satya





扉を開ける音がして、悟空は首を巡らせた。
しかし悟空がいる位置からは、執務机が邪魔で扉の方が伺えない。

三蔵が帰ってきた────とは、到底思えなかった。
悟空の保護者に対しての勘は、自身がはっきりと感じ取れない程に敏感だ。
遠く離れているなら当然、近くにいると言うのなら尚更に。

だからきっと、入ってきたのは三蔵ではない。


悟空はなるべく音を立てないように、執務机に下に滑り込んだ。

入ってきたのが三蔵でないとしたら、僧侶以外にいない。
三蔵がいないのに悟空が此処にいると知ったら、また何を言われるか判ったものではないのだ。
慣れたと言えば慣れた事でも、やはりなるべく聞きたくないものだ。



「……あの妖怪はいないのか?」
「三蔵様もおられんのだ、そうだろうな」



ドサ、と何かを置く音がした。

折角三蔵が仕事を終わらせたというのに、また追加の山だろうか。
内容はどれも取るに足らない下らないものだと、いつだったか三蔵が言っていたのを覚えている。
少しは自分たちでやれば良いのに、と思ってしまう悟空だ。



「惜しいな、いたら遊んでやろうと思っていたのに」



遊んで、なんて言葉の選びを間違えていると悟空は思う。
寺院の僧侶で自分と一緒に遊んでくれる人なんていないし、いたらその人はきっと針の筵にされる。

悟空と一緒にいて何も言わないのは、やはり保護者一人だけなのだ。



「全く、なんの役にも立たん癖に居座りおって」
「こちらの相手をするのは代償というものだろうにな」



鬱憤晴らしにしか使えないのだから、と卑下た笑い声が聞こえた。

これ位は、なんともない。
ただ自分の事だけを言われるのは、自分が気にしなければ良いだけの事。
そして忘れてしまえば、後には何も残らない。


ほら、それだけの事。



「三蔵様も何の為に拾って来られたのやら……」
「最高僧だからと奢っているのではないか?」
「下手にそういう事を言うと、後が怖いぞ」



三蔵の悪口は、自分が言われるよりも腹が立つ。
けれど、此処で自分が何かしたら、彼の立場がもっと悪いものになる。
だから、まだ我慢しなければいけない。

それに、きっと三蔵は自分がなんて言われているのか既に知り得ている。
それで取り合わないのだから、彼にとってはさしたる事ではないのだろう。


やっぱり、それだけの事なのだ。



もう早く出て行ってくれないかな、と思う。
こんな話を聞きたくて聞いている訳ではないのだから、思っても当然だ。

書類を置きに来ただけなら、もう退出したっていいだろうに。
大体、こんな風に勝手に部屋に溜まられる方が三蔵は嫌なのではないか。


出て行って文句を言ってやりたい気持ちがない訳ではなかった。
けれど自分が口数で勝てる訳がないし、やっぱり三蔵に迷惑がかかるのは嫌だし。
息を殺してじっと待っている他ない。

もう見付かる心配はしていなかった。
下手な物音を立てなければ、きっとこのままやり過ごせる。



「やはりあの妖怪の子供が誑かしているのではないか?」
「近頃はすっかり子供に絆されているし……」
「このままではやはり良くないな……」



それにしても、やはり何度聞いても腹が立つ。
自分の事ではなくて、三蔵を悪く言われるのが。

三蔵が妖怪なんかに誑かされる訳がない。
自分に絆されていると言ったけれど、どうだろうな、と悟空は思う。
いつだって自分が勝手について回っているだけなのだから。
けれど、傍目にはそう言う風に見えるのだろうか。


何にしたって、彼等は三蔵の事を判っていない。
自分だって三蔵の全てを理解している訳ではないけれど、何が真実であるかはちゃんと判っている。





だけど。








「三蔵様の為にならぬな……」











その言葉が、今は酷く頭に残る。














部屋の扉の閉まる音がして、やっと息を吐いた。
息を吐いて、また自分で呼吸を止めていたのだと遅蒔きに気付く。

そうして息を詰めていたから、気配を探られる事もなかったのだろうけれど、やはり苦しかった。
数分前に何度も深呼吸を繰り返して落ち着けたのに、また逆戻りだ。
もうそろそろ三蔵が帰って来るかも知れないから、早く元通りにしなければいけないのに。


……いけないのに。



(……判んないよ)



やっぱり判らない。
気にしなくていいと判っていても、やはり判らない。

だって耳に残る。
だって頭に残る。
それに蚊ほどの真実もないとしても。



(なんだよ…なんなんだよ……)



傍にいて良いとか、悪いとか。
どうしてそう言う風に割り振りされなければならないのだろう。
違うものだと、どうして其処に在る事を許されないのだろう。

ただ一緒にいたいだけなのに、どうしてそれも叶えられない事のように思えてしまうのだろう。
大好きな人と一緒にいたいと思う事は、きっと生き物が酸素を取り込むのと同じ事だと思うのに。


先ほどと同じように酸素を思い切り吸って、長い拍で吐き出した。

ほら、息をするのはやっぱりこんなに自然なことだ。



(一緒にいたいだけだよ)



そう思う明確な理由なんて知らない。
ただ当たり前のように、その思いは悟空の支柱になっている。



(為になるとか、ならないとかなじゃないんだ)



確かに、いつも甘えてばかりだけど。
何かにつけて迷惑をかけてばかりだけど。

そういう事ではないのだ。


一緒にいたくて、伸ばした手を、三蔵がずっと掴んでくれている。
だからその手が離されるまでは、ずっとずっと一緒にいる。

根拠のない、けれど悟空にとっては当たり前の事。


膝を抱えて、机の下に身を潜めたままで丸くなる。
顔を伏せて、窮屈な場所に収まったままで深呼吸を繰り返す。

元に戻ったと思ったのに、落ち着けたと思ったのに、笑って迎えられると思ったのに。
もう何もかもが無駄になってしまったようで、悔しいような恥ずかしいような。
とにかくもう一回落ち着けなければ、三蔵を笑って出迎える事も出来ない。


だけど。



(……も、うっとうしいよ)



いつまでも頭の中に残る。

自分は不要だと。
三蔵にとっては邪魔なだけだと。


気にするな、と何度も何度も口の中で呟いた。
さっきはそれで落ち着いた。
なのに今度は、ちっとも効果が見られない。

挙句の果てに、勝手に視界が水で歪められてしまう。
そうなってしまったら、簡単には止まってくれない。



(…やめろってば)



───それは繰り返される声に対してのものなのか、勝手に零れる水に対してか。
彼がいないだけでいとも容易く死んでしまいそうになる自分に対してか。

判らなかったけれど、とにかく止まれ、やめろ、と自分に言い聞かせる。
何度も袖で目元を拭ったから、お気に入りの服の袖はもうぐしょぐしょだ。
この間買って貰ったばかりのものだったのに、と思うと余計に泣けてきた。


もう部屋を飛び出て、彼の所に行ってしまおうか。
直ぐに帰って来ると思っても、直ぐっていつだよ、とまた不安になってしまう。

無限ループだ。
切がない。
自分一人じゃ終わらせることが出来ない。



彼がいなきゃ。
あの人がいなきゃ。

光がなきゃ。











「……何やってんだ、悟空」









何が真実なんだか、判らない。