sea cradle







予想通り、一日は海で遊び倒した悟空は、夕飯の後一番に意識を手放した。
構い倒した悟浄がそれに続いて眠り、ジープが眠り、三蔵が眠った。
八戒はしばらく見張りとして起きていたが、なんの気配もなく、静寂に波の音しか聞こえなかった所為か、程無く眠りに着いた。

大体、見張りなんて最初からあってもなくても同じだったのだ。
それぞれ気配や空気の変化には敏感だから。


昼間と同じく、時間はただゆっくりと流れて行った。
刺客が来ることもなく、野生の夜行性動物の気配さえも遠くに消えていた。
最近の熱帯夜が嘘のように涼しい気温は、寝るには最適だった。

だから、誰も目覚める理由などなかった。
────誰も。



けれど、悟空は目を覚ました。




(………あれ?)




目覚めたばかりだというのに、不思議と悟空の意識は酷くクリアだった。

起き上がると衣擦れの音がして、眠った時にはなかった毛布がかけられ、ずり落ちたのだと知る。
吹いた風は冷たくも寒くもなかったけれど、なんとなくその