sea cradle











一度目、初めて海を見て




二度目、浜辺に足跡つけて




三度目、白波狭間に駆け寄って







四度目、やっぱり怖くてあなたのところに駆けって帰る











五度目、あなたと一緒に行けたなら






























































「うみだ」







ぽつりと呟いた悟空の声が、思いの他ジープの中で木霊したような気がした。

それは悟空以外のメンバーが期せずして長い沈黙の帳に身を委ねていた所為でもあっただろうし、
それまで続いていた荒れ道が途端に舗装こそされずとも幾らか落ち着いた所為でもあttなおだろう。
とにかく、そういう理由で悟空の声は普段よりもよく空の下に響いたと思う。


特に何を見るでもなく空を仰いでいた悟浄が、咥えていた煙草を手にとって首を巡らせた。
すると成程、悟空の言葉通り、ジープのヘリにへばりついていた子供の頭の向こう側に果てない蒼。
遮るものなど何もない其処には、確かに水平線と呼ばれる代物が存在していた。

空は晴天、風は柔らかく、高台に当る今の場所から見ても海の波は穏やかだ。
降り注ぐ陽光の光を反射させ、悟浄はその眩しさに目を細めた。



海など、旅の道中で決して珍しいものではなかったと思う。
山道を迂回して、急がば回れと海沿いを進むこともあった。


けれども、海を見る度、悟空は子供のように、確認するように呟く。
海だ、と。

潮の匂いがしてきた頃からそわそわして、ジープにへりにへばりついて決して離れない。
そして広がる果てない水平線をその目で確かめると、そのまま動かなくなる。
ずっと、海の方を向いたままで。



「落ちんぞ、猿」



まだ乗り出してはいない悟空だが、傍目から見ても正直危なっかしい。
此処で八戒が無鉄砲な運転をするとは、誰も思っていないだろうが、悟浄は念の為に悟空の方を引っ張って引き寄せる。

が、それは確かな子供の意志で反抗された。



「ヘーキ、落ちない」



ぐ、とジープのへりを持った手に力が籠る。
上半身に力を入れて、悟浄の手の力に逆らおうとする。


走行中のジープから落ちたぐらいで、参ってしまうような柔な作りはしていない悟空だ。
けれども、何故だか専属保父はやたらとこの子供に過保護で、認めないだろうが保護者もそれは同じである。
そして言われれば即否定する悟浄も、危なっかしいこの子供に手を出さないではいられなかった。

だからこうして溜息を吐きつつも、好きにしろと言って手を離すことが出来ない。
真っ直ぐ海の方へ目を向けたまま、頑として動こうとしない悟空に呆れながら。



「…………海」
「おー」



また確認のように漏れた悟空の言葉に、悟浄はそれだけ返す。









悟空の金色の瞳には、果てない水平線とそれに交じり合った空と、反射する煌きがそのまま映りこんでいた。











































無邪気に浜辺を駆けていく少年を見送りながら、三蔵は遠慮なく長い溜息を吐いた。


潮の匂いが近くなった時点で、こういう事になる予想はしていた。
何故か子供というものは海を見るとはしゃぐように出来ているらしい。
いい加減に成人を迎える筈の悟空も、中身はやはり子供で、例に漏れない。

戦闘になると防御が二の次になってしまう悟空に誂えられた肩当や服も、今は八戒の腕の中。
寝巻き代わりに着るシャツとズボンだけという井出たちで、悟空ははしゃぐ心に弾けたように浜辺を駆け回っていた。



「今日の道程は、この辺が限度になりそうですね」
「あれじゃ夜まで遊び倒すだろうしな」



暢気に言ってのける二人に、また三蔵の眉間の皺が追加される。



「まぁまぁ三蔵。ジープも少し休めてあげた方が良かったでしょうし、ついでに、ね?」



もう止まってしまったのだから、と。
宥める八戒の言葉が今は少し腹立たしい。


確かに、一行で決定権を持つのは三蔵で、その三蔵が悟空の希望を許してやったのだ。
あまりにしつこく行きたい、海の傍に行きたい、と煩く繰り返すものだから。
例えそれが甚だ不本意なものであったとしても、今更撤回は出来ないのである。

