partition street





ざわざわ、と。
変わった空気に、悟空は脚を止めた。

辺りを振り返って見渡してみれば、明らかに己がいるには不似合いな場所である事にようやく気付く。



悟浄と喧嘩をして宿を飛び出してから、何処に行こうか定める事もなくふらふらと歩き回っていた。
あんな言い方をしてしまった手前、今更戻る事なんて出来ない。
気分が落ち着いた訳でもなかったから、きっとまた喧嘩になるだろうと言う事は判っていたし。

一先ず、三蔵と八戒を探す事にして、広い街を歩き回った。
歩き疲れたら適当な場所で少し休んで、そしてまた探し出す、それを繰り返した。


別に彼等に用がある訳ではなかったが、空は徐々に夕闇が支配して来ており、一人でいたくなかった。
大きな街だから、陽が落ちてもしばらくは明るいだろうと思う。
けれど、それとこれとは別なのだ。

大きな街はそれ特有に冷たい空気を持つ事がある。
今回はそれに当て嵌まっていて、悟空はなんだか自分が世界で一人ぼっちのような錯覚を覚えたのだ。
そんな場所で、太陽が見えなくなっても一人でいるなんて、嫌だった。



(……悟浄の馬鹿)



彼の所為で自分はこうなったのだと、場違いな憤りをぶつけてみる。
当然、相手は此処にいないので意味は無い。



(悟浄があんな事言わなきゃ、こんな歩き回らないで済んだんだ!)



全ての原因は彼にある。
彼の言った一言の所為で、自分は宿を飛び出したのだ。
そして宿に戻る事も出来ずに、保護者を探して歩き回っている。

そうだ、全ては彼が悪い。
そう決めて、八戒を見つけたら煙草の事をチクってやろうと子供のような仕返しを心に決めた。






そうして、只管保護者を求めて歩き回って。

昏くて明るい、賑やかだけれど何処か冷たい場所へ辿り着いていた。










(あ……っと……)



見回せば、柄の悪い男達が横行し。
ネオンに彩られたビルの下では、艶やかに着飾った女が男達を値踏みし。
狭くて暗い路地の隙間では、ボロ絹を纏った人間が寝転んでいる。

あちこちにある看板を見れば、どう考えても怪しい絵や店名が描かれていた。
悟空はこういった場所に縁もなく、知る筈もないけれど、それでも、



(……やべーとこに来ちゃったかな……)



本能は正常に働いている。
此処は自分がいるべき場所ではない。

歓楽街。
悟浄がよく行っていた場所だと、八戒に教えて貰った。
それから、悟空は行っちゃ駄目ですよ、と言っていた事も思い出す。


迷い込んだのだと判って、どう行けば戻れるのかも判らなかった。

腕に覚えはあるから、誰かに絡まれたぐらいなら平気だ。
けれど、元の場所に戻れないのは問題だった。



(オレ、どっちから来たっけ……)



もとより、地理を覚えるのは苦手だ。
加えて我武者羅に歩いていたようなものだから、辿った道のりなんてまるで頭に入っていない。

誰かに聞こうと思っても、回りの大人達はするりと素通りして行ってしまう。
まるで悟空の事が見えていないように、其処に存在しないかのように。
拒むこともしなければ、受け入れることもしなかった。



(……どうしよう)



