雪と呼び声













あなたと繋がる呼び声が



どうかいつまでも途切れてしまわないように











例えばこの手を離しても


心はどうか繋がるように

























雪がしんしんと降りしきる日。
世間はクリスマスだと騒がれているが、寺院内は師走の時期で忙しない。
それは最高僧も例外ではなく、明らかに気乗りしないであろう仕事に奔放されている。

一応、仏教であるから、クリスマスとは縁がない。
祭り好きの者は何かしらしたいであろうが、生憎そんな暇はないのだ。
正月が近い、その日に向けて準備をしなければならなかった。


その中で三蔵が何をしているのかと言ったら、基本的には普段とさして変化はない。
説法なり、遠方への出仕なり、相変わらず書類整理であったり。
違うのは、その数、その仕事量が常をかなり上回っているという事だ。

本音、面倒臭い事この上ない。
…本音も何も、この男はそれを隠そうともしていないのだけれど。



書類を運んでくる僧侶の顔など、見たくもない。
大して中身のない話を大仰に読み込む者の顔も、最早見飽きた。

お布施がどうの、正月の催しがどうのと、三蔵には全く興味を惹かない話だ。
適当に済ませればいいじゃねぇかとは思うが、それは流石に表には出さない。
たださっさと終わりやがれ、と内々で思っているばかりだ。



それと一緒に、三蔵にとって気になる事が一つある。
無論、あの騒がしい子猿の事だ。

三年ほど前に拾ってきた子猿は、いつまで経っても騒がしい。
その騒がしさは音に直接聞こえるものもあれば、何処で何をした、と修行僧から苦々しく報告されるものもある。
また、己にだけに聞こえる煩さも、相変わらず静まってはいなかった。


師走に入ってから仕事は増えた。
だから子猿の事は完全に放し飼いの状態だ。
だが不思議にも、あの子猿は妙に大人しくなっている。

どうしているか、三蔵には考えなくても判った。
今年で三年目、もういい加減に行動パターンも読めるようになった。
甚だ、不本意ではあるのだけれど。

だから今は、放し飼いにしたところで、さしたる問題もないのだ。



今もまた、あのままなのだろう。
膝を抱えて、丸くなったままで。











これは、空が徐々に白に覆われていた、ある日の話。











この書類に目通りを、と差し出された紙切れを、奪い取るようにして手に取った。
内容はやはり取るに足らないもので、適当に判子だけを押して、さっさと返す。
執務机の上の紙の摩天楼は、まだまだ終わりそうにない。

下らない仕事は、誰ぞ回せば良かろうに、何かと理由をつけて三蔵に回ってくるのだ。
この時期の仕事が多いのは最早判り切った事ではあるが、やはり面倒なものは面倒だ。
それを綺麗に割り切って仕事を進めるほど、三蔵は人間が出来ている性格ではない。


手早く済ましてしまうのが良い。
内容はどれも似たり寄ったりだから、一々文面に目を通す気にはならない。

外への出仕ではないのだから、其処は良しと思おう。
四角形に切り取られた空は、すっかり白い雲に覆われ、蒼など微塵も伺えない。
このままでは、夕方の時間になるまでに、六花が舞い降りそうだった。



「………チッ……」



修行僧が部屋を出て行った直後、三蔵は舌打ちして、筆を置いた。

これでも耐えていたほうだと思う。
増える紙切れを、更に増やそうとする奴らに対して、何度殺意を覚えた事か。
自他とも認めて短気な自分にしては、大したものだ。


けれど、限界は限界。
これ以上下らぬものに付き合ってやる気はない。

まだまだ高い摩天楼を、三蔵はなきもののように目を逸らした。



「……煙草は切れてたな」



それがまた、三蔵の苛立ちを煽る。
気を紛らわすニコチンは、とっくの昔に最後の一本を吸い終えていた。

だが、外に出て買いに行く気も起こらない。



「くそったれ……」



本来ならある筈のない、この部屋に置かれている灰皿。
それは絶妙なバランスを持って、灰の山を築き上げている。

使い走りがいない。
だから、煙草を買いに行かせる者もいない。
自分で行くしかないのだが、外は北風が強くなっている。



「………猿は……」








脳裏に蘇るのは、今朝の出来事。















昨晩はよく冷えていたから、小猿が布団に入り込んできても見逃してやった。
子供特有の高い体温は、夏は鬱陶しいけれど、冬は湯たんぽ代わりになる。
だから悟空も、この時期は進んで三蔵にくっつこうとする。

