終わらない紡ぎ唄
































あの日の約束が 色褪せないように





指でなぞってみる 朝のまばゆい光




















































二度目に会った時、お前は真っ直ぐ俺に向かって走ってきた。












牛魔王の討伐に下界へ行って、血塗れで天界へ戻って来た。
誰も彼もが小奇麗な姿のままの中、薄汚い紅い液体に覆われた自分。
今更だけれど、自分だけが穢れた存在なんだと、判った。


遠巻きに見ていた男たちの一人が、恐る恐る近寄ってこようとしている。
きっと急いで駆け寄って手当てせねば、とは思っているのだろうが、那托の姿があまりにも凄惨であった。
この幼い子供がどれだけの事をしたのか、その場にいた者もいない者も、想像するだに恐ろしいのだろう。
もしも近寄って噛まれでもしたら────……そんな事さえ考えているのかも知れない。

どいつもこいつも、と那托は辟易する。
そんなに躊躇うくらいなら、いっそ放っておいてくれたらいい。
勝手に部屋に戻って、勝手にまた起きて、そしてまた出陣するだけなのだから。



「那托様、大丈夫で御座いますか…!?」



ようやく手を伸ばせば届く程の距離に、一人の男がやって来た。
やはり怯えたように、震えながら血塗れの少年に向かって手を伸ばそうとする。

けれども、その手は少年によって乾いた音を立てて弾かれた。




「────触るな…!!」




怯えるくらいなら、触るな。
怖いと思うなら、触るな。

そんな眼で見るくらいなら。


心配されないのも慣れているし、誰も手を貸してくれない事だっていつもの事。
今更それを如何して欲しいとは思っていないし、誰も頼るものがいないならいっそ楽だった。

噛み潰せば良いだけだ、この痛みも苦さも全部。


ふとすれば吐き出しそうになる血反吐を飲み込みながら、那托は痛む躯を引き摺って前へ前へと進んだ。




その時だ。






「────那托!!」






大人達の間をすり抜けて姿を見せた、小さな子供。
綺麗な瞳をきらきらさせて、大地色の髪をふわふわ躍らせて駆け寄ってくる、子供。

子供。



「那托! 大丈夫かよ!?」



真っ直ぐ、駆け寄ってくる、子供。



「…お前………この間の………───────」



その時、意識を保っていられたのは其処までで。








まるで緊張の糸が切れたみたいに、那托の意識はふつりと途絶えてしまった。









































嫌な夢を見た。
何度も何度も見た夢だ。

何度も何度も何度も何度も。


嫌になるくらいに繰り返されて、いつも自分の叫び声で目が覚める。
小さい頃から、一体いつから見るようになったのか判らない夢だった。

息苦しくなって、最後は呼吸が出来なくなって、喉の奥からひねり出した声で叫んで意識は覚醒に持っていかれる。
それは幼い頃から続いていて、何度夢に出るな出るなと思っても、まるで突き付けるように再生される映像。
夢を見ないぐらいに深く深く眠らない限り、何度でも繰り返される自分の頭の中で作られた映像。



また、それを見た。
そして、夢の中で叫んで眼が覚めた。


違ったのは、その後だ。







「那托…!!」







夢を見た回数と同じくらい……繰り返し呼ばれる、自分の名前。
荒い息をしている事を自覚しながら眼を開いた先にあったのは、きらきらしたイキモノ。



「あ………お前……」
「────良かったぁ…」



嬉しそうな顔で、けれど変な汗をかいているように見えた。



「ずっと目ぇ開けないから、どーしよぉかと思った。大丈夫か?」
「あ…ああ……」





どうしてこいつは此処にいるんだろう。

此処は俺の部屋だよな?
だって暗いし、冷たいし、誰もいないし。
なのになんでこいつが此処にいるんだろう。



……そっか。
俺、牛魔王の討伐から帰ってきたんだっけ。



それで、なんでこいつが此処にいるんだろう。
誰もこの部屋に入って来る奴なんかいないのに。
入ってこようと思う奴なんかいないのに。

きらきらしてるのに、なんで此処にいるんだろう。


……なんで。






「ねぇ、此処、那托の部屋?」



灯りさえろくにない部屋の中をぐるりと見回して、子供は言った。
不思議そうに、そして何処か不満そうな表情をしているのが那托にも見えた。



「ひでーよな、怪我してんのに、こんな暗いトコに一人でほっとくなんて」



酷い。
ああ、こういう扱いって酷いのか。

暗い天井を見上げながら、那托はぼんやりとそんな事を考えた。
だって一度だって、那托はそういう事を思った事もなかったし、淋しいだとか思った記憶もない。
気付いた時にはこれが当たり前になっていて、可笑しいと思うには材料が少な過ぎたから。


