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奇妙な違和感を感じて、三蔵は眉根を寄せた。


いつも通りの朝だ。
“存在しない”仔犬がいるのは、常とは異なるが。

けれども三蔵が感じた違和感は、それとは少し違う場所にある。



「どした? 三蔵」



じっと見つめる視線に居心地の悪さを感じたのだろうか。
悟空は仔犬を腕の中に隠すように抱きながら、三蔵に問う。



「別に」
「オレ、静かにしてるよ?」
「ああ」
「こいつも大人しいよ?」
「ああ」



一体何が三蔵の気を散らせるような事をしたのだろうか。
悟空は不思議そうに首を傾げたが、別段、怒鳴るような声がある訳ではない。
このまま問い続けて怒られるのも嫌だから、何も言われないなら、自分も黙っておく事に決めたようだ。

その腕の中で、仔犬は相変わらず上機嫌に尻尾を振っている。
己が今どんな状態で、此処にいるのが可笑しいという事には、気付いていないのかも知れない。


そう、その仔犬。
その仔犬が、三蔵の感じる違和感のもと。



(……姿が……──────)



気の所為かも知れない。
そうでないかも知れない。

微妙なラインの違和感だった。


仔犬の放つ、独特の気配は変わらない。
“生のないもの”と“いる”という奇妙な気配。
普段奇異な気配に聡い悟空には、それは判らないようだが。

三蔵が感じる違和感は、其処に有るのだ。
気配が曖昧なのは変わらない、筈なのに。



(……昨日よりはっきりしてねぇか……?)



……三蔵の瞳には、霞んで見えた子犬の姿。
そのノイズが若干薄れたように見えるのは、気の所為なのだろうか。

それほどよく見ていた訳ではないから、気の所為だと思えばそうかも知れない。
けれども、確かな違和感は其処に有るのだ。



「……悟空」
「なに?」
「ちょっとそいつ、こっちに連れて来い」



一番手っ取り早い方法を取った。

突然の三蔵の言葉に悟空は首を傾げたが、素直にそれに従った。
仔犬を抱き上げて、てとてとと軽い足音を立てて傍に来る。


悟空の手の中で、小さな仔犬は首を傾げて一声鳴いた。



「こいつがどうかしたのか? ちゃんと静かだよ?」
「……それは知っている」



どれだけ仔犬が大きな声で吼えたって、それは三蔵には聞こえない。
先程だって三蔵に向かって口を動かしたけど、三蔵の鼓膜には何も届かなかった。

三蔵はなるべく不自然にならないように、子犬に向かって手を伸ばす。
三蔵が動物に触れようとするだけで、滅多にない事だと自覚はあった。
けれど幸いな事に、悟空からはそれについてなんの言葉もない。



「噛んだりしないよ」
「……ああ」



仔犬の喉に指を当てた。
それからすぐに、その手を引っ込める。



「な、いい子だろ、こいつ」



大人しくしている仔犬に機嫌を良くして、悟空は笑って言った。
それに何を言う事もなく、三蔵は煙草を咥えた。

悟空はてててっともといた場所に戻ると、また床にぺたんと座る。
仔犬の鼻先を突いたり、喉を撫でてやったり。
確かにその手は、仔犬と接触しているように見えた。


けれど、案の定。
三蔵の手には、なんの感触も残されていない。



(……それが正常だ)



見えても触れない。
聞こえるものは稀にいるだろうが、触れる事は出来ない。
それが本来の“存在しないもの”の在り方だ。

だからこの場合に、見えれば聞くことも出来、触れる事も出来る悟空の方が可笑しいのだ。


本来ならば、仔犬の毛並みの感触が指先に残っているのだろう。
なんの感触もない、其処にある事を示さない手を、じっと見つめた。

近くで見て、判った。
やはり仔犬の姿は、昨晩眠る前に見た時よりもはっきりとしている。
けれども、やはり其処に存在する事はなく、触れる事は出来ない。


これが意味するところは、一体なんなのか。



(……厄介な事にならなきゃいいんだがな)



仔犬とじゃれている悟空を見つめながら、思う。





……大地の子供だからなのか。
それとも、あまりに無邪気で無垢だからか。
悟空は何かと、その手の連中に好かれる傾向がある。

悟空にそれらの見分けがつかないのが、また面倒だ。
判らないから普通に接してしまう訳で、それが悪影響を及ぼさないとは限らない。


“存在しない”のに“いる”のは、まだそれにしがみついていたいからだ。


自分がどんな状況でどんな状態なのか判らない、そういう理由もある。
それらは自発的に消える事はないので、それもまた面倒だ。

判っていながら消えない連中は、また厄介だ。
未練があるのか、単に自分の状態を認めたくないだけか、三蔵には判らない。
だがそれらは、まだ自分が存在していたいと願っているのだ。


悟空はそれらの区別がつかないから、“存在する”ものも“存在しない”ものも変わらず接する。
それが僅かでも、“存在しない”ものの意図に沿ってしまったら大変な事になる。