悟空は大好きな保護者と一緒にいられるし、三蔵の方は寒さを凌げる。
互いに利があるのだから、これを利用しない手はない。


拾って三年、悟空の身長はあまり伸びを見せない。

はっきりとした年齢は判らないけれど、拾った時を10歳と仮定すると、今年で13歳になる。
けれど、悟空の成長は、身長ばかりか、精神面でも酷く遅々としていた。
何かにつけて三蔵と一緒にいたがるし、ふいと傍を離れると、癇癪を起こした子供のように呼び続ける。



「いい加減成長しろ」



と何度も言った。
言うだけは楽だ。

しかし悟空は相変わらず、子供子供したままである。
三蔵と一緒にいたがって、新しいものを見つければ知らせて、好きなものを貰うと全身で喜ぶ。
子供好きな者が見れば可愛い、微笑ましいのであろうが……生憎、三蔵にそういった心はない。




「いつまでくっついて寝る気だ、テメェは」
「いいじゃん、寒いんだし」
「……あんまり付け上がると、蹴り落とすぞ、猿」



口から出てくる言葉は、素っ気無いものばかり。
けれども、悟空にはどうしてか全く効かない。

慣れているのもあるだろう。
何せ四六時中三蔵と一緒にいたがるし、それが敵わなくても一年の10分の9ぐらいは一つ屋根の下にいるのだ。
三蔵が睨んだところで悟空はケロっとしているし、冷たい態度であっても、悟空は変わらない。

無邪気ゆえに、そうであるのかも知れない。



悟空の呼ぶ声は、まだ続いている。

拾う前、直後に比べれば落ち着いた方だと思うが、如何せん無意識なのだ。
何事かあれば、すぐに三蔵を呼び、その声ならぬ聲は、しっかりと三蔵に届いている。


それは大抵、傍にいれば静かになる。
全く聞こえなくなった、と言う事は、殆どないけれど。





けれど。
眠っていても、呼んでいる事がある。



決まってそれは、不気味なほどに静かな朝に起きることだ。








今朝、三蔵は煩い聲に苛まれて目覚めた。

傍いいるのに妙に煩い。
これも最早日常の一部ではあるのかも知れないが、朝からこれでは気分が堪える。


起き上がってから、室内が妙に静かなのに気付く。
いや、室内に限らず、全ての空気が酷く静かなのだ。
音を伝える事をせず、ただただ、沈黙の蚊帳が舞い降りる。

三蔵はこういった静けさは嫌いではないのだが、今はそれとは別の音が聞こえてくる。
その音は実音を伴わないのだから、空気の振動は何ら関係ないのだ。



「……おい、悟空」



傍らで丸くなって眠る子供の名を、呼んだ。
静かな室内で、それは自棄に響いたように感じた。



「悟空、起きろ」



面倒だと思いつつも、三蔵は悟空を揺り起こした。

軽く揺さぶると、悟空はいやいやをするように益々丸くなる。
けれども間もなくしてから、ふる、と瞼が揺れたのが見て取れた。



「……さんぞ、おはよ……」
「ああ」



寝起きの掠れた声だったが、それもよく聞こえた。
それほどまでに、室内が静かだったという事だ。


悟空もそれに気付いたのか、不思議そうに室内を見回しながら起き上がる。
サイズの合っていない寝巻きのシャツを手繰り寄せながら、小さく身体を震わせる。
暖を求めるように、直ぐ傍にいる保護者に擦り寄った。



「寒い……」
「冬なんだから当たり前だ」



自分に暖を求めても、暖かくなんてならないだろうに。
己の低体温を知っているから、三蔵はそう思う。

けれども悟空は、三蔵と一緒にいたがる。
まるで他の温もりを知らないように────事実、知らないような気もするけれど。
此処が自分の居場所なんだと主張するように、離れようとしない。


まるで刷り込みのようだ。



ふるりと小さく震えた身体を抱き締めた。
こうした方が自分も温かい体と、まるで言い訳でもするように胸中で呟いて。



「なんか、今日寒いね」
「だから冬だっつってんだろ」
「…じゃなくてさ…」



なんか静かだよね、と。
言われて、ああそうか、と三蔵は合点が行った気がした。

悟空は静けさと言うものがどうにも苦手らしい。


無言のまま、悟空は何かから隠れるように三蔵に擦り寄る。
まるで縋り付くように見えるのも、無理はないだろう。



「……離れろ、バカ猿」



仕事がある、と言葉にせずとも、流石に悟空も判っているだろう。
三年も傍にいるのだから、それぐらいは覚えている筈。

だが悟空は、いやいやと首を横に振る。



「…もうちょっと」
「てめぇの“ちょっと”は何処までなんだ?」



ちょっと、もう少し。
悟空がささやかなワガママを言う時に出てくる言葉。

その時間の感覚は人によってまちまちだ。
三蔵にとっては“ちょっとの時間”なんてものは、一分二分程度のものだ。
だが悟空にとってはどうだろう、三蔵よりも長いのは確かだ。