迷子は動くなと口酸っぱく言われた。
けれど、此処でじっとしていても何も変わらない。
とにかく大きな道を探す事にしよう。

そう決めて、歩き出した時だった。


くん、と腕を引かれた。

優しい力だったけれど、何処か冷たい感触。
驚いて振り返れば、綺麗に着飾った女が微笑んでいた。



「坊や、迷子?」



甘い声で囁く。
それがなんだか怖くて、悟空は慌てて掴む手を振り払った。
女はそんな悟空に笑って、大丈夫よ、と言う。

女は腰を曲げて、妖艶に振舞う。
けれども悟空は、それら何もかもが未知のもので、不可解なものだった。



「子供はこんな所に来ちゃダメよ。それとも、興味があって来たのかしら?」



悟空はふるふると、なんとかと言った様子で首を横に振った。
やっぱりね、と女はまた笑う。

真っ赤な唇と、鮮やかな色の爪。
見慣れないそれらがなんだか嫌で、悟空は徐々に後ずさる。
屈強な男より、気持ちの悪い怪物より、ずっとずっと怖い気がした。



「早くおうちに帰りなさいな。じゃないと、怖ーい狼さんに食べられちゃうわよ」



いつもなら食う方専門、なんて言う。
言うのだが、今はそんな余裕もなかった。

女が一つの道を指差した。
そっちから行けば戻れるわよ、と。
どうやら、悪い人ではないらしい。


けれど、それとこれとは別だ。
親切な人でも、やはり慣れないものは怖かった。

ありがと、と言ってから、悟空は逃げるように駆け出す。
背中を向ける直前に女が手を振っていたが、振り替えすような余裕はなかった。
示してくれた方向に向かって走って、誰かとぶつかっても気にしなかった。





夜の帳が、舞い降りる。

それと一緒に、なんだか無数の手が伸びてくるような気がした。












走って、走って。





この場所は怖いんじゃないと判った。
ビルを彩るネオンも、怪しい看板も、怖くなかった。

怖いのは、人だ。
この場所にいる人々だ。


彼等はこの、何処か冷たい世界の住人なのだ。
誰が誰と関わりを持っても厭わない代わりに、誰も受け入れようとしない。
この世界に不要なものは、ないものとして誰も寛容しない、そんな世界の住人なのだ。

着飾った女も、厳つい顔の男も、路地で寝転がる者も。
全てこの世界の住人で、この何処か冷たい空気を持っている。


それが、なんだか怖かった。




悟空は人と関わるのが好きだ。
寺院にいた頃は僧侶との溝は深かったけれど、参拝客は優しかった。

悟浄や八戒と街に出るようになってからは、市場で色んな人と逢った。
逢って、会話をして、たとえ細い糸でも繋がりが出来るのが嬉しかった。


だけど此処には、それがない。




此処にいる人と人との繋がりは、酷く冷たくて細いものだった。
端と端を持っている人は、いつだってそれを手放すつもりでいる。
片方が手を離してしまえば、もう片方も躊躇いなく、張り詰めていた糸を解放してしまうだろう。

それはきっと、とても楽な繋がりだ。
そして此処はそういう場所だから、そうして生きて行くのがルールなのだろう。


だけれど、悟空は怖かった。





一人ぼっちで取り残されるのは、大嫌いだ。

















ドン、と。
何かにぶつかって、悟空は後ろに踏鞴を踏んで、尻餅をついた。
じんとした痛みに顔を顰め、けれどさしたるものでもないのに、目頭が熱くなるのが判った。

恐る恐る目を開けてみると、目の前で留まっている人は誰もいない。
座り込んでいる悟空を避けるようにして、ただただ歩き続けている。


薄い隔たりが其処にある。
透明な壁が、其処にある。
冷たい拒絶が、ある。

誰一人として、こちらをちらりと見ようともしなかった。
だから当然、座り込んでいる少年に向けて手を伸ばすような者はいない。
早く退けと、厭うような視線さえもない。

それが酷く、陰鬱を誘う。



(……なんで……)



自分は此処にいるのだろう。
自分は一人でいるのだろう。

迷い込んでしまったから。
宿を飛び出してしまったから。
悟浄と、喧嘩をしてしまったから。


理由はなんでも良い。
正直、忘れてしまったような気もする。

だから、都合のいい事だと言われるかも知れないけれど。



(……なんでいないんだよ……)



いつも面倒臭そうにしながら追いかけて来てくれるのに。
いつも自棄のような顔をしながら掴まえてくれるのに。

照れたような、それを隠すような目の逸らし方をして。
ぶっきら棒に大きな手を突き出して、それを見ていたら焦れたように腕を掴んで。
引っ張り起こして、いつもの場所へ引き摺り戻してくれるのに。


目尻に溜まった雫が、堪えきれずに溢れて零れた。

きっと声を張り上げても、此処では誰も振り返ってくれないのだろう。
暴れるような気力ももうないし、何より、脚が痛い。
歩きたくなかった。



意味の無い短い吐息が、続いて。









「何やってんだ、お前」









鮮やかなネオンの中で褪せない紅。

そこだけが熱く燃えているように見えるのは、きっと気の所為じゃなかった。

















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