所謂“悪いもの”になってしまうのだ。



今のところ、悟空に寄ってくる連中は、全て消えてしまっている。
拾ってくるのが大抵犬や猫という動物だから、小汚い感情がなくて済んでいるのか。

だから今まで、深く考えていなかった。
少々しつこそうなら、悟空が眠っている間に三蔵が強制的に消す事も出来たし。
突然消えてしまう動物達を悟空は仕切りに気にしていたが、それでも問題はなかった。


けれど、今回はどうなるだろうか。




悟空と同じように無邪気にじゃれている、この幼い仔犬の願いはなんなのか。








「なぁ三蔵、こいつに名前つけていい?」



腕の中に抱いた子犬をあやしながら、悟空が無邪気に言った。



「……やめとけ」
「えー…」
「変に情が移るような行為はするな」



呼び名がないと不便だと言いたい気持ちは判る。
それに、悟空にとって名前と言うものが大きなものだと言う事も知っている。

けれども、この仔犬に名前は最早必要ない。
いずれ消え行くものなのだから、下手に感情移入するような行為は良くない。
呼び名が付き、呼ぶ者がいるだけで、子犬の在り方は変わってくる。

下手な事はしないで、今のまま、消えていくのを待つのが良い。



「名前、あった方がいいと思うんだけどな」



な、と仔犬を高い高いしながら悟空は呟く。
仔犬の口が動いて、やっぱりそうだよな、と言う子供の声が聞こえた。

訴えるような視線が三蔵に向けられたが、それを完全に無視することにした。



「三蔵のけちー」



その言葉に、ちらりと子供を見遣る。
腕の中の仔犬が、悟空の台詞を反芻するように口を動かした。
何度吼えても、その声は三蔵には届かないのだが。

溜息を吐けば、何を思ったのか、悟空は仔犬を隠すように背中に回した。



「三蔵のけちんぼ!」
「……言ってろ。っつーか静かにしろ」
「静かにしてるよ、こいつも吼えてないもん!」
「お前が喚くなっつってんだ」



放置していた新聞を開きながら言えば、悟空は拗ねたように唇を尖らせる。
また何かしら文句を言おうとした悟空だったが、どうせ口では勝てないのだ。
背中にじゃれてくる気配を感じてか、まだ膨れ面をしながら三蔵に背を向けた。

仔犬は悟空の長い大地色の髪を、突きながら遊んでいるようだった。
小さな仔犬の爪はさほど引っ掛からないらしく、悟空も好きにさせている。


その時、部屋の扉を叩く音が聞こえた。



促すよりも先に、悟空は仔犬を抱いて三蔵の後ろに隠れた。
それから扉が開き、修行僧が入って来る。



「三蔵様、少々宜しいでしょうか」
「……なんだ。さっさと済ませろ」



背中に隠れた小猿の事を、特に気にする事はしない。
仔犬に静かにするように促しているが、どうせ吼える声は聞こえないのだ。

修行僧も悟空が自分たちを避けるのは当たり前として、気に止めていない。



「昨日の書類の事で……」



それがどれの事を指し示しているか、直ぐには判らなかった。
何せ三蔵が毎日目を通している書類の数と言ったら。

話の内容は、三蔵にとってはどうにも詰まらないものである。
適当に相槌を打ちながら、それこそ適当に話を流す。
一先ず問題が起こらないようにして置けば、後は放置でも構わないのだ。


背中の小動物二匹は、至って大人しい。
三蔵の影に隠れたままでじゃれあっているが、特に騒ぎ出す事はなかった。



「お手間を煩わせました」
「別に。終わったんならさっさと行け」
「あ、それから……」



用事が済めばする事は済んだ、と退室を促す三蔵。
しかし修行僧は、思い出したように付け足す。



「昨日からの大雨で、川が氾濫しておりまして」
「川が?」
「下流の方で被害がありましたそうで…」



雨が止んだら、恐らく遠出の仕事になるだろう、と。
ご丁寧に知らせてくれた修行僧は、それが終わってようやく部屋を出て行った。


ちらりと四角く切り取られた外界に目をやると、雨はまだ続いていた。
以前ならば随分気が塞ぎ込んだりもしたのだが、誰のお陰か、今回はそれほど気にならない。

常ならば在り得ない状況を作り出してくれた子供は、まだ三蔵の背中に隠れている。



「悟空」
「何?」
「聞いただろう。しばらく川原に行くんじゃねえぞ」
「はーい」



子供の元気の良い返事を聞いてから、三蔵は再び新聞に意識を戻した。
























新聞を読み終えてから、背中に隠れたままの子供が大人しいのに気付いた。
軽い重みがその背に重なっていて、まさかと思って肩越しに後ろを見れば、案の定。
いつの間にか、子供は眠ってしまっていた。

悟空はどうも人と近く接触していると、安心するのか、眠ってしまうらしい。
体重を預けられているから動く事も出来なくて、三蔵はどうしたものかと溜息を吐いた。


その大人しくなった子猿とは対照的に、うろうろと足元で動き回っている気配。
見下ろせば、遊び相手がいなくなった仔犬が落ち着かなさそうにしていた。

この仔犬は、悟空に抱き締められている時は大人しい。
けれども今、悟空の手はすっかり力を抜いてしまっている。
またそれが不満らしく、仔犬は悟空の気を引こうと、大地色の長い髪を咥えて引っ張ろうとしている。