振り払う事は簡単だ。
けれども、三蔵はいつもそれをしない。
これが他人であったのなら、迷う事無く払い除けるのだろうけど。

相手は他人ではなく、悟空だ。
その一項だけが、三蔵の中に逡巡を生ませる。



「……ガキ」
「…うん」



だから甘えさせて。
子供だから、今は甘えさせて。

三蔵の胸に顔を埋めて、悟空はまた眼を閉じる。
眠るつもりはないだろうが、悟空の呼吸は一定で、静かなものだ。
だが縋る手は確かな力が篭っていた。
.6
静かだ。
空気も静かだけれど、それ以上に。

悟空が、静かなのだ。


眼を閉じた悟空は、まるで音を拾おうとしているようだった。



「……悟空」



名を呼べば、小さな身体が反応を返す。



「悟空」



もう一度。

悟空はそろそろと顔を上げる。
閉じられて隠されていた金色の瞳が、ゆっくりと姿を覗かせる。


金と紫が交わる。
けれどもそれはたった一瞬の事で、悟空はまた顔を伏せてしまった。

何からそんなに逃げようとしているのか。
三蔵にもまだ、はっきりとした事は判らない。
判らないのだけれど。



「……あと少しだぞ」



悟空の大地色の髪を撫ぜて、呟く。
それは実に小さな声であったけれど、悟空の並ではない聴力はしっかりとそれを受け取っていた。

小さく頷いたのが判って、三蔵は小さな身体を己の腕の中に抱き締めた。












窓の向こうは、銀。





















────あれからしばらくして、三蔵は悟空を置いて部屋を出た。

悟空は離れたくないと喚く事もなければ、後を追って来ようともしなかった。
ただじっと三蔵が出て行く様を見詰めていただけで、ひょっとしたらそれからも、じっと扉を見ていたかも知れない。
だが其処は、部屋を出て振り替える間もなく、前へ進んだ三蔵には知らぬ事だ。


けれども、聲だけはやはり止まない。
無意識だから止めようがないのだろう。



「……煩ぇよ…バカ猿……」



痛む頭を抑えながら、三蔵は呟いた。


言いたい事があるなら、いつものように言えばいい。
どうせ子供なのだから、遠慮するなんて真似はあの子猿には不相応なのだ。
不向きな芸当は覚えさせるべきではないと、三蔵は思う。

けれど、覚えさせてしまったのは三蔵なのだ。



「……ったく、仕方ねぇな……」



どうせこのままにしていては、この聲は止まない。
仕事の効率は当然落ちる。
今の状態では、何に置いても悪循環しかないのだ。

けれども、それは適当に並べた名目。
本当はなんだって良いのだ。


苛立ちを紛らわす煙草がないから、他の気分を誤魔化す為であるとか。
これ以上下らぬ紙面と顔を突き合わせたくないからだとか。
ただ単純に、疲れが溜まっただとか。

理由はどうだって良い。



あの子供はまだ、蹲ったままなのだろう。
この時期────この、音が奪われる時期は、いつもそうだ。
音が再び生まれ出でてくるまで、あの子供は小さくなったまま。

はしゃぎそうなものなのに、悟空にはその兆しが一つも見られない。
きっと凍り付いているだろう池も見に行かないし、無邪気に外に出る事もない。


ただ、待っている。
ただ。




音が来るのを。

音が戻ってくるのを。


白が白だけでなくなるのを。

白の中に彩が生まれるのを。





………ただ。









ギィ、と扉が軋む音が聞こえた。
けれど三蔵は振り返らず、窓辺に立って切り取られた風景を眺めている。


外は一面の白で、音がしない。
こういった静寂の間を、三蔵は決して嫌いではなかった。
常の騒がしさを思えば、尚更の事。

けれども、それは断ち切られる。
子供の足音によって。



「……毛布を引き摺ってくるなって言っただろうが」



ぺたん、という裸足の足音。
それと一緒に、布地を引き摺る擦れる音。

振り返るまでもない。
そんな事を仕出かす人間は、この寺院内に置いてたった一人しかいないのだ。
幼年の小坊主でも、こんな出過ぎた真似はしない。
そもそも、ノックもなしに最高僧の部屋に入ってくる者はいないのだ。