何より、無邪気に駆け回る子供を無理にでも引き戻せば、暫くあの眩しい笑顔は見れなくなる。

結局それに絆されている自分に一番腹を立てつつ、三蔵は懐から煙草を取り出した。
これ以上その話題を出すな、という意味をこめて。



「で、次の町までは問題ねえのか」
「ええ、大丈夫ですよ」



今までジープが走っていた道と、今悟空が駆け回っている浜辺と。
その狭間には剥き出しになった岩盤があり、所々に突出した岩がある。

身近にあったその岩に腰掛けて問えば、八戒がすぐに頷いた。



「食料にも十分余裕がありますしね」
「なくても、今日は魚獲れば凌げるんじゃねえの?」



浅瀬の少し向こうで飛び跳ねた魚の影を眺めながら、悟浄が言った。



「その場合は悟浄が獲って下さいね」
「……少しはお前も手伝えよ」
「僕は調理と言う仕事が既に与えられていますから」



肉体労働はあなたの役目、と笑顔で言われれば、悟浄に勝てる訳がない。
そもそも、この男に口で勝とうとする事が既に間違っている。

項垂れた悟浄の視線がちらりと三蔵に向けられる。
が、三蔵は気付いているだろうに、一切その視線に答えようとはしない。
いつもの事である。


悟空は今日のこの後の事など、恐らく微塵も頭に残ってはいまい。

靴まで放り出して、熱い砂浜の上で悟空はじたばたしている。
だったら脱がなきゃいだろうにと大人のつっこみは子供に届く筈もない。
そのまま白波の立つ波打ち際に駆け寄ると、悟空は其処で遊び出した。





「すっげー! きもちいぃ〜っ!」





興奮によるものだろうか、いつもより声がワントーン高い。


確かに、此処数日の炎天の日々を思えば、この海は最高のオアシス。
何故か西からもいけ好かない神からも刺客が来ないので、悟空はすっかり暇を持て余していた。
有り余ったエネルギーを発散させるには丁度いい寄り道だろう。

涼むことが出来て、ついでに遊べる。
すっかり海に浜辺に心を奪われている子供を止めるなんて、誰にも出来ない。





「三蔵ー! 悟浄も八戒もー! すっげぇ気持ちいいよー!」





波打ち際でこちらに向かって手を振る悟空。
“一緒に遊んで”モードだ。

進んでそれの相手をする者と言ったら、一人しかいない。



「そんじゃ、ちょっと行ってきますかね」
「大丈夫ですか? 金槌でしょう、あなた」
「ほっとけ。浅けりゃ問題ねぇよ」



いつであったか、走行中に道を外れて落ちた川で溺れかかった事がある悟浄。
だが足がついていれば何も心配することなどないのだ。
上着を脱いで身軽な格好になると、悟空同様、靴も放り出して走って行った。

ようやく遊び相手が来たのを見て、悟空の表情が俄かに明るくなる。
普段から年齢相応には見えない悟空だが、そうやって笑うと、更に幼く見えた。


水の掛け合いを始めた悟空と悟浄に、三蔵が呆れたように溜息を吐いた。
火のついた煙草はもう随分短くなっている。
今日一日で一箱は消費されるかも知れない、と八戒は思った。





「たっ! 痛いっ! 悟浄、タンマ!」
「待ったなしだぜ!」
「目ぇ入ったー!」





遠くに聞こえる悟空と悟浄の声は、すっかり遊びに夢中になっている。

普段、悟浄は悟空のことをガキだガキだと言うが、そういう彼も十分ガキだ。
少なくとも、悟空と同レベルで騒ぐ事のない三蔵と八戒からすれば。



悟浄の飛ばした海水が目に入ったのか、ストップをかけている悟空。
しかしそれに構わず、悟浄は水をかけている。

腹に据えかねた悟空が、狙いも滅茶苦茶に足で思い切り水面を蹴飛ばした。
思うよりも大量の水が跳ねて、それは見事に悟浄に襲い掛かる。
頭から被った悟浄を見て、悟空は腹を抱えて笑い出した。