「やめろ」



言えば仔犬は、今初めて三蔵を認識したように振り返った。
警戒するように三蔵に向かって牙を見せたが、唸る声も三蔵には聞こえない。



「喚くんじゃねえよ、起きる」



仕切りに口を動かしている仔犬に、三蔵は溜息を吐く。

三蔵に聞こえない声も、悟空にはしっかり聞こえたらしい。
悟空はもぞもぞと身動ぎした後、結局瞳を開けてしまった。



「ふえ……あれ…?」
「……俺の背中にくっつく度に寝てんじゃねえよ」
「……う……」



目を擦りながら、悟空は三蔵の背中に擦り寄る。
どうやら瞳は開いたものの、意識は覚醒し切っていないらしい。

仔犬がまた吼えた。



「あ、ごめん……」



悟空が手を出すと、仔犬はととっと其処に駆け寄って行った。
小さな手がそれよりも小さな身体を抱き上げると、仔犬はようやく嬉しそうに尻尾を振る。



「ん、ごめんって……」



頬を摺り寄せて、仔犬は悟空の頬を小さな舌で舐めている。
くすぐったそうに笑って、悟空も仔犬の喉を撫でてやった。




「なんかこいつ、すげぇ甘えてくる」
「テメェに似たんだろうな」



三蔵の背中にくっついたままで、悟空は仔犬とじゃれている。



「だってオレ、三蔵と一緒にいるの好きなんだもん」
「……ああそうかよ」
「三蔵は? オレと一緒にいるの好き?」



仔犬に負けず劣らず、まん丸な瞳で見つめてくる悟空。
その頭の上には、何時の間に乗ったのか、仔犬がいる。
しかし仔犬の方は悟空と対照的に、不満そうに三蔵を睨んでいる。

三蔵はしばらく仔犬を見ていたが、服を引っ張る悟空に目を向けた。



「なぁなぁ、好き?」



……自分がその手の台詞を言う性格ではないとは、判っていないのか。

期待に満ちた瞳で見上げてくるのは、頼むから止めて貰いたい。
これに甘いのだと自覚があるから。



「……お前な……」



悟空の金鈷をこつんと小突いた。
痛みがある訳がないのに、悟空は眼を閉じてそれを甘受する。
仔犬が吼えたが、悟空が気にしないものだから、三蔵も当然気に止めない。

仔犬がいる事に少々躊躇ったが、結局三蔵は大地色の頭を撫でてやった。



「俺が嫌な奴を傍に置くと思うか」



悟空はふるふると首を横に振った。
修行僧と話をするのだって面倒に思う三蔵が、一緒にいたくもない人間と日々を過ごすか。
さほど人間が出来た性格ではないと、三蔵は自覚している。

悟空はその返事だけでも満足だったらしく、頭に仔犬を乗せたままで三蔵に擦り寄った。
こうしてみると、悟空とその頭の上の存在と、どちらが仔犬か判ったものじゃない。



「えへへ、三蔵大好き!」
「……フン」



三蔵の背中にくっついて、悟空は嬉しそうに笑った。


頭の上の仔犬が、あからさまに不満な顔をした。
それは悟空にも伝わったらしく、不思議そうな顔で頭の上に目線をやった。

頭の上に落ち着いていた仔犬を抱き上げて、同じ目線の高さになる。



「どうしたんだ? お前……」



悟空と目が合えば、仔犬はいつも尻尾を振っていた。
けれど今は、耳も寝てしまって大人しくなっている。

するりと小さな身体が悟空の手から逃れていく。
一瞬どうしたのかと放心した悟空だったが、仔犬が向かう方向に気付いて我に返った。



「何処行くんだよ!」
「……おい!」



流石に三蔵も放って置くわけにはいかなくなった。

仔犬は窓を開け放って、雨の降りしきる外へと飛び出したのだ。
煙草を吸う時の換気の為に開けていたのだが、それが此処で仇になるとはまさか思っていない。


悟空は慌てて窓辺に足をかける。
しかし、三蔵に襟首を掴まれた。



「さ、三蔵!」
「テメェは大人しくしてろ! 厄介ごとが増える!」
「やだ、ほっとけないもん!」



本気で悟空に暴れられたら、三蔵にも叶わない。



「おい、悟空!!」



一瞬三蔵の力が緩んだ隙に、悟空はその拘束から逃れてしまう。
もう一度三蔵が阻む暇などなく、窓辺を蹴って外へと出て行ってしまった。

雨に濡れるのは好きではない。
誰が好き好んで、こんな大雨の中を飛び出していくか。
けれど。



「……チッ!!」









後にあるのは、開け放たれた窓だけだ。























羽根が舞う



白い羽根が





空から落ちる透明な羽根が























キミの優しさを風にして





















maya - U -

中間後書き