ない。
今此処にいると言う事実だけが、全ての存在を許容している。





だから血のように紅い髪も、紅い瞳も、此処ではどうでも良いものだったのだ。

それは酷く冷たくて薄くて、けれど楽な繋がりだった。