……全く、平和ですねぇ。


肩の上で欠伸をしているジープの喉を指先で撫でながら、思う。

ちらりと隣を見てみれば、三蔵も適当な岩に腰掛けていた。
今日は先へ進まない───否、進めないと見て、諦めたらしい。



「それにしても」



騒ぐ二人がいなくなれば、三蔵と八戒の間にあるのは漏れなく沈黙が落ちる。
それは別に嫌いではないのだが、それより、八戒には一つ気になったことがあった。



「悟空って、海では泳がないんですね」



言うと、三蔵がこちらに目を向けた。
それが少し以外で、八戒は僅かに瞠目する。


何か自分は意外な事を言っただろうか。
この何事にも動じない男の琴線に触れるような事を口にしたか。

ただ感じた疑問を呟いただけだった筈だ。



「あの」
「いつから気付いた?」



何が引っ掛かったのか問おうとしたら、それよりも先に問われた。



「悟空が海で泳がない…って事ですか? まぁ…ついさっき、ですけど」



それは、悟空と言う子供の行動パターンを知る者にしてみれば、中々当て嵌まらない事だったのだ。

悟空は先ほどからずっと波打ち際で遊んでいる。
浜辺と波打ち際を行ったり来たりしているばかりで、少しも沖へ行こうとしない。
それは保護者にしてみれば目の届く範囲にいてくれるので助かるのだが。


だが、悟空の常の行動を思い返せば、すぐにでも沖に向かって泳いで行きそうなものではないか。
悟浄のように金槌ではないし、湖に来れば泳ぎたがるし、水底まで潜って魚を獲ってくる事もあった。
泳げる悟空が海の向こうまで泳ごうとしないのは、正直、不思議だ。

けれどどれだけ考えている間にも、悟空は泳ぎ出そうとしない。
浅場にさえ進もうとせず、寄せて返す波は悟空の踝までしか浚う事はなかった。


昔、海で溺れた事があるとか、そういう話は一度も聞いたことがない。
無邪気に海に駆け出す悟空の姿に、そんな考えはすぐに一蹴された。



「……俺も理由は知らねえよ。昔からああだ」



呟く三蔵の視線は、駆け回る養い子に向けられたまま動かない。
同じく八戒の翡翠も、無邪気に笑う子供に向けられていた。












─────三蔵が仕事の都合で、悟空を海の近くにつれて行く事は何度かあった。
漁師町の近くにある寺や、仕事先の道中、帰り道だったり、悟空はその都度はしゃいでいた。

何処何処で魚が跳ねただの、遠くの方で渦が出来ているだの。
三蔵が仕事の最中、悟空はずっと海を見ていて、時には浜辺で遊んだりもしていた。
その姿を三蔵は何度も見ている。


時折、三蔵はそうやってはしゃぐ悟空の姿を日がな一日眺めていた事もあった。
三日かかると言われた仕事を二日で終わらせ、強制的に休みをもぎ取った時だ。
そういう時、悟空は海を見た時以上にはしゃいで、三蔵を浜辺へ連れ出すのだ。

最初はゆっくりしたかっただけに鬱陶しがっていた三蔵だったが、繰り返される内にパターンになった。
寺にいるよりも他者の介入は少なかったし、そういうメリットもあったから。



最初は、ただ眺めていた。
だから、余計に気付かなかったのだろうか。





悟空は、海で泳がない。





三蔵が見ていない間に何かあった訳ではないだろう、それなら直ぐに言ってくるだろうから。
仕事を終えた三蔵が浜辺に迎えに行った時、悟空はいつも波打ち際か浜辺にいた。
時折浅瀬に隆起した岩の上にいる事もあったが、海の中でその姿を見ることは皆無だったと言っていい。

最初はただの気紛れか、若しくは慣れぬものへの薄い警戒心かと思っていた。
……けれど、見ている限りで悟空はそういう素振りを見せない。


それどころか、悟空自身も気付いていないのではないだろうか。
自分が一度も海に入ったことがないということを。




一度だけ、それとなく聞いた事がある。
泳がないのか、と。

その時悟空はきょとんとした表情をした後で、うん、と頷いた。
何故と続けざま問えば、なんとなく、とだけ。



答えた悟空の表情は隠していることなど何もなく、ただ純粋に答えたのだと判った。
だから三蔵にも、未だに悟空が何故海で泳がないのか理由を知らない。













以来、三蔵も悟空に対してそれを問うことは止め、悟空も変わることはなかった。
海を見ればはしゃぐのに、遊ぶのはいつも波打ち際まで。


知らぬうちに三蔵は舌打ちを漏らしていた。
あの時答えた悟空になんの意図もない事は判っているつもりだ。

だがそんな時に決まって悟空を引き止めるように繋いでいるのは、ただ一つ。




悟空の記憶にさえ確かでない、遠い過去の出来事。
誰も手を出して覗く事さえできない、夢幻のような。





そして、今日も。



子供は波打ち際で遊んでいる。