first hand















あなたの“初めて”












今回だけでいいから


貰っても良いですか?








































「ねーねー、天ちゃん」






何か聞きたい事がある時、子供は大抵こんな風に呼ぶ。
自分の腰までしかない身長なのに、真っ直ぐこちらを見上げながら。



本を片付けていた手を止めて、視線だけ落としてみる。
やはり、見上げて来る綺麗な金色の瞳と交差した。
零れ落ちそうなくらい開かれているそれは、まるで地面に降りた太陽のようだ。

そしてこの幼い太陽には、まだまだ知らないことが沢山ある。
見た目は10歳程度だと思うが、事実この世に生を受けてからまだ間もないのだ。
頭の中は幼児並だと保護者が言っていたけれど、案外外れていないと思う。


変化のない天界でさえ、この子供はいつも飽きさせない。
不機嫌な顔の男を振り回したり、図体ばかり大きな大人と一緒に駆けずり回ったり。
知らないことを知りたがって、自分の下へやって来ては、あれこれ質問したり。

疑問を一つ一つ解いてやっている時に見せる表情が、天蓬はまた好きだった。
知らないことを吸収していく子供の様は、まるで水を得た魚のようにも思える。



この間は、“趣味”について教えてあげた。
何故かその後、知っている人のところをぐるぐる回って、それぞれの趣味を聞いて行った。

ちなみにそんな悟空の趣味は、要約すると遊ぶことと食べること。
実に幼いその趣味に、天蓬は捲簾と顔を合わせて笑ったものだ。
自分たちが既に忘れてしまった無邪気さを教えてくれるから。


さて、そんな幼子であるが、今回は何を聞いてくるのだろう。
大抵の情報源は天蓬の部屋にある書物からだから、粗方の事は応えられる自信がある。



「あのな、天ちゃん」



幼い子供の腕の中。
其処には、下界から持ち帰った絵本。

買った当初はなんとなく手に取っただけだったのだが、これが意外と面白かったりするのだ。
話の展開は…まぁ、どうしても大人になれば見当がついてしまうものなのだけど。
だが今、この子供に逢ってから、こういうものも持っていて良かったと思っている。


今子供が持っている本は、確か先日読んで上げたものだ。
ひょっとしてまた読んで、という事だろうか。

子供のワガママならば、なんでも聞いてあげるつもりだ。


だけれど、以外にも、








「天ちゃん、字教えてよ」








紡がれた言葉は、今までの中では初めてのものだったと思う。



今まで悟空は本を読む時、いつも誰かに呼んで貰っていた。
だから読むと言うより、話を聞いて、絵を眺めていたと言った方が正しい。

読むのは大抵天蓬だったが、捲簾が読んでやる時もある。
天蓬が読むのに比べて随分感情を込めて読む彼の声は、時々煩いと思う程だったりする。
仕事に追われる保護者はこの事を知らないだろうけれど。


悟空の為に本を読んだ回数は、昨日で何度目に昇っただろう。
部屋に置いてある絵本の半分は済んでしまったのではないだろうか。
それ位、悟空は以外かもしれないが、絵本に興味を示している。

けれども、文字を読むという事に関してはからきしだった。
下界で文字を使うような環境になかったのだから、無理もないが。


そんな悟空が、文字を教えて欲しいと言う。



「構いませんよ」



絵本を読んであげる時と同じように、にこやかに天蓬は答えた。
ぱっと悟空の表情が明るくなる。



「じゃあ基本はやっぱり平仮名ですね」
「ひらがな?」
「読み書き両方同時にしましょうか。その方が頭に入りそうですし」



まだ部屋の片付けは終わっていない。
けれども、天蓬の頭の中の優先事項は既に切り替わっている。


一先ず手に持っていた本だけを棚に戻して、別の本棚に向かう。
其処から取り出した本は、随分古びていて、ページは痛んで黄ばんでいる。
書かれた文字は読めるから問題ない。

いつもは寝るだけに使われるソファの上に散らばっている本を床に落とした。
此処に来るようにと促すと、悟空は躊躇いもせずにソファに座る。


隣に悟空が座ったのを感じつつ、天蓬は取ったばかりの本を開いた。
一体なんだろう、と言うように、悟空は興味深々と言った様子で覗き込む。

其処に書かれているのは、“あ い う え お”と大きく書かれた文字。



「読めますか?」



天蓬が問うと、悟空はしばし文字と睨めっこした後で、ふるふると首を横に振った。



「これは読めるけど」
「どれですか?」



悟空が指差したのは、“い”と“う”。
単純なので覚え易かったのだろうか。


小さく笑って、天蓬は適当な紙と二本の鉛筆を手に取った。



「上から順番に“あいうえお”です。じゃ、僕の真似して下さいね」



紙と鉛筆を渡して言うと、悟空はこっくりと頷いた。
テーブルに紙を広げれば、其処から真似してくれるらしい。
ちらちらと天蓬の行動を伺いながら、悟空は同じような行動をしている。

鉛筆の芯を紙に押し付けると、悟空も同じように押し付ける。
ただ鉛筆の持ち方だけは、いつもクレヨンで絵を書いているのと同じ、手の全体で握っている形なのだけど。


“あ”の一画目を横一文字に書くと、悟空も同じように横一線を引く。
二画目の曲線を書くと、悟空は今度は少し違って、斜めに真っ直ぐ線を描いた。



「此処からちょっと難しいですよ」
「ふーん……」
「長いのでゆっくり書きますね」



“あ”の三画目。
他の画に比べて長い線になる部分。
言葉どおりにゆっくりと書いていくと、悟空はじっと天蓬の手元を見つめている。

最後まで書き終わると、悟空も早々と真似している。
が、予想通り、どんどん形が崩れて行っていた。


書き終わった時には、すっかり新しい文字が出来上がってしまっていた。



「あれ〜……?」



どうして同じ形にならないのか判らないのだろう。
悟空は自分の字と、天蓬の字を見比べながら首を傾げている。

中々難しいものである、この“あ”という文字は。
悟空は悔しくなったのか眉根を寄せて、ぐりぐりと同じ文字を書き続けている。
しかし中々綺麗な形にならず、どんどん新しい文字が作り上げられていった。


