Trifolium




















たとえ世界を壊せても 愛は壊せない





そうさ永遠と呼べるもの その応えは一つ















































「あげる」






さっきまで黙々と何かしていたと思った子供が、突然立ち上がって駆け寄ってくるとそう言った。
それと同時に少し歪な円形の何かを、焔に向かって差し出してくる。


子供はにこにこと楽しそうに微笑んでいる。
焔がよく見ている子供の表情は、大抵これと同じものだ。
保護者に怒られたとかで拗ねた表情をする事もあるけれど、基本形はこれ。

怖いもの知らずなのか、ただ単にまだ分別がついていないからだろうか。
何故だかこの子供は、焔の事をいたく気に入ってくれているらしかった。



「あげる」



同じ言葉を繰り返して、子供────悟空は手にしているそれを差し出す。
一瞬どうしていいか判らない焔だったが、取り合えず右手を上げてみた。
悟空はそれに気付くとぱっと明るい表情になり、焔の手に円形のそれを押し付けるようにして手渡した。

手ぶらになると、悟空はまた少し離れ、焔に背を向けた状態で座り込む。
綺麗な黄色の菜の花畑に、大地色の髪が風に吹かれて動物の尻尾のように靡いていた。


渡されたものを見下ろせば、それは花冠だったのだとようやく知る。
所々の花弁は散っていたけれど、子供が頑張って作ったのだと言う事はよく判った。

この花畑は黄色の花が多いが、所々に白いシロツメクサも咲いていた。
悟空はこの白い花が気に入ったようで、花冠もそれで作られている。
時折蝶を追い掛け回したりもしているが、最後はやはり、元の場所に落ち着いて作業を続けていた。



誰に教わったのか───おそらく変り者の元帥か、子供と同レベルの大将かだと思うが───、悟空は最近、花冠作りに凝っていた。
決して器用とは言えないと思うが、一所懸命に作る姿は見ていて心が和む。
己にそんな感情がある事に最初こそ驚いた焔だったが、今ではもう毎回見る風景となっていた。

だけれど、焔に花冠が手渡された事は今までなかった。
今までは、なんでも怪我をしている友達のお見舞いにするんだ、とそればかりであったから。
悟空と同じ歳の子供など一人しかいないし、本当にそれが手渡されたかも判らないが、焔はそれを言わなかった。
嬉しそうに友達のところへと駆けていく悟空の後姿を何度も見ているから。



「んー……もうこの辺のなくなっちゃったかなぁ……」



どうしよう、とそんな声が聞こえてきて、焔は悟空に歩み寄る。



「どうした?」
「白いの、いなくなっちゃった」



いなくなっちゃった、とは、面白い表現をしてくれる。
クク、と喉の奥で笑って、焔は悟空の隣に立つ。



「一杯作ったからな」
「…なんか、可哀想なことしたかなぁ」



さっき摘んだばかりの花を見下ろしながら、悟空は淋しそうに眉根を寄せる。

物言わず、見つめられることも詰まれることも、踏まれることさえも黙って受け入れる花。
夢中になっていた悟空だったけれど、今、少しだけ後悔しているのだろうか。



「此処にいたら、皆一緒にいられたのに」
「まぁ……そうかもな」



黄色い花弁に埋め尽くされた花畑の中で、きっと誰も気付けないくらいの小さな隙間。
白い花が咲いていたであろう其処は、ぽっかりと不自然に空いてしまっているような気がした。

そのぽっかりと開いてしまった隙間を見下ろす子供の瞳は、何処か寂しそうだった。
それを見ていたくないと思った焔だけれど、どうすればその顔を止めてくれるのかなんて知らない。



「……少し移動してみるか?」



いつまでも隙間から目を離そうとしない子供に、そんな事を言ってみる。
子供の反応は少し遅かったけれど、それでもゆっくりと金瞳は焔へと向けられた。



「他のとこ?」
「ああ」
「遠く?」
「そんなに遠くはないだろう」



悟空はご丁寧にも、あまり遠くへ行くなという保護者の言いつけをきちんと守っている。

偏屈で無愛想だと定評のある男が、一体どんな顔をしてそんな躾をしているのか。
あまり想像できなかったが、きっとそれは自分だけではないのだろう。
目の前でそれを向けられる子供以外は。


