- maya -















羽根が踊る



白い羽根が





空から落ちて涙に濡れて























キミの哀しみを風にして






















仔犬が何処に行こうとしているのか、三蔵に判る訳もない。


小さい癖に足が速いのは、どうやら小動物には共通事項らしいと関係ない事を思う。
仔犬の小さな姿が見えなくなるには、それほどの時間はかからなかった。
悟空はそれを追い駆けて、後ろを追う三蔵を振り返りもせずに走って行った。

悟空の小さな背中さえ、三蔵にはもう見つけられない。
けれども気配だけは判るから、その糸を頼りに走る。



「くそ……!」



口をついてくる悪態は、果たして誰に向けられたものなのか。
厄介ごとを持ってきた子供か、それとも雨の中に飛び出していった仔犬か。

いや、この際それはどちらでもいい。



「此処から先は……川原か…!」



昨日から降り続く雨で、恐らく水嵩が増しているだろう川。
ついさっき、修行僧から氾濫しているという話を聞いたばかりだ。
気配はその方向から感じられる。

川に近寄るなとは言ったが、仔犬が其処に行こうとしているなら話は別だ。
悟空はもう仔犬のことしか考えていないだろうから、忠告など頭から抜け落ちているに違いない。


けれど仔犬だって、川原にいれば危険な事ぐらい判る筈だ。
“存在しないもの”が何処までそれを感知するかは知らないが、氾濫に飲まれればどうなるか想像はつく。

もしも子供がその傍にいるとしたら。



仔犬がどうするか、それによるけれど。
過ぎる胸騒ぎは一体なんなのか。



「とにかく、一発ブン殴ってやる……」



こうまで自分を振り回してくれる子供。
忌々しげに呟くけれど、それは殆ど形だけだ。

殴るにしても何をするにしても、今はとにかく悟空を見つけなければならない。








暴れ川の音が鬱陶しいと思ったのは、多分、これが初めてだ。



















「三蔵!」



川の中に立って雨に打たれながら、悟空が三蔵を呼んだ。
その腕の中にはようやく捕まえたらしい仔犬が収まっている。

悟空が濡れているのは、雨の中にいる所為だけではないだろう。
吹き付ける強風に顔を歪ませながら、悟空は其処から動けずにいる。



「バカ猿! さっさと上がって来い!」
「だ、だって……」



いつもなら悟空の膝までもない筈の、その川。
上流で浅い事が幸いしているが、それでも流れが速くなっている。
幅の広い川だ、いつ鉄砲水が来るとも限らない。



「上がろうとしたら、こいつが嫌がるんだよ!」
「知るか! 早く戻れ!!」



仔犬がどうしたいかなど、三蔵には関係ない。
とにかくこのままにはして置けない。

悟空の太腿ほどまである水は、悟空の身体を安定させようとしない。
風が強い所為もあるのだろう、悟空は倒れまいとするのが精一杯だ。
足元が崩れたら、恐らく小さな悟空は流されてしまうだろう。


三蔵は舌打ちして、川の中に身を進めた。
それに驚いたのは、川の真ん中に立っている悟空だ。



「三蔵!?」
「仕方ねぇから、そのまま動くな!」
「だって、だって危ないよ!」



その危ない行為を先にしたのはどっちだ。
水を吸って重くなる法衣を鬱陶しげに捲り上げた。
それで何が変わるわけでもないが、腕に纏わり付く布はどうにか防げた。

悟空は戸惑いながら三蔵を見ていたが、動く事も出来ないので、ただ其処に佇んでいる。
寒さか、それとも別の何かか、悟空の身体が小さく震えている。


子猿は悟空の腕の中で、不満そうに三蔵を睨んでいる。
その姿がまた先刻よりもはっきりして見えて、三蔵は眉根を寄せた。

悟空が仔犬に構っていると、それだけて仔犬は嬉しそうに尻尾を振る。
けれども悟空の意識がついと外れてしまうと、不服に顔を歪めるのだ。
三蔵と悟空が触れ合おうとすると、それはあからさまになる。



