rational collapse







馬鹿野郎。




目覚めて一番に聞いた台詞はそれだった。
呆れた、そして同時に怒っているような声色で。

見た目の軽薄さの割に、この鮮やかな紅を持つ男は人情家だ。
それを言われればいつもの軽口を叩きながら、のらりくらりとかわすのだろうけれど。
流石にそれが判らないほど短い付き合いでも、浅い付き合いでもない。



「…心配の一言もなしにそれですか」
「誰が心配なんざしてやるか」



誰よりタフな癖して、と煙草を吹かす悟浄。

確かに、結構タフな方だと思う。
さもなければ、彼に逢う事さえなく自分は死んでいた筈だから。



「大体、怪我の一つもしてない奴を、どうやって心配しろってんだよ」
「過労死とか」
「するほどヤワじゃないだろーが」



悟浄の言う通り、八戒の体には傷らしい傷など一つも付いていない。
ただ右手を乱雑に包帯が覆っていたけれど、大して痛みはなかった。
ひょっとしたら、痛覚が麻痺しているだけかも知れないが。

それでも動く分には何も問題ない。
身体の節々が痛いのは恐らく筋肉痛だろうし、他のは何もない。

そのまま一週間や一ヶ月昏睡状態ならば話は別だが、現にこうして八戒は目覚めたのだ。
心配する必要など、最早欠片もない。



「そうですねぇ…過労死するなら、きっととっくにしちゃってるだろうし」
「なんでよ」
「あなたの世話とか、何処かの生臭坊主を宥めたりとか」
「俺は別に迷惑かけたつもりはねぇぞ」
「してる側って自覚が薄いんですよねぇ。すぐ忘れてしまいますし」



にこにこと笑顔で告げる八戒に、悟浄は露骨に眉を顰めた。
これ位の応酬はいつもしている事。



「意外と大変なんですよ、人の世話って」
「そうだな、自傷癖のある奴の世話すんのは大変だった」
「灰皿に落とした煙草を捨てるのとか、毎日の食事のメニューを決めるのだって苦労するんですから」
「なんでも良いって言ってるじゃねーか、飯に関しちゃ」
「そういうのが一番困るんですよ」



なんでも良いから簡単にしたら文句言うでしょ。
美味けりゃ別に言わねーよ。
ほら、味が薄いとか、濃いとか言ってたじゃないですか。
そんなの忘れた。
ほら、そうやって忘れてるでしょ?


ぽんぽんとテンポ良く進む会話は、中々終わりを見せない。
別にケンカをしている訳ではない(そもそも、八戒に口で勝てる相手など要る訳がない)。
ただ相手が言って来るから、それ相応の台詞を返しているだけだ。

やがて口を閉ざすのは、どちらともなく、ほぼ同時だった。
言葉の種類が底をついて、ようやく終了になる。



僅かな沈黙の間に、悟浄が煙草を吸い込んで吐き出した。
どうやら吸い始めたのはついさっきのようで、部屋の空気も白に濁ってはいない。





「で、な」





会話が一時止まったので、それ以前の会話は終わり。
切り替えとして呟いた悟浄の言葉に、短く返事をした。

そうして真っ直ぐに見据えてくる双眸は、僅かだが苛立ちの色を見せている。
普段は飄々としている彼がこうまで感情を見せるのは珍しい。
珍しいけれど、何が彼を此処までさせるのか、原因は一つしかない。




「悟空だけどな」




告げられた名前に、やはり、と思う。
自分たちの間で、彼の名前はどうしても外せないものだった。


けれども、今この場にその子供の姿はない。
やっぱり顔を見せてはくれなかったか、と八戒は心の中で呟いた。
無理もない事だとは思うけれど、やはり少し期待していたらしい。

あれだけの事をしてしまったのだから、まだ幼さの抜け切らないあの子にとってはショックも大きかったのではないだろうか。
どんなに誰かを気に入らないと思っても、それでも捨てることが出来ない優しい子供にしてみれば。