凝っている花冠作りをもっと続けていたい。
最初の頃に比べると少しずつではあるが形も整ってきたし、今よりずっと上手にもなりたい。
菜の花よりもどうも白いシロツメクサが気に入っているらしい悟空は、足元の隙間をまた見下ろしながら考え込んだ。



「…でも、オレがどっか行って其処でまた作ったら、一杯こんなの出来ちゃうんだよな」



まるで絨毯が敷き詰められたように、此処一体は花に満ちている。
黄色の菜の花を主にして、所々にシロツメクサや赤や青の花も顔を覗かせていた。

悟空がシロツメクサを選ばなくても、摘めば其処に隙間が生まれる。
それまで仲間と一緒だった花は、仲間達とさよならして、悟空を取り巻く誰かの元へ渡って行くのだろう。
悟空はそれを寂しいのではないか、と言うのだ。



「やっぱ、友達と一緒の方が良いよな」
「なんだ、行かないのか?」
「うん、今日はもうおしまいにするの」



すとん、と敷き詰められた花の絨毯の中に座った悟空。
焔もその隣に腰を落ち着けて、何をするでもなく空を仰ぐ。



「変わっているな、お前は」
「何が?」
「花の事をそんなに気にしている奴を、俺は始めて見た」
「そっか?」
「なら、お前の周りにはいるのか?」



天界は、何に対しても無関心と無情を貫く。
永く生き過ぎて先に望むものへの執着さえ、最早薄れているのではないだろうか。


だけれど悟空の周りだけは、少し違う。
子供に振り回される事もあれば、自ら子供のしたい事に一緒になって騒ぐ大人もいる。
忙しなく表情を変える子供の姿に何かを感じる大人は、まだいるのだ。

悟空の影響なのか、それまで気づかぬ内に眠っていたものが悟空によって起こされたのか。
本人の資質であるのか否かまでは判らなくとも、少なくとも子供の起こす出来事によって齎されたものは決して少なくないだろう。



「んっとねー……あ、確かね」



ケン兄ちゃんは、花が咲いてたら踏まないようにして歩いてる。
天ちゃんは、花が咲いてたら一つ一つ覚えて、どういう名前でどういう花か調べて覚えてる。
金蝉は、オレが花を持って行った時、萎れるから水に入れてやれって言った。

思い出しながら紡ぐ悟空の口から零れていくのは、やはり何度も繰り返された三つの名前。
那托とは殆ど逢えないから判らないけれど、きっと花を見たら喜んでくれる、と悟空は笑う。



「あ、それとね、それと」



思い出したように声を弾ませながら、悟空は焔の羽織を引っ張った。

この子供が突飛なことを言い出したりするのは、決して珍しくない。
焔とて目を剥いたことは何度かあったし、全く無邪気に振り回してくれる。


どうした? と見下ろせば、真っ直ぐ見上げてくる金瞳がきらきら光る。









「焔も、花が好きだよな」








────確信を持った、声だった。

自信を持って、嬉しそうに言った悟空は、そうだよな、と確認の言葉を繋げてくる。
しかし焔の方はと言えば、何故そんな意見に行き着くのかと不思議で堪らない。






花は、決して嫌いではない。
それは多分、嘗て愛した女性と共に見た思い出があるからだろう。
彼女の存在がなければ、好きか否かを問うようなものでもなく、認識さえしていなかっただろうから。

この花畑に人が訪れることは滅多になかったから、人目を忍ぶように彼女と此処で逢瀬を繰り返した。
他の場では逢うどころか擦れ違うことさえ罪のようであったから───……


その彼女も、もう手を伸ばしても届かない。
自分と出逢ったばかりに、心を寄せたばかりに、彼女は罪人とされ、下界に落とされた。

裁くのなら、己を裁けばいい。
自分が勝手に彼女を拠り所にしたのだから、彼女は被害者だ。
生まれた時から何も望んではならなかったのに、望んでしまった自分の為に、彼女は連れて行かれた。
生まれた事が最初から罪だったのだから、裁かれるべきは自分だった筈だ。


