繋ぎ糸










一度光を知ったものは



光の中で在る事を覚えた生き物は












二度と暗闇には戻れはしない
















知らずにいた日々には還れない
























先を歩いていたと思ったら、何時の間にか横にいる。
横にいると思ったら、後ろでうろちょろしながらついてくる。

少しは大人しくしていろと、一体何度言っただろう。
それは思い出すだけ無駄な行為で、それよりも今は歩く事に専念しなければならない。
何せこの子供のお陰で予定は大幅に狂う羽目になってしまったのだから。


まるで仔犬のように三蔵の周りをくるくると回っている子供。
犬ではなくて猿なのだと特に意味の無い事を考えつつ、三蔵は溜息を吐く。
悟空はそれに構うこともなく、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ。
見たことのない花があるとか、あの木の実は食えるのかとか、そればかりだ。

随分長い山道を登っていると言うのに、子供は疲れた顔の一つも見せない。
毎日、寺院の周りの野山を駆け回っているのだから、山一つ超えるぐらい、子供にとっては訳ないのだろう。

しかし、三蔵は違う。
体力がないとは言わないが、子供の底無しについていける訳がない。
最初はそれなりに相手をしていた三蔵だったが、今は呼ぶ声に目をむける気力もない。



「さんぞー、さんぞー、あれなんだ?」



後ろでちょこまかしていた悟空が追いついて、三蔵の法衣を引っ張る。
ちらりと肩越しに目をやれば、既に通り過ぎた方向を指差していた。
真っ直ぐ見上げてくる瞳は、何処までも透明度が高い。

けれど、三蔵はその瞳に浮かび上がる期待には応えなかった。
ついと見上げて来る視線から顔を逸らして、また前を向いて歩き始める。



「なぁ、三蔵ってばぁ」



相手をしなくても、悟空は何度も三蔵を呼ぶ。
小さな手が法衣を掴み、くいくいと何度も引っ張った。



「あれ、あれってなんなの?」



悟空が指差している物。
どうせ大したものではないのだ。


見たことのない動物であったり、花であったり。
悟空が興味を示すものは、大概そういうものだ。
何処にでもある、ありふれたもの、けれど自分は見た事がないもの。

三蔵にとってはどれも下らないもので、見慣れたものばかり。
それでも悟空にとっては始めて見るものなのだ。


だから、こんな風に知りたがる。



それでも無視していると、悟空もようやく口を噤んだ。
拗ねてしまったという事だけが、傍らから感じる気配で判る。

悟空は、すぐに感情を表に出す。
隠すという行為を知らないかのように苦手とする悟空は、嘘がつけない。
自分の感情の事であるならば、尚更に。


いいじゃん、教えてくれたって。
減るもんじゃないのに。

小さく聞こえてくる、そんな声。
高い声音は、意外とよく空気を通すものなのだ。



それでも、法衣を掴む小さな手だけは離れない。



あからさまに不満であるという悟空の空気を感じつつ、誰の所為だと三蔵は思う。

先日泊まった宿屋を予定通りに出発していれば、こんな風に急ぐ必要もなかった。
だからと言って悟空の相手をしたかどうかは、別の話になるが。
こんな風にさっさと足を速める事にもならなかったのだ。


今日の朝になって宿を立とうとしたら、途端に悟空が腹痛を訴え始めた。
理由は結局判らなかったのだが、三蔵はどうせ拾い食いでもしたのだろうと決めている。

医者に痛み止めを貰って、仕方なく出発を延期させた。
昼になってようやく収まり、いつものように食事も済ませて、とうやく出立。
半日という時間のロスは、意外と大きなものだった。


けれども、かと言って悟空が大人しく三蔵の後ろをついて来る筈がないのだ。



「……ぅー………」



今この瞬間こそ、傍らで拗ねて大人しくしているけれど、それだって数秒前を思えばの事。
どうせあと数分したら、逆戻りしてしまうに決まっているのだ。

きょろきょろ辺りを見回している今。
きっと悟空は、三蔵の気を引きそうなものを探しているのだろう。
それが見付かれば、もっと構ってくれると思っているから。



「……むぅ……」



しかし悟空があちこち見回している間に、三蔵はさっさと前へ進んでしまう。
置いていかれる訳にも行かないから、悟空は早足でそれを追いかけていく。
辺りをゆっくり見回す暇など、早々なかった。



