satya











真実は誰の目にも見えない







だから、せめて

















あなたを真実だと思わせて
































慣れた事と言えば、慣れた事だ。
けれども、聞き流せずにいるのも事実。

彼等の囁く言葉が真実だとは思わないけれど、かと言って妄言と決める事も出来ない。
確かな自信を抱くことが出来ない自分が悔しくて、けれど何も言い返せない。



パターンがないものだから、言われる言葉は流石に予想がつくようになった。
僧侶の顔も覚えたから、誰がどういう風に何を喋るか、大体判る。
オブラートに包んだ振りだけで、隙間から鋭利な刃が見えるような者もいれば、隠しもしない者だっている。

さっき自分の目の前で立ちふさがっていたのは、後者だ。
妖怪がどうの、穢れているだの、自分を拾った三蔵の考えが判らないだの。


耳胼胝が出来るぐらいに聞いてきた。
それに一々凹んでいたらキリがない、幼い頃は大分気にしていたけれど。
だって昔はそれこそ、今よりずっと自信がなくて、そして怖かったから。



時間が流れるごとに、向けられる言の葉は鋭くなる。
保護者がいない時に殴られた事だってあるし、冤罪なんかも頻繁になった。
どうにかして、自分をこの寺院から追い出そうというのだと、誰に聞かなくても判っていた。

けれど、自分はこの寺院を出て行こうとしない。
いや、寺から追い出そうという事自体が少々的外れなのだ。

だってこの寺院になんて、自分は蚊程の未練だって抱いちゃいない。


大好きな人が、此処にいる。
その人の傍以外では、きっと自分は息が出来ない。

生きる為には、自分は此処にいなければならないのだ。
大好きな人がいるこの寺院にいなければ。
仕事の邪魔だと締め出しを食らっても、仏具を壊して怒られても、此処にいなければ生きていけない。


だから勝手なことを言う連中に惑わされてなんていられない。

拾われたばかりの頃に言われた。
奴らの鬱憤晴らしに付き合うな、下らなんことだ、と。
大好きな人がそう言うなら、そうなんだと信じている。








だけどまた、

一人で勝手に落ち込んで、保護者にしがみついている自分がいる。










仕事中にも関わらず、腰にべったりと張り付いている子供。
ちらと肩越しに見遣ってみても、俯いている為、表情は伺えなかった。

床に膝を落として、膝立ちの格好で悟空は三蔵にしがみついていた。
なんだってそういう体勢になってまでくっついてくるのか。
背中の方がまだ楽なんじゃないかと思ったが、其処には自分が座る椅子の背凭れがある。
其処では背凭れが邪魔になって暖かくない、と言ったのはつい最近のことだったと思う。


まぁ、作業の邪魔にはならないので、放って置いている。



(……どうせまた)



考えるまでもない、と三蔵は短く嘆息した。
悟空の反応はないから、それはどうやら気付かれなかったらしい。

時々愚図ったように子供の頭が震えたが、今度はこっちが気付かなかった振りをする。



(…下らん)



これで今月に入って何度目か、と思い出してみる。
その間も仕事の手は止めていない。


昨日、一昨日、連続でこういう事になった。
その前は一週間前で、そのまた前はそれから三日前。

どうも今月は頻繁だ。
いつもなら週に一回、多くても二回だけだったと言うのに。


ひょっとして単純に甘えたいだけじゃないだろうかと思った。
しかし、法衣を握る小さな手を見て、そういう訳でもないかと結論を出す。

確かに悟空は甘え癖が抜けないが、こうも保護者の都合を考えなかった事はない。
我慢して我慢して我慢して、それで爆発したらこういう状況にもなるけれど。
だが此処まで頻度は高くなかっただろう。



(……いつまで続くんだ?)



今月一杯はこのままだろうか。
だとしたら、宥めてやるのが正直面倒臭い。

けれど放って置いたら、きっとあの煩い聲でまで呼び始めるのだ。
あれは遮るものが何もないから、厄介と言えば厄介。
あれが始まったら、面倒でもなんでも、悟空を落ち着けてやるしかない。



(……泣き喚かんだけマシだとするか……)



意外と緩い子供の涙腺を思い出して、三蔵は今度ははっきりと溜息を吐いた。
さも、仕事が面倒臭いだけの振りを装いながら。



そう言えば、悟空は今日は何処にいたのだろうか。
仕事が妙に捗るなと思ったのは、子供がいなかった所為だ。


今朝自分が仕事に出向いてから、子供が何処で如何していたのか。
天気の良い日は大抵近くの山野で遊んでいる。
しかし悟空は外で遊んできたような様子はなかった。

となれば、やはり寺院内で時間を潰していたのだろう。
特に面白いものなんてないだろうに、悟空は気紛れにそういう日がある。


そして何かしらを聞いて来てしまうのだ。



(気にするなって言ってんだろうが)