うんうん唸りながら練習するのを止めない悟空。
それを傍らで見つめつつ、天蓬は口元が緩むのを我慢できなかった。






興味の対象については、悟空は結構凝り性だったりする。
気が済むまで止めないし、苦手なことでも気になるものだから諦めきれない。
反面、興味のないものに対してはドライだったりするのだけれど。



本だって最初は全くと言って良い程興味がなかったと思う。

何にも興味を示さない金蝉は、読書に対しても然程関心を示さない。
彼の寝室は基本的にこざっぱり───というと聞こえが良いが、殺風景なのだ。
子供の興味を引くようなものなんて、折り紙代わりの書類ぐらいのものだ。


それが天蓬の部屋になると、彼とは正反対で本だらけだ。
捲簾と一緒になって部屋の片付けを手伝うようになってから、悟空は本に興味を示すようになった。

文学や哲学なんてものとはまだまだ縁遠いけれど、絵が多くて字の少ない、絵本が今はマイブームらしい。
最初はただ絵を眺めているだけだったのだが、それを見つけた捲簾が「読んでやろうか?」と言ったのが始まり。
それから片付けをする度に新しい絵本を見つけたり、続き物を見つけたりするようになった。



好きなものは満足するまで堪能したい性質なのだろうか。
最初は絵だけで始まった読書は、少しずつ子供の世界を広げている。

知らないことを知る、という事は、未知の世界を覗くことにも少し似ているような気がした。


平仮名が読めるようになったら、今度はカタカナ。
漢字に行き着くにはまだ時間がかかるだろうが、教える事が出来たら良いと天蓬は思う。
この際だから悟空専属の家庭教師にでもなろうか、とも考えたりしている。

子供にものを教えるというのは、意外と忍耐力が必要だ。
金蝉は結構短気だし、捲簾ではきっと勉強なんか放り出して遊びだすに決まっている。
その点、自分なら────と、天蓬は過ぎる思いに笑った。






悟空はまだ“あ”と格闘している。
段々と形になってはきているのだが、まだ“あ”と判断するには難しい。

簡単な字から始めれば良かったかも、と思う天蓬だ。
しかし、悟空はそんな先生の思いなど露知らず、かれこれ5分以上この文字と向き合っていた。




「天ちゃ〜ん」




ついにヘルプだ。
悔しそうに鉛筆を握り締めながら、悟空は天蓬を見上げた。



「なんでぇ?」
「結構難しいですからね、この字は」
「むー………」
「でも最初よりは上手く書けてますよ」
「天ちゃんみたいにならない…」



B5サイズの紙は、この一文字で埋め尽くされてしまっていた。
その事に苦笑しつつ、天蓬は鉛筆を握る悟空の手を取った。
突然のことにきょとんとしつつ、悟空は天蓬をじっと見つめてくる。



「一緒に書いてみましょうか」



天蓬の言葉に、悟空はぱっと表情を明るくして頷いた。


悟空の鉛筆の持ち方は相変わらずだが、今日は其処まで言わない事にした。
癖にならない内に少しずつ解していけば良いだろう、と。

金蝉がこれを聞いたりしたら、きっと甘やかす必要はないと言うのだろう。
自分が一番甘い癖して、他人に対しては口煩いのだ、あの男は。
そういう面があると知ったのは、この子供が此処へやって来てからだけど。



「天ちゃん、これ書き難い」
「おや」



むぅ、と剥れてしまった悟空に、天蓬は笑みを殺しながら答える。
上手く行かない事がどうにも悔しいようだ。
でも今まで字を知らなかったのであれば、良い出来だと天蓬は思っている。
……それの半分ぐらいは、欲目だったりもするのだけれど。

見上げる悟空の瞳は不満に満ちていて、本当にこの子供は口にしなくても色んな事を語ってくれる。
まだまだボキャブラリーが少ない悟空だが、綺麗な金瞳は言葉以上のものを教えてくれるのだ。


天蓬は不満げな悟空に微笑んで、くしゃっと大地色の髪を撫ぜた。



「だったら、もう止めますか?」
「やだっ!」



上手く行かなかったら、やっぱり詰まらないと思うものだ。
これ以上煮詰まる前にと提案してみると、一秒もなく悟空は答えた。



「オレ、字覚えたいの! そんで、自分で本読みたいの!」
「それならもう少し頑張りましょうね」
「ん!」
「数を重ねれば綺麗になりますから、根気よく行きましょう」



まるで決意表明のように言う悟空に、天蓬はうんうんと頷きながら言う。
それに触発されたという訳ではないだろうが、悟空もこっくり頷いて、再び紙面と向き合った。


既に形にならない“あ”で埋め尽くされていた紙。
その片隅に、天蓬と一緒に書いた、綺麗な“あ”がある。
悟空はそれの形をゆっくり沿って、形を覚えようとしているようだ。

それから少ししてから、悟空は埋め尽くされた紙を眺めた後、裏面にひっくり返した。
字が占領している表と違って、裏は真っ白なまま。



「今度オレが一人で書くから、天ちゃん見ててね」
「はい、判りました」



次は綺麗に書けるから、と。
意気込んで紙に向かい合う悟空の瞳は、光りに満ち満ちている。







……知らない世界を一つ広げて、子供の世界は何処まで広がっていくのだろう。