「……んー…」



法衣を掴む小さな手が、きゅっと力を篭める。
まるで、相手をしてくれない保護者への抗議のように。

しかし、やがてその手は離れ。
後ろをずっとついて来ていた足音が、ぴたりと止んでしまった。

不審に思って、振り返ると。



「……何やってんだ猿、置いて行かれてぇのか」



道の真ん中で、俯いたままで立ち尽くしている子供。



「おい、悟空」



呼んでも、返事はない。
前髪の下から見上げて来る金瞳があるだけだ。

宣言通りに置いていっても構わない。
どうせ悟空が後から追いかけて来るのは、判りきったことだ。
悟空が三蔵から離れるなんて、出来る筈がないのだから。


けれどもこれは、この子供の精一杯の抗議。



「……返事しろ、悟空」



仕方なく数歩戻って、悟空の前に立つ。
ようやく、悟空は顔を上げた。

それから、ぽすんと三蔵の腰に抱き付く。



「…んな事してる暇があるなら、歩け」
「……もうちょっと」



急ぎだと言うのに、まるでこの子供は判っていない。

こんな事なら、置いてくれば良かったか。
今更ながら、そんな事を考える。
するとそれが判る訳ではないだろうに、ぎゅう、と更に強くしがみつかれてしまった。


全く、これなら置いてくるべきだったか。
いつものように一人でいるのは嫌だと言うから、折れてしまったのだが、今になって後悔する。



「どれくらいだ」
「5分」
「却下。長い」
「じゃあ4分」



意地でも粘る様子の子供に、今日何度目か知れない溜息が漏れてしまう。

こんな山の中腹で立ち止まっているつもりはない。
それは、三蔵が急いでいる事も確かに理由の一つ。

けれど他にも、この辺りの山は物騒なのだと聞いているからだ。
山賊だのなんだの、蛮族の類は慣れているが、遭遇すれば時間をロスするのは確実。
面倒を嫌う三蔵が避けようと思うのは、至極当然のことだった。


けれども、子供にそういう理由は関係ないのだ。



「………ダメなら、3分」



法衣に顔を埋めながら、悟空は繰り返し呟く。
3分、3分、これ以上は縮めたくないらしい。

何も言わずに頭を撫でると、しがみつく身体から僅かに力が抜けた。



「此処までだぞ」
「うん」
「あとは歩き通しだ。夜には着くからな」
「うん」



譲歩するのは、此処までだ。
到着をこれ以上遅らせる訳には行かない。
悟空もそれは一応判っているようで、素直に頷いた。


道のど真ん中で、子供と僧侶が立ち尽くしている。
傍目に見て、どんな光景なのだろうか。

三蔵の人となりを知らぬ者が見れば、微笑ましいだとか思うのだろうか。
慈悲深い僧侶が、孤児の子供を慰めている、とか言うように。
実際は、妥協の結果でこうなっただけなのだとは知らずに。


けれども、知らぬ者が見れば。



───────格好の獲物。








「まあ、もうちょい休んで行ったらどうだい? 其処の坊さん」








………こういう輩からしてみれば。









ぱっと子供が離れて、三蔵の隣で法衣の袖を掴む。
三蔵は声のした茂みへと目を向けていて、左手は袂の銀銃に触れていた。


木々を掻き分けて姿を現したのは、妖怪の集団。
手に刀や斧を持ち、どうやら噂の蛮族とは、この妖怪達のことらしい。

囲まれてはいないが、数が多い。
悟空は三蔵の傍らで隠れているようにも見えるが、神経だけは尖っている。
無言で妖怪たちを見る三蔵もそれは同じで、他に気配がないか探る。



「こんな所で突っ立ってるのも疲れるだろ? 寝て行けよ」



見るからに凶悪な目をしながら、妖怪たちはじりじりと距離を詰める。

が、三蔵が思う事と言えば、



(……小物だな)



その程度だ。

別に大きかろうが小さかろうが、どうでも良い事だ。
ただ歩み寄ってくる連中についての感想が、それ片付いてしまったというだけの事。



「悪いが先を急ぐんでな。休む暇なんざねぇんだよ」
「さっきから見てたが、ちっとも急いでないじゃねえか」
「フン……わざわざ観察してたのか。確かに、お前等は急ぐ用もない暇人らしいがな」



こっちは仕事があるんだ、と言いつつ、彼等から目を離す。
相手をするのも馬鹿らしいと歩き出せば、悟空はきょとんとしつつも、素直にそれについて行った。

黙っていられないのは、妖怪達の方である。
僧侶と子供と言う、格好の的を見つけたと思ったら、この扱い。
基本的に人間を下等な生物だと思っている彼等にして見れば、侮辱など聞き流せる訳がなかった。



「このっ!!!」



地面を蹴った音と、数瞬遅れてから風を切る音。

けれども、振り下ろされた刃が彼等に突き刺さることはなかった。


三蔵よりも先に反応したのは、悟空だ。
法衣の裾を掴んでいた小さな手は離れ、振り向き様に間近に迫った妖怪の腹を蹴り飛ばした。
小さな身体に似つかわしくない力に押され、妖怪はあっさりと地面に落ちる。