言われている事は大体予想がつく。
自分がこの寺院から離れて───庇護から手放している間に何をされているのかも。
三蔵も、幼少時代の境遇は悟空と似ているようなものだから。

決定的に違うのは、それを気にしているか否か。
自分だって全く気にならなかった訳ではないけど、どうでも良いことだと思っていたのも確かだ。
それに自分が下手に反応しては奴らは付け上がるだけだっただろう。
それは癪だった。


決して悟空が弱い訳ではない。
寧ろ強いと三蔵は思う。
子供特有の強さと言うものだ。

けれどもそれは、酷く脆い。
基盤が少しでも揺れれば、其処に立つものは全てバランスを崩してしまう。



(ったく……)



最後の書類に判を押して、これで仕事は終わり。
けれども、三蔵は其処から動くことが出来なかった。

腰にしがみつく塊は、無理やり退かせる事も出来るだろう。
だが離れてしまっても、必ずまたすぐにくっついてくるから、無駄な労力になってしまうのだ。
前例が幾つもあるから、もう意味のない事はやらないと決めたのである。


あまりにも動かないから、まさか寝たんじゃないかと思う事もある。
膝も辛い姿勢を取っているにも関わらず、ぴくりともしないのだ。
流石にしがみつく手は疲れるから時折掴み直されるけれど、それだけだ。


聲はまだ聞こえない。
だから、自分が呼びかけてやる必要はないのだと三蔵は思う。

あれは一種のシグナルだと三蔵は思っている。
悟空の基盤が少しでも揺らいだ時に、あの聲は聞こえ始めるから。
全く、勝手な子供だと何度も思った三蔵だ。



(………面倒臭ぇ)



聞こえ始めはいつだって唐突。
最初に聞こえた時と同じように。

付き合わなければならないのも、きっとあの日から変わっていない。

書類を取りにきた僧侶が、不思議そうな顔をしたのが見えた。
仕事を終えているにも関わらず、その場から立つ事もしなければ、煙草も吸っていないからだろう。
確かに、三蔵にしては珍しい光景だ。

けれども、腰にしがみついている大地色の髪を見つけて、納得したようだった。
そしてそれと同時に、やはり眉を顰め、何も言わずに退出していく。


三蔵が傍にいる時は、誰も何も言わない。
度胸のある連中はコソコソと話しているようだが、それも三蔵が睨めば終わりだ。
誰も庇護下にいる状態で何か言う事はなかった。



(……それも馬鹿馬鹿しいな)



言うなら言えばいい。
どうせ、どれも勝手な妄言なのだ。
真実など其処にありはしない。

中途半端に耳に入ると、余計に頭の中に残るものだと思う。



(……いや)



それだけではないか、と腰に纏わり着いている子供を見下ろして考え直した。

正面からであれ、間接的であれ、この子供の頭には鮮明に残るのだろう。
普段は物覚えが悪いのに、どうしてこういう時だけ、と思わないでもない。
いつも通りの物覚えの悪さで、他の事柄と一緒に忘れてしまえば良いものを。


それが出来ないのは、多分。

悟空にとって、そう簡単に割り切れることではないからだ。



「……ぅ……」



愚図る声が鼓膜に届いたけれど、知らない振りをした。
法衣を握る手に一層に力がこもり、薄い肩が小さく震えているのを見た。
けれども、それも愚図る声と一緒に気付かなかった振りをする。


拾った頃を思えば、随分我慢が聞くようになったんじゃないかと思う。

だってあの頃は、少しでも三蔵の姿が見えないと煩く呼んでいたのだ。
そして三蔵を見つけると、駆け寄ってきて捕まえるように手を伸ばしていた。

あの頃に比べれば、比較的落ち着いたほうだろう。
三蔵の仕事が終わるまで待っていられるようになったのだから。



なるべく偶然と気紛れを装って、悟空の頭に手を置いた。
ぴくりと僅かに身動ぎしたけれど、子供は何も言わなかった。



扉を叩く音がして、一人の修行僧が入ってきた。
手には何も持っていない。



「三蔵様、参拝の方が三蔵様にお会いしたいと……」



また面倒くさいことを。

寺院に布施を多くしている者だと言うから、無碍に追い返す事は出来ない。
適当に話をしたら直ぐに戻って来るつもりではあるけれど。



「……すぐ行く」



気乗りしないのを隠しもしない声で、三蔵は答えた。

僧侶は頭を垂れて礼をしてから、扉を閉めた。
耳障りな軋む音がした後、室内はまた静寂に包まれる。


全く、面倒臭い。
それしか今は頭にない。
布施が多い参拝者だと言っていたが、どうせ三蔵はその人物の顔なんて覚えていない。
だから当然、その参拝者がどういう人柄であるのかも知らない。