彼女を連れて行かれた時、もう何も望まないと心に決めた。
最初から、自分にそんな権利はないのだから。



それほど、焔にとって彼女の存在は大きかった。



花を見ると、彼女を思い出す。
何も望まない代わりに、せめて思い出だけは手放したくなかった。

言葉にしないなら、想うだけなら、赦されてもいい筈だから。





「焔って、花に触る時そーっと触るもんな。でも、そんな触っただけで折れたりしないよ」





まるで壊れ物に触るように、焔はいつも花に触れる。
そうして触れることさえ数にしてしまえばごく稀なことだった。


彼女とかろうじて触れ合っていた手が離れた瞬間から、焔は手を伸ばすことを止めた。
自分に赦されるのはただ遠くから眺めること、誰にも知られないまま想うこと。

それでも、時折彼女の偶像を見ては手を伸ばそうとする自分がいる。
耐え切れなくて、彼女の思い出に触れるように花に触れる。
けれどその時、触れた瞬間に消えてしまうような気がするから、子供がするように手を伸ばせない。


悟空は、それを花のことを心配しているのだ、と言う。



そんなに綺麗なものじゃない。

言おうとして、その言葉は結局音にならなかった。
見上げる瞳を受け止めたら、知らない間に出なくなった。



「あんな、焔が思ってるほど、こいつら弱くないんだよ」



足元に咲いている花に触れながら、悟空は言う。
ほら、平気、と。


それを黙ってみていた焔を、じっと見つめ返す金色の瞳。
焔の右目と同じ、けれども違う光を放つ色。

逸らすことをまるで知らないかのように見つめるそれに、そっくりそのまま映りこむ自分の姿。
ただ真っ直ぐに向けられるその瞳に映るのは、きっといつだってそれそのものの本質なのだろう。
強く、優しい、きれいな輝きに映り込む己の姿は、酷く其処に不釣合いのように焔は思えた。


だけど、悟空は目を逸らさない。



「こいつらも…オレ、摘んじゃったけど。だけど、ちゃんと生きてる」



花と茎が分かたれても、決して死んでしまうわけじゃない。






「だからもっと触っても大丈夫だよ」





触れることは罪ではない。
見ることが罪ではないように。

そんな言葉を向けてくれた人は、いなかった。
存在することが罪である自分に辛うじて赦されたのは、ただ遠くから見つめることだけ。
…それさえ、人はまるで厭う瞳を向けてくるというのに。


焔の花冠を持つ手とは逆の手を、悟空が躊躇いなく取った。
そしてその手は、ゆっくりと周りで咲いている菜の花へと連れて行かれる。









「ね、大丈夫」








指先に触れた花は、風に吹かれてゆらゆらと揺れている。
少し強い風が吹いたら散ってしまいそうな花弁は、それでも其処に根付いていた。



なんでもない事のように笑う子供の瞳は、真髄だった。
怖がらなくても良いんだよ、とまるで言っているようで。
優しい慕情のようなその笑みに、焔は魅入っていた。


この子供はいつだって要領を得る会話を中々する事が出来ない。
感じるままに言葉にするから、まだ語尾の足りない子供だからそれは仕方がないのだろう。
それでも音にされる言葉は、子供が感じた精一杯の真実だ。

焔が壊れ物でも触るように花に触れているのを、この子供は何を持ってして見ていたのだろうか。
大丈夫だと言って笑う子供は、今この場で、自分の手が振り払われることなど考えていないのだろうか。


……伸ばした手が振り払われるのは当たり前だった。
触れれば穢れてしまうと言われていたから。

だけどその子供はきっと、振り払われてもまた手を伸ばそうとするのだろう。
其処に望むものがあると知っているから、躊躇いもなく。



「な、摘んでよ、それ」
「……なに?」
「そんで、それ、オレにちょうだい」



突飛なことを言い出した悟空に、焔は目が点になっていた。
こちらを見つめる子供の瞳は何処か嬉しそうだけれど、焔はいまいち理解が出来ない。


手元の花に目をやれば、指先に触れたままでゆらゆらと揺れている。

……自分が摘んだ花など、誰が欲しがるものか。
愛した彼女でさえ、何も言わなかったのに。



けれど、見つめる子供の瞳を拒むことは出来なくて。










………渡した時に、見せた笑顔はきっと忘れられないものになる。