「相手にするなって言っただろうが、悟空」
「だってあっちが先に手出して来たんだもん」


やられたら腹立つじゃん、時間の無駄だろうが。
そんな話をしている二人に、再び妖怪の牙が襲い掛かる。

咆哮を上げて飛び掛ってくる妖怪に、迷いなく向けられる銃口。



「テメェが相手するからだぞ」
「だから、あっちが絡んで来たんじゃんか!」



自分は悪くない、と言う悟空。
その言い合いの結末は、別段、どちらでも良い事だ。

飛び掛ってきた妖怪を殴り飛ばしながら、悟空は拗ねた顔になっている。
折角甘えさせて貰っていた所に、とんだ邪魔が入ったからだろう。



「このガキ!」
「ガキじゃない!!」



斧が振り下ろさせるにも臆する事無く、悟空はその妖怪の手を蹴り上げた。
蹴った手を踏み台にして跳ぶと、妖怪の顎をまた蹴り、顔を踏んで後ろにいた妖怪を殴り飛ばす。

目の前が片付くと、悟空はすぐに三蔵の方へと戻った。


三蔵の方は銃を構え、向かってくる妖怪を片っ端から撃った。

これ以上の時間のロスは御免だと思っている矢先にこれだ。
疲れるのも嫌だと言うのに、こんな所で運動する羽目になった。
それは、悟空に当たっても仕方ないのだけど。



「いい加減に大人しくしやがれ!」
「だったらテメェらが帰れ」



吼えて刀を振り下ろす妖怪の眉間に、一発。



「なんかもう、つまんねぇよ、こいつら」
「面白い奴が来てどうする気だ」
「つまんないより良いじゃん」



まるで遊んでいるような台詞を吐く、無邪気な子供。
まだ小難しい理屈など一つも知らないからだろうか。

地面に転がった妖怪の一人を蹴飛ばせば、向かってきていた者にぶつかった。
人一人分と言う支えるには難しい圧力に圧されて、ぶつけられた妖怪は地面に伏した。



「もー、帰れってば!!」



無謀にも真っ直ぐ突っ込んできた妖怪を、悟空は正面から迎え撃つ。
横一線に振るわれた棍を避けて、妖怪の腹に右ストレート。



「飽きたっ!!」
「……ガキが……」




悟空の発言を聞くたびに、妖怪たちが頭に来ているのが三蔵にも判った。

とっくに意識をなくしている連中にとっては、幸いだったかもしれない。
子供と思って侮っていた悟空から、一発喰らっただけで昏倒した者が何人いるか。
中には当たり所が悪かったか、泡を吹いている者までもいる。



「ガキの癖しやがって……!」
「だーかーらーっ!」



ガキって言うな!

大声で言って、悟空はガキ扱いした妖怪に突進した。
一々相手をするなというのに、どうしてこの子供はムキになるのか。
相手をするだけ時間と労力の無駄だろうに。



「悟空、喋ってないで片付けろ」
「判ってるよ!!」



妖怪達から散々な子供扱いをされ、挙句に三蔵からの催促。
珍しく拗ねているのではなく、苛々した声で悟空が返事をした。
返事と言うよりは、言い返した、と言った方が正しいか。


足元に先程倒したばかりの妖怪を転がして、悟空は辺りを見回す。
妖怪の数は最初に比べて随分と減り、四分の三と言った所だろうか。

己らの身長の半分程度しかない子供。
それに殆どの仲間を倒され、流石に妖怪達も怖気付いたらしかった。
此処まで来てまだ悟空を侮るというなら、そいつは相当の馬鹿だと三蔵は思う。



「この…人間の分際で……」



二の足を踏んでいる妖怪が呟いた。
其処から先の台詞になど興味がなかったから、呟いた妖怪を無言で撃ち抜く。

悟空は流石にあれだけ動き回って疲れたのか、それとも先の言葉通り飽きたのか。
もう自分から突っ込んでいく気分ではないようで、じっと立ち尽くして妖怪たちを見ている。
向かってくる者がいれば、即効で返り討ちにする所存で。


だから、だろうか。






「───────え?」








背後の気配を、読めなかった。































「──────悟空!!」




己が今、どういう状況か忘れた訳ではない。
無駄な動きは、当然相手に隙を見せる事になる。

それでも、そんな当たり前の事さえも頭の中から綺麗さっぱり抜け落ちていた。


道を塞ごうとする妖怪を、容赦なく殴り飛ばした。
悟空ほどではないにしろ、加減なく殴られた妖怪は近くの仲間を巻き込みながら地に落ちる。
退け、と睨みつければ、それだけで竦み上がり、動きを止めた邪魔な者は撃ち殺した。


