- maya -









風が止んだ後には、何も残されていない。




力を失ったように、三蔵の法衣を掴んでいた悟空の手がするりと落ちる。
その瞳の先には、最早なんの跡も残されてはいなかった。

影が地面を蹴った跡もない。
三蔵の放った弾丸も何処にも転がっていない。
仔犬の姿は、何処にも残されていない。


力をなくした子供を抱き上げて、三蔵はようやく川岸へと上がる事が出来た。



「……悟空」



呼びかけても、反応はない。
無理はないだろうと思ったから、それ以上は何も言わない事にした。


ふと、悟空の服がボロボロになっているのが伺えた。
千切れた服の下には、爪痕のようなものが幾らか残っている。
恐らく、川の中で足を掴まれた時についたのだろう。

“存在しない”のに“いた”形跡が此処にあった。
悟空には今は見えていないようだけど。

残された跡は、直に消えて判らなくなってしまうだろう。


俯いたままで抱えられている悟空は、虚ろな瞳をしている。
其処まで仔犬に心を寄せていたのかと思うと、少しだけ三蔵は腹立たしさを覚えた。



「…仕方ねえだろ」



撃ったのも、消えてしまうのも。
どうせ本来なら消えてしまう運命にあったのだ。
変わってしまったのは、三蔵が撃たなければならなかった事。

いつものように大人しく消えて行けば、此処まで悟空は傷付かなかったのに。
生半可に生を望んでしまうから、こういう結果になる。



「………泣くなら、さっさと泣けよ」



いつも笑っている子供が、思いの他涙腺が緩い事を知っている。
怖い夢を見たと泣いて、置いて行かないでと泣いて、一人ぼっちになるとすぐに泣いてしまう。
耐えていれば耐えるほどに、後で限界になるまで泣けなくなると知っている。

だから、今のうちに吐き出してしまえばいい。
感情に素直な方が、悟空らしいのだから。




「……ねぇ」



震える声と同時に、血の気の引いた手が三蔵の法衣を引っ張った。
見下ろせば、俯いたままで小さな声で問う悟空がいて。



「……オレの…所為…なの、かな……?」



問うまでもなく悟空はそう思っているのだろう。
幼い震える手は、果たして救いを望んでいるのか。


自分が見つけたから、自分が拾ってきてしまったから。
だから仔犬は、あんな風になってしまったのではないのか。

溺れているのを見つけて、手を伸ばして。
そのまま連れて帰って、場所を与えて。
そんな事をしてしまったから、子犬はああなってしまったのか。



「……テメェがやった事じゃねえよ」
「でも」
「お前は何も関係ない」



仔犬が生にしがみ付こうとした事も、悟空が仔犬を傍に置いた事も。
区別のつかなかった悟空にとっては、普通の犬猫を拾ってくる事となんら変わりはなかった。

悟空が仔犬を見つけたのは偶然で、だから拾ってきたのも偶然だ。
三蔵だっていつもの事だと気にしていなかったし、直に消えるだろうと思っていた。
仔犬があそこまで悟空に執着するとは思っていなかった。
何もかもが偶然だったのだ。


だけど、と悟空は呟いて。



「…お前は関係ねぇ」
「……違う」



やっぱり、と呟いてから、悟空は一度口を噤んだ。
まるで断裁を待つような、その表情。







「オレが重ねちゃったから」



オレが捨てられたくないって思ったから。
傍にいたいって思ったから。

それがきっと、仔犬に伝染っちゃったんだ。






捨てられたくない。
捨てたくない。

傍にいて欲しい。
傍にいたい。


まるで鏡を見ていたように、悟空は仔犬に接していた。
三蔵が自分を見てくれたら嬉しくて、仔犬は悟空に見つめられると喜んだ。
そのまま三蔵と自分の関係を、自分と仔犬の間に投影していたのだ。

三蔵が傍にいてくれるというのなら、きっと自分はなんでもすると悟空は思う。
そしてそれは仔犬も同じで、悟空が自分と一緒にいてくれるなら体裁などどうでも良かったのだ。



結果。
仔犬はまるで、狂ったように悟空を引き込もうとした。



「……悟空」
「だって、だって! オレが…オレが……!」



一人になりたくない。
置いていかれたくない。
それは、いつも悟空が思っている事。

三蔵と一緒にいたくて、三蔵の傍にいたくて。
傍にいれたら嬉しくて、傍にいられなかったら不安で怖くて。



「……やめろ、悟空」
「でも……!」



拾ったのが自分でなかったら。
自分が見つけなかったら。

見上げる悟空の瞳は、もう裁かれる事を望んでいるのではないのか。
小さな命を狂わせてしまった事を、きっと誰よりも悔いている。
裁かれてしまったほうが、確かに楽になるかも知れない。