それで、なんとなく予想がついた。
今更ではあるけれど。

──────仔犬は、悟空を求めている。




悟空が仔犬を思う以上に、仔犬が悟空に情を持っている。
害意がないからと放置していた三蔵だったが、今回ばかりはその判断が間違っていたと認めざるを得ない。

悟空の知らぬ所で、仔犬は悟空に情を寄せていた。
そして自分が“存在しない”ものであるにも関わらず、其処に“いる”事を願ってしまったのだ。


どうにか直ぐ傍まで来ると、悟空が三蔵に向かって手を伸ばす。



「さんぞ……!」
「ったく、バカが…!」



伸ばされた腕を掴んで引き寄せれば、悟空は三蔵の胸に顔を埋めてしがみついた。

それを見た子犬が、暴れだす。



「あ、わっ…!」
「構うな、お前も死にたいか!」
「だって!!」



お前も、仔犬と一緒になりたいのか。
三蔵のその言葉の意味を、悟空が拾える訳がない。

悟空にとって、仔犬は“存在している”ものなのだ。


大人しくしていろと仔犬を睨んだところで、当然効果はない。
仔犬は悟空の腕をするりと抜け落ちてしまった。



「あ……!」
「離すな、猿!」



仔犬に手を伸ばした拍子に、三蔵にしがみ付いていた腕の力が緩む。
仔犬の小さな身体は水の中に埋もれてしまい、もう確認できない。

あの仔犬が何をしようとしているのか、三蔵には粗方の想像が出来た。
だから悟空を抱き寄せて、仔犬に向かって伸ばされる腕を掴む。



「三蔵!!」



咎めるように呼ばれても、三蔵は小さな身体を解放しない。
此処で手を離せば、悟空は間違いなく仔犬を追い駆けるだろう。

もう形振り構わない仔犬のやる事を、悟空が意味を汲み取れる訳もない。
悟空にしてみれば、拗ねた仔犬が無茶をしているようにしか見えないのだ。
行動の奥底に隠された仔犬の情など、気付いていない。


打ち付ける風と雨に、三蔵は下唇を噛む。

仔犬のやる事は無茶で道理も何もないが、悟空の感情には沿う。
放っておけないと一度でも思ってしまったら、悟空はもう手を離す事は出来ないのだ。


仔犬が見えなくなって、悟空は身体を震わせた。
例え一晩しか一緒にいなくても、悟空にとって失う事は恐怖なのだ。



「やっぱ離して、三蔵っ!!」



本気の力で、悟空は三蔵の腕を振り解いた。
支える腕をなくした悟空の身体はバランスを崩し、風と水の流れに煽られる。



「悟空!」
「ちゃんと戻るから!!」
「バカ猿、そういう問題じゃねえんだよ!」



悟空が思っているほど、事は単純ではないのだ。


流れに足元を攫われたか、悟空の幼い身体が水面下へ沈む。
もう此処まで来たら、三蔵も体裁など関係ない。

追い駆けようとして──────刹那、三蔵は不穏な気配に動きを止めた。



振り返った先にいたのは、闇色の影。

其処から漂う異様な気配と一緒に感じるのは、仔犬の持つ奇妙な気配と同じもの。



「……やらねえよ…!」



それでも、どんなに子供が欲しいと仔犬が喚いても。
あの子供は、仔犬と違って“存在している”のだ。
此処に“いる”だけの仔犬とは、違う。











どんなに欲しいと手を伸ばしても、




その掴む手は、最早“存在しない”のだから。
























仔犬を追い駆けて水に飛び込んだはいいけれど、今更無謀だなあと思う。
けれど、もっと無茶をしたのは子犬の方なのだ。

あんな小さな身体で、氾濫した川の波に揉まれたら、無事でいられる訳がない。
それは悟空も同じなのだが、自分の心配は既に頭から綺麗に抜け落ちている。
早く見つけて保護しないと、どうなるか判ったものじゃない。



思えば、最初に仔犬を見つけた時もそうだった。
あの時は此処まで酷い川の流れではなかったけれど、雨が降って風に煽られる川の中に、溺れる仔犬を見つけたのだ。
一人ぼっちで反対側の岸にしがみついて鳴いている姿は、放って置く事など出来なかった。

雨に降られて既にびしょ濡れだったから、それ以上濡れ鼠になるのは気にならなかった。
とにかく仔犬を助けなきゃいけないと、思った直後の行動は早い。

川を渡って反対側にいる仔犬を抱き上げた時、小さな身体は冷え切っていた。
一人ぼっちで鳴いていた仔犬は、悟空に縋るように擦り寄った。
悟空だけを求めるように、子犬は必死になってしがみついて来たのだ。


子犬は自分を見つけた悟空を、まるで心のよりどころにしているようだった。
少しでも悟空の視線が外れてしまうと、不安そうに悟空の周りをくるくると回る。

その姿は三蔵に構ってくれと言う自分のようにも思えて、悟空は自分と仔犬を重ねている事に気付いた。



だから、仔犬をこのまま放って置いてしまったら。
自分が三蔵に捨てられるようで、それが怖かった。




(──────いた……!)