悟空ただ一人を除いて。



「……閉めろ」



廊下へと繋がる扉は、開かれていた。
其処から滑り込んでくる冷気が部屋に満ちる前に、三蔵は言った。

悟空は引き摺っていた毛布をかき集め、部屋に入れてから、きちんと扉を閉める。



「裸足か……霜焼けになっても知らんからな」



俺は世話はしない、という三蔵だけれど、恐らくそれは口先だけのことになるだろう。

霜焼けになって痛みを訴えられるのは、他ならぬ三蔵だ。
寺院内で悟空の味方は殆どいないと言って良いから、他に面倒を見る者はいない。
結局、三蔵が手当てを施してやる以外に選択肢はないのだ。


ずる、と擦れる音がした。
それは数秒続いて、止んだ。

どうしたのかと振り返ってみれば。



「……んなとこに座るんじゃねぇ」



───扉の開閉を妨げるようにして、悟空が其処に座り込んでいる。


扉の開閉が不自由であろうがあるまいが、それ自体は、さして三蔵には問題ない。
あるのは、今後、書類を持って来るであろう僧侶の方だ。

扉は内側に開く構図になっている。
悟空があそこにいたのでは、その働きを遮る事にしかならない。
原因が養い子にあったと知ったら、また僧侶たちは煩く騒ぎ立てるだろう。


だが悟空は、三蔵の注意も聞こえていないようだった。
毛布を頭から被って、そのまましゃがみ込んで俯いている。



「おい、悟空」



呼んだら返事をしろと教えた。
教える前に、悟空は名を呼ばれたら反応していたけれど。

けれども、今日は何も言わない。



「……悟空」



今朝と同じように、繰り返して呼ぶ。
今度は、今朝と違って顔を上げない。



「……返事しねぇか、悟空」



猿、と呼びそうになって、名前に修正した。

悟空にとって、名前は大きな力を持つ。
記憶を持たなかった悟空が、唯一覚えていた自分の名前。
“一己”として認識される、たった一つの確かなもの。


それなのに、悟空は返事をしない。
聞こえていない筈はないのに。

だが三蔵は、いつものように叱り付ける事はしなかった。
この三年間の間で、悟空がこうなる事は大体予想がついていたからだ。



「…悟空」



ワガママを言う事もしない。
まとわりついて来ることもしない。

ただじっと、其処にいる。
見える場所に、動かないままでじっとしている。
蹲ったままで。


三蔵は、優しくする術など知らない。
これが己の師であったなら違ったのであろうけれど、生憎自分は自分だ。

そして、悟空を拾ったのは自分だ。
悟空の聲を聞き、そして悟空を見つけ、手元に置く事を選んだのは三蔵だ。
だからきっと、悟空を動かせるのは三蔵しかいない。



悟空の小さな、細い肩が震えているのが見えた。



「……悟空、こっちに来い」



言うと、悟空はのろのろと腰を上げた。
けれども、顔は俯いたままで、三蔵を見ようとはしない。

そろりと歩き出した足は、細くて頼りなかった。
陽光に当たって日焼けした肌ではあったけれど、それでもまだ幼さが残る。
覚束ない足取りが、余計にその危なっかしさを誘って見えた。


短い距離を、小さな足が駆けた。
それほど加速はしていなかったけれど、ぽすっとそれは三蔵の腰に抱き付く。

身長はまだ伸びない。
後から伸びるとは思えないから、きっと悟空は小さいままなのだろう。
意外と自分でもそれを気にしているらしいが。



「……仕様のねぇガキだな、テメェは」



三蔵の腰へと腕を回した所為で、支えを失った毛布が落ちた。

悟空は寝巻きのままであった。
サイズの違うシャツは通気性が無駄に良い。
三蔵が細い腕を掴んでみれば、僅かではあるが、冷え始めていた。



「……せめて着替えてきやがれ」
「…………」
「返事ぐらい出来るだろ」



はい、でも、うん、でも。
一言二文字発するぐらい、なんの問題もないだろうに。



「…聞こえてるのか、悟空」



問えば、悟空はようやっと、小さく頷いた。
けれども、言葉を返すつもりはないらしい。

子供の行動には意味がないように見えて、意味があるのだ。
他人にとっては下らない、どうでも良いようなものであるとしても。


だから聞こえている事が確認出来ただけでも、今は良しとしてやろう。




くしゃり、と大地色の髪を撫ぜて。

その時、悟空は三蔵の陰から、僅かに覗く狭い外界を見ていた。