子供が言った言葉さえも、なんだか他人事のように受け止めていた。



「……いいんだよ、いつもの事だし」



言葉にしたのは紛れもない真実で、父だって此処に来る事は滅多になかった。
この部屋に人が出入りするのは呼び出しされた時ぐらいで、それ以外はいつも一人でいたと思う。

どんなに怪我が酷くても、どんなに気分が悪くて高い熱が出ても、いつも一人。
辛いとか痛いとか淋しいとか、何を思ってどんなに声を上げても、誰も此処には来なかった。


それは、つまり。





「俺に何かあったって、誰もなんとも思わねぇんだ」











例えば、死んでしまっても。










「何だよ、ソレ!?」



急に張り上げられた声に、那托は驚いた。
瞠目して顔を上げると、怒ったように真っ直ぐ見つめてくる金の双眸。





そんな事ないって!! ────だってオレ、那托に会いに来たんだ!」




………なんだって?

言われた言葉の意味が一瞬読めなくて、那托はきっと間抜けな顔を晒していた。
真っ直ぐ見つめる綺麗な金に、その自身の表情が、まるで鏡のように綺麗に映り込んでいる。


暗いはずの部屋の中で、その子供だけがなんだか輝いているように見えた。
きらきらしてるイキモノだとは思ったけれど、こんなに光っていただろうか。
だけれど太陽みたいに直視出来ない訳じゃなく、かといって月みたいに優しいだけの輝きじゃない。

なんだろう。
なんの光りだろう。
考えるけれど、知らない自分に答えは出てはくれなかった。





「那托がオレのことスゲェって言ってくれて嬉しかったし。またなって笑ったから、もっと嬉しかったんだ」





また。
またな。

ああ、確かに言った。


初めて会った時に交わした、別れ際の小さな約束。


これは、その約束がもたらしてくれたものなのだろうか。
約束したのがあの時初めてだったのなら、約束を果たしたのもこれが初めてのような気がする。
嬉しそうに笑う子供も、約束を果たせてなんだか嬉しそうに笑っていた。

なんだか、胸の奥が酷くくすぐったい気持ちがした。
だけど、それはちっとも嫌じゃない。



「……そっか」



出てきた返事は、そんな小さくて陳腐なもの。
だって今自分の気持ちをどんな風に形にすればいいのか、那托には判らない。


だけど、あの約束が、今の時間をもたらしてくれたというのなら。
もっと約束したら、もっともっと、こんな時間を運んで来てくれるのだろうか。



「なぁ、怪我治ったら、俺が天界案内してやるよ」
「ホント?」
「ホントだよ。誰も知らない隠れ家とか、木苺が沢山生ってるトコとか」
「行く行く、ぜってー行く!」



館の周辺なら誰もが知っているけれど、もっと遠くを知っている者は少ない。
那托は進んで館を離れて遠くに行って、館にないものを見つけるのが楽しくて堪らなかった。

でも、こいつと一緒だったらもっともっと楽しいかも知れない。
本当は誰にも教えない、自分だけの居場所だったのだけど、この子供と一緒なら。
そうしたら今度は二人っきりの場所になる。


悪くない。


いつになるかなんて判らない約束。
だけれど、いつか絶対に叶える約束。

この約束が、いつかの優しい時間に繋がることを信じて。


嬉しそうに笑う悟空に、那托も自然と口元が緩んだ。



「……痛……!」



そんな時、不意に襲った痛みに、那托は顔を顰めた。
子供が慌てた表情になる。



「ダメだって、まだ寝てなきゃ! オレ、誰か呼んで………」



来る、と言う前に、那托は手を伸ばして掴んでいた。
自分とそう変わらない、幼い子供の腕を。

捕まえるように。


振り返った瞳が、また那托の顔をクリアに映し込む。







こんな事は、思った事も感じた事もなかったと思う。
だって一人でいるのは当たり前で、誰も此処に来ないのは当たり前だった。
だから当たり前だけど、手を伸ばして捕まえるなんて事もした事がなかった。


なのに今、自分は捕まえている。
考えるよりも、何よりも早く。

思ったから。











「────いいから、此処にいろよ」










此処に。
何もない場所だけど。
暗いだけで、きらきらしてるお前には似合わないと思うけど。

許されるなら、此処にいて欲しかった。
他の何もいらないから。










「…うん」