けれど、三蔵に悟空を裁く気はなかった。



「……あいつが自分で招いた事だ」



生にしがみ付いたのも、悟空に執着したのも。
全て、あの仔犬が自ら招いた事なのだ。
悟空が気に止める必要はない。

ようやく見上げてきた金色の瞳は、やはり涙で濡れている。


それを見ないように、三蔵は悟空の顔を自分の胸に押し付けた。



「っふぇ…ひっ……い…う……」



気にするな、と何度言った所で、無駄なのは判っている。
悟空は心の底から、あの仔犬に情を寄せていたのだ。
容易く切り捨てられるものではない筈だ。

けれど、三蔵はそれ以外に言える言葉を持たない。
悟空と違って、最初から仔犬にはそれほど良い感情を持っていなかったのだ。
仔犬を失って泣いている悟空とは、立場が違い過ぎる。



「…えぅっ…う、ふぅう……」



雨はまだ止んでいないけれど、風は幾らか収まっていた。
戻った頃には、二人揃って風邪を引くかもしれない。

そういえば、全ての事が済んだらブン殴るつもりだったな。
今更ながらにそんな事を考えたが、腕の中に納まる子供を見ればそんな気も失せた。


ただしばらくの間、仕事はサボろう。
雨が止んだら遠出の仕事が入るだろうと覚えてはいたが、やる気が起きない。
それに何より、こんな状態の子供を一人にする気にはならなかった。

落ち着くまでは、傍にいなければならないだろう。
悟空の、爪痕が消えるまでは。



「う、うぁっ、…ふっ……あぁあああん……」



嗚咽だった悟空の声が、少しずつ大きくなって行く。
赤子をあやすように、三蔵はその背中を軽く叩いてやった。



「……ったく……情けねえ面してんじゃねえよ」
「だって…だっ……ひっひぅっ……」
「…今だけだぞ」



雨の中で、悟空が落ち着くのを待ってやるのも。
涙で法衣が汚れれしまうのを許すのも。

どうせ誰も此処には来ない。


三蔵の法衣を握る悟空の手は、雨に体温を奪われていて血の気がない。
それでも三蔵にしがみついて、まるで捕まえようとしているようだった。

その存在が消えていったりしないように。
擦り抜けて行ってしまわないように。
仔犬のように、離れていったりしないように。



「さんぞぉ……さんぞぉお……!」



幼い子供は、縋り尽しか捕まえている術を知らない。


仔犬に銃を向けた時、子供は何を思っただろう。
あまりにも簡単に切り捨てようとする三蔵を、悟空はどう思っただろう。

不安になったのかも知れない。
自分もこんな風に簡単に、切り捨てられるのではないだろうかと。
なんの感情の起伏もないままに、切り捨てられるのではないかと。


悟空は、失う事に敏感だ。
一人になるという事に、言い知れぬ恐怖を抱く。

今回は、どんな風に心に残るのだろうか。



「……悟空」



名を呼べば、何度か愚図るように頭を押し付けてから、ゆるゆると顔を上げた。
いつもは爛々と輝いている金瞳は、今ばかりは少しだけ充血している。



「…お前は捨てねえよ」
「………?」
「あんな犬と一緒だとは思ってない」



あんな、と言うと冷たく聞こえるだろうけれど。
悟空の存在は、三蔵の中で、仔犬と同等の位置にはいないのだ。


それでも、同じように悟空が自分に向かって敵意を見せるのなら。
きっとその時は、躊躇う事無く引き金を引くだろう。

それは、決して切り捨てる為ではない。
終わらせてやる為に、引き金を引く。
きっとそうなった時も、悟空は相変わらず泣いているだろうから。



「捨てるかよ……お前みたいに、煩いガキ」
「……さんぞ……」
「直ぐ泣いて呼んで、そんなガキを放置できるか」



仔犬のように、吼える声が聞こえない訳ではない。
仔犬のように、“存在しない”訳ではない。

手元に置いていないと、この子供は直ぐに煩く呼ぶのだから。








其処に“存在している”限り。

きっとこの手を、離す事はないのだから。























羽根が揺れる



白い羽根が





空から落ちて涙に濡れて























キミの哀しみを風にして

キミの優しさを風にして




キミと繋いだ手を離さないでと祈りながら




















FIN.




後書き