子供は、立ち尽くしている。
いや、膝を折ることすら出来ないのだ。

貫かれたまま、其処で支えられているから。



「へ……へへ……お返しだ…クソガキ……」



幼い子供の身体を貫いたのは、妖怪の爪。
不自然に開いた其処の穴から、また不自然に覗く血に染まった手。

ざわ、と己の中で何かが蠢くのを、三蔵は感じた。
その正体を知るより先に、銃口を向けて引き金を引いた。
────入っていた弾を、全部。



「クソはテメェだ」



既に神経の一つも生きてはいないだろう。
それでも呪いの様に悟空の身体を貫いたまま、妖怪は死んだ。

妖怪が屑折れれば、悟空もそれに従わざるを得ない。
その幼い身体を地に落ちる寸前で受け止めて、貫くその腕を抜き去った。
ごぼ、と小さな口から漏れるのは、どす黒い色を交えた、紅。


最初に買い与えてやったからだったか。
悟空が一等気に入っていると言っていた、鮮やかな赤のチャイナ服。
その赤が、今は別の紅に浸食されていく。



「おい、悟空!」



呼べば返事をするのは半ば癖のようなもので、今も同じように反応しようとする。
けれど口を開けて出て来るものは、子供に似合わない鉄を含んだ、生温い液体。

手当てをしている暇などない。
こうしている間にも、妖怪達は好機だと距離を詰めている。




……それらが酷く、気に障る。




悟空を腕に抱いたまま、動かずにいたのは然程長い時間ではないだろう。
けれども、己に不似合いだとは思うが、酷く長いように三蔵は感じていた。

敗れた服の穴から吹き出る赤い液体を見ていると、何かが渦巻く。
それがなんであるかなど、この際正体なんてどうでも良かったのだ。
ただこのままでいれば子供がどうなるか、考えずとも行き着くのは一つ。


誰がこんな風にしたんだったか。
今、自分が殺した妖怪だ。

ちらりと足元に転がるそれを見遣ると、もう一度殺したい気がした。
顔が判らない程に撃ち抜いて、可能なら形も残らないほどに。


狂気染みた考えが自分の中にある事に、さして驚く事はなかった。



ただ、初めてだ。
こんな感情を持つ事は。
かつて師をなくした時でさえ、無力さに打ちひしがれた自分は、こんなにもドス黒い感情を抱いただろうか。



「………うるせぇな」



向かってくる咆哮に、抱いた感想はそれだけ。
煩わしい雑音だと、それだけだ。


腕の中に抱いた子供が、僅かに身動ぎした。
痛みからか、いつも爛漫とした色は其処にはなく、顔は苦痛に染められる。

それでも、幼い手が伸びる。



「死ねぇええええええっ!!!!!」





…煩いと、

言っているのが聞こえないのだろうか。








振り向きもせず引き金を引いて、


腕にかかった生温いソレは、酷く不快さを誘った。







子供を腕に抱いて立ち上がれば、その姿は壮絶、の一言。

決して、それらは三蔵の流したものではない。
腕の中に抱いた子供の流したものだけ。
左腕に付着した一部分だけが、別の存在が流したもの。


それでも、白い法衣を紅に染めた姿は、およそ僧侶のものとは程遠い。

もともと己がそういうものと無縁だと知っている三蔵だが、此処まで紅に染まったのも久しぶりか。
何故だかこの子供は三蔵が傷つく事に敏感だから、少しでも血に濡れると過剰に反応する。
まるでそれだけで死んでしまうんじゃないかと、思っているかのように。



「………てめぇらも死にたいか」



子供を抱いて、道を塞ぐ妖怪達を睨む。
途端に、妖怪達の顔から血の気が引いた。

今、自分がどんな顔をしているのか。
三蔵には興味がない。
だが妖怪達の目は、まるで化け物でも見てしまったようなものだった。



「なら、退け」



低い声音で言えば、妖怪達が後ずさった。
そのまま前に進むと、引き攣った声を上げながら妖怪達は踵を返す。


ああ、全員殺しておけば良かったかも知れない。
足元に転がっている連中だけでは、足りない。
これだけでは、気が治まらない。

けれど、そうしてやる程の価値がないように思うのも、事実。


それよりも、今は。



「………悟空」



三蔵の法衣を掴んだままで、悟空は動かなくなった。
うっすらと胸部が上下しているから、息をしている事だけは判る。
けれど、このままではそれもいつ止まってしまうか判らない。

掴んだままの幼い手が、まるで唯一の繋ぎ糸のようにも見えた。