川の中で苦しげに眼を閉じている仔犬。
けれども悟空の気配を感じたのか、つぶらな瞳が悟空に向けられた。

手を伸ばせば、仔犬もじたばたと泳いでそれに近付く。



(無茶すんなよ……)



小さな身体を抱き寄せて、腕の中に掻き抱く。
仔犬が安堵したように、悟空の胸に頭を摺り寄せた。

保護者の腕に戻った途端、安心する。
それがまた自分と重なって、悟空は水の中で小さく笑う。


と。
それを感じ取ったように、仔犬がまたも腕の中で暴れ出した。



(あ、っわ…ぅ……!)



思わず口が開きそうになったが、そうすると限りある酸素が逃げてしまう。
悟空は暴れる仔犬を必死に抱き締めながら、落ち着くのを待つ。


まだ暴れようとする仔犬を、少々強引に押さえ込んだ。

これ以上水の中にはいられない。
悟空は身体を伸ばして、ようやく外界の酸素を取り込んだ。



「っは……はっ…!」
「悟空!」



流れに流されながら荒い呼吸を繰り返す子供。
三蔵は悟空に向かって水を掻き分ける。

水に濡れて、それでも煌く金糸。
待っていてくれた三蔵の表情に、後で怒られるなとぼんやりと考えた。
伸ばされる腕を掴もうと、悟空も三蔵に向かって手を伸ばす。


しかし、それが触れる前に足を何かに掴まれた。



「ぅあ!?」



悟空と三蔵の手が触れ合う直前に、悟空は体勢を崩した。
腕の中に仔犬を抱きかかえたまま、再び水の中に顔を突っ込む事になる。

酸素を吸うような暇はなかったから、悟空は思い切り濁った水を飲んでしまう。


足を掴んだままの何か。
それが悟空の動きを制限する所為で、水の上に上がれない。



「悟空、そいつを放せ!!」



聞こえてくる声に、悟空は首を横に振る。

そいつ────仔犬の事だ。
仔犬を手放して腕が自由になれば、幾らか楽になるだろうとは思う。
でも、そうしたら仔犬の方はどうなるのか。


足を掴む何かが、今度は腰を引き寄せる。
妖怪だろうかと思ったが、その手の気配はしなかった。



(なんなんだよっ……!)



喉の奥に詰まった水が、息苦しさを煽る。
ぼんやりとする頭の奥に、このまま眼を閉じてしまった方が楽な気がした。

腕の中の仔犬は、さっきからぴくりとも動かない。
それが気になって仕方がなかったが、もう目を開けてもいられなかった。


その中で掴む腕だけが、やけにはっきり感じられた。



ぐいっと上昇したかと思ったら、背中を思い切り叩かれた。
喉の奥に詰まっていた水が競り出てきて、咳と一緒にそれを吐き出す。
口の中に砂利の感覚は残ったが、それでも随分楽になった。

酸素を吸い込みながら目を開ければ、すぐ傍で見下ろしてくる紫闇の瞳。
背中を支えて包み込む腕は、意外としっかりしていて、濡れているとは思えない程に熱かった。


三蔵、と名前を呼ぼうとして、喉が引き攣った。
口を動かすのが精一杯で、身体に力が入らない。

結構やばかったんだな、とぼんやりとした頭で考えた。



「もう止めろ、悟空」
「………っあ……?」



咎めるにしては柔らかい言い方だった。
それの意味する所が判らずにいると、腕に違和感を感じた。

やけに軽くて────いや、其処にいる筈のものが感じられない。
見下ろしてみれば、確かに今まで抱いていた筈の仔犬が其処にいなかった。
悟空の顔色が、一気に青褪めた。



「三蔵、犬っ…!」
「だから止めろって言ってんだ」



もう一度水の中に戻ろうとした悟空を、しっかりとした腕が引き止めた。
だって、と言おうとして、悟空は其処で言葉を呑んでしまう。

見下ろしてくる、紫闇。
何処か苛々としているようで、逆らう事を許さない。
どうして三蔵がそんな顔をするのか、悟空には判らなかった。



「お前は、あいつを追うな」
「……なんで……」



追うな、なんて。
一人にするなんて。

自分を仔犬と重ねてしまっている悟空には、捨て置く事なんて出来なかった。
けれども見下ろしてくる瞳は絶対的な力を含んでいて、腕を振り払う事が出来ない。







「あいつは、もう駄目だ」







その言葉の直後に、唸り声が聞こえて。

振り返って、其処にいる存在に金色の瞳が見開かれた。














影だ。
大きな、影。


その影の形には見覚えがあったけれど、気配も同じだけれど。
同じくそれから放たれる禍々しさは、ついさっきまで感じられなかったものだ。

けれど悟空には、その気配の重みに覚えがある。
さっきまで自分の足を掴んでいたそれと、同じものだ。
ならばあれは、この影のものだというのか。
ならば。



「……うそ……」



影の気配。
それは、腕の中に抱いていたものと同じ。

でもあの時、仔犬は自分の腕の中にいた筈だ。
殊更大人しかったから心配ではあったけれど、其処にいたのは間違いない。
腕の中にいた筈なのに、どうしたらあの時、悟空を拘束する事が出来るのか。


ぐるぐると考えていたら、三蔵が懐から小銃を取り出していた。
その矛先が向けられるのは、こちらに向かって唸っている影。



「三蔵…!?」
「黙ってろ、悟空」



悟空を自分の胸に押し付けて、三蔵は真っ直ぐ前を睨んでいる。

川の中にいるお陰で、中々焦点が合わない。
影の方は忌々しげに三蔵に向かって唸っていた。



「三蔵、やめてよ! 何すんだよ!?」
「撃つに決まってるだろうが」
「駄目だよ、だって、あいつ…」



悟空が何が言いたいかは、判った。
撃つな、殺すな、と。

けれども、このまま影を放置できる訳がない。
既に成り下がってしまった存在をこのままにして置けば、何処で何が起きるか。
所謂“呪い”地味たものだって残るだろう。


そうなったら、傷付くのは悟空なのだ。



「駄目、撃っちゃ駄目! 殺しちゃ駄目だ!」



必死に訴える悟空の声は、聲となって頭にも響いてくる。
だが三蔵は抱き締めたままの悟空に、一瞥もくれない。

影の吼えた音は、三蔵の耳には届かない。




寄越せ、と。
影の昏い眼が言っている。

悟空は三蔵の腕の中に納まっていて、撃たないでくれと懇願している。


仔犬が最早仔犬ではないと、悟空も判っているだろう。
其処まで鈍い子供ではないし、何も知らない、甘いだけの幼子ではないのだ。

けれど、悟空にとって仔犬は仔犬でしかない。
姿形がどんなに変わっても、悟空にとっては自分が拾ってきた、甘えたな仔犬なのだ。
……その情がこの結果を生んだとは、まだ判っていない。



「見たくないなら、見るな」
「やだ! やだ、三蔵、撃っちゃやだ!」



きっとパニックになっているのだろう悟空は、三蔵の腕に手を伸ばす。
銃を取り上げようと言うのだろうが、リーチの差で小銃まで幼い手は届かなかった。



「三蔵、殺しちゃやだよ!」



殺気を放つ影に、銃を向けたままで動かない三蔵。
影は飛び掛る隙を伺っているようだが、やはり悟空の存在があるからだろう。
出所を探ってはいる物の、向かってくる気配はない。

抱き締められたままの悟空が、三蔵に縋り付いた。
見上げて来る金瞳は、雨ではない雫に濡れている。



「お願いだから……!」



殺さないで。
仔犬を殺さないで。

繰り返される言葉は、確かに三蔵の中に残る。
けれどそれを振り切るように、三蔵は銃のセーフティを外した。




銃声と。
ほぼ同時に、風を切る影。














子供の声は、降りしきる雨が飲み込んだ。