もとより、三蔵は人の顔、人格を覚える事は得意ではない。
余程に印象の強い者以外は、基本的にその他大勢で括られてしまうからだ。
今回の参拝者も、恐らくその中の一人。



「おい、悟空」



流石にこうなっては、現状維持のままではいられなくなった。
呼んでみると、今度はのろのろとした緩慢な動きで顔を上げる。

頬が僅かに紅潮し、目も充血しかかっているのが見えた。
瞳が潤んでいるのは否めなかったけれど、それを言う事はしない。



「仕事だ」



言うと、悟空は俯いた。
しがみ付いたままの手は、僅かに力が緩んでいるが、放そうとはしない。
放さなければとは思っているのだろうが。

無理に引き剥がすことはせずに、待ってやる。
そうしていれば、少しずつ少しずつ、悟空の手は法衣から離れて行く。


三蔵から離れると、それまで膝立ちになっていた悟空が、その場にぺたんと座り込んだ。

この季節の床は冷えるだろうに、それでも其処から動く気はないらしい。
いや、動く気にならない、という方が正しいのか。




くしゃ、と大地色の髪を掻き撫ぜる。

幼い手がまた僅かに動いたけれど、伸ばされる事はなかった。



























一人になって、悟空はぼんやりと天井を仰いだ。





長い時間しがみついていたからだろう。
腕には保護者の温もりがまだ残っていて、それがまた淋しさを助長させるような気がした。
手のひらの方は、力が入りすぎていたのか、僅かに血が引いているようにも見える。

頭の上に手が当たったのは、偶然なのか。
よく判らないから、それはそれ以上考えない事にした。


少し思考回路が暗い方向に進んでいるとは、自分なりにも予想がついた。



(……だってさ……)



座り込んだ床は冷たかったけれど、動く気にはなれない。
このまま横になったらきっと寝れるんだろうな、でも三蔵に怒られるな、とぼんやりと考えた。

寝るなら寝室で寝ろ、と言われる事は必至。
だけど悟空は、今寝室に戻って一人で寝たくはなかった。
とにかく、三蔵の傍にいたかった。



(………判ってるよ。判ってる)



あんな風にしがみついていたら、仕事の邪魔になるのも。
また修行僧や年老いた僧侶から何かしら嫌味を言われるのも。

その原因が、全部自分にある事も。


判っている、つもりだ。


それでも。
一度頭に残ってしまった事は、中々消えてくれない。

まるで布の上に絵の具で着色された水を零したようだ。
幾ら早く洗っても、それは既に染み付いていて消えてくれない。
何度消えてくれと洗ってみても、一定の濃さから変わってくれない。

どんなに下らないと判っていても。



(……気にするなって、するだけ無駄だって)



気にしたら、相手が付け上がる。
弱味を見せた方の負けなんだと、拾われたばかりの頃に言われた。

だから何を言われても、毅然としているのが良い。
どうせなら聞こえなかった振りでもして、そして堂々としていればいい。
三蔵は自分を捨てたりなんてしないと約束してくれたから。


だからそれを知らない奴らの言う事なんて、僅かにも真実なんてありはしないのだ。



真実なんて、其処にはない。
唯一つだけしかない。

だけれど、やっぱり怖くなってしまうのだ。
判っていても、一抹の不安はどうしても拭えない。
それが自分の弱さの所為だと判ってはいても。


また目尻に溜まってきた水を、乱暴に服の袖で拭った。
三蔵がいなくなってしまったからだろうか、早々に我慢が出来なくなっている。
あの温もりが失くなってしまっただけで、こんなにも。


弱い者を、三蔵は傍には置いてくれない。
今は待ってくれているだけで、いつまでも此のままではいられない。

息を吸って、吐いて、繰り返して、どうにか落ち着かせようと努めてみる。
涙を堪えるとどうしても息を詰めてしまうから、そうするとまた苦しくなってしまうのだ。
だからなるべく呼吸を大きく続けて、心臓の緊張が解けるのを待つ。



「…へー、き」



口に出して言ってみたら、意外と楽になったような気がした。
それが自己暗示の一種であるとは判らないが、やはり言葉にすると違うものだ。



「……うん」



無機質な天井を見上げながら、誰に対してでもなく呟く。

大丈夫。
もう苦しくない。



「大丈夫」



三蔵が戻って来た時、きっと笑顔で出迎えれるように。
彼が仕事から戻って来た時、いつもしているように、自然に。


右手を胸の辺りに当ててみる。

大丈夫。
もう苦しくない。



「……三蔵……」






己の絶対の名を呼べば、それがまた胸の中を暖かくさせるような気がした。