………覚えている。
まだ、ちゃんと。

あの時。
あの時の声。



泣きそうな─────……泣いている、声を。









「……あれからなんも喋らねぇわ」



呟く悟浄の苛立った色は、決して子供に向けられたものではない。
目の前にいる、人好きの顔をする男に対して、だ。


いつもくるくると忙しなく表情を変えて、あれこれ知らないものを見つけていた子供。
あれはなんだと知りたがって、服の袖を引きながら何かを指差していた子供。

天真爛漫、という言葉が良く似合うと思う。
そんな子だから、“喋らない”という行動の重さはよく判る。




「泣き喚いてくれる方が対応のしようがあるってもんだな」




いつものように、些細でもいい、何かワガママでも言ってくれれば。
それさえしないから、悟浄は持て余すばかりだという。

一緒にいればその沈黙に押しつぶされるような気がするから、悟浄は一人にさせるしか方法を思いつかなかった。



「……怪我は、ないんですよね」
「ねぇよ。打ち身も擦り傷も、何もねぇ」



それだけは少しほっとした。
だけれど、傷はもっと別な所にあると八戒も判っているつもりだ。


きっと今は、一人で蹲っているのだろう。
いつかの雪の日に、毛布に包まっていたように。
何をするでもなく、ただじっとして時間を過ごしているのだろう。

荒療治できるようなものではない。
だから、時間と共に子供が落ち着くのを待つしかない。





「……何もねぇよ」




呟いた悟浄の言葉。
やはり見つめてくる瞳には、苛立ちの色がある。








「……誰かさんが、あそこまでしてくれたお陰でな」







まだ随分残っている煙草を灰皿に押し付けて、悟浄は言った。
八戒はただそれを黙って聞いているだけで、視線は組んだ手に落とされている。

その組んだ手の片方は、包帯に覆われている。


この包帯に覆われた手が、頭の中にかろうじて残っている朧を夢ではなかったのだと告げていた。
これがなくとも、子供がそんな状態であると知れば、白昼夢でない事など明白だ。
けれども此処に残った痕が、子供にどれほどの衝撃を与えるものになったかを教えてくる。




通常、人間と言うものはどうしても理性がブレーキをかけるものだ。
何かを殴る時は、自分の体が壊れない程度の力しか出す事は出来ない。
それがプロになれば話は違ってくるのだが、普通は全力で何かを殴るなど、早々出来る事ではないのだ。

けれども、理性と言う名の感情が役目を投げ出してしまえば、それは意味を持たなくなる。
一種のトランス状態になってしまえば、あとは本能のままだ。


理屈は要らない。
必要ないと思ったものは、削除対象になる。

自分の体を壊すことなど厭わないし、それよりも目の前のそれを削除しなければならないのだ。
既に理性はないから、其処で己を制御するものは何一つない。
目の前のそれが消えるまで、本能の昂ぶりは収まる事はない。


その先にあるものが何であるとしても。





「……まぁ、お前がやらなきゃ、俺がやってたかも知れないけどよ」
「でも、貴方はあそこまでしないでしょう?」
「………知らね」



呟く悟浄に、よく言う、と思った。

きっと悟浄は優しいから、なんと言っても途中で理性が働くだろう。
それは甘いと同義語かも知れないが。


それに対して、自分はどうだ。
…右手を覆う白布が、何より雄弁に語っている。




「まぁ、どっちにしてもよ……顔見せてやれよ」




呟く悟浄に、果たしてそれをしても良いのだろうか、と八戒は思う。
あれだけの事をした自分に、あの子供は逢ってくれるのだろうか、と。

右手は動くけれど、其処にある包帯が外せる訳ではない。
外せばきっと赤黒く変色したものが顔を覗かせるから、それが消えるまでは子供に手を見せる事は出来ないだろう。
……かろうじて幸いなのは、左手が無事だという事だろうか。


俯いた八戒に、悟浄は長い溜息を吐いた。
こういう沈黙を、彼は決して好まない。




「……顔見せてやれば、少しはあいつも楽になるだろうからさ」




言いながら、悟浄は立ち上がった。





「どちらへ?」
「煙草」




短い返事をしてから、悟浄は部屋を出て行った。


煙草、と言った悟浄であったが、確かストックはまだ十分あったのではなかったか。
一昨日随分と買い溜めしたばかりであるし、昨日だけで然程消費してはいないだろう。
何より子供がいるから、普段よりも本数は控えられてると言って良い。

それに何より───これはわざとなのか、それとも本気で忘れて行ったか───。
本来八戒の部屋であるにも関わらず持ち込んだのだろう灰皿の横に、まだ中身のあるハイライトが放置されている。





判り易くて、ある意味助かりますけどね。






意外とお節介な同居人に感謝しつつ、八戒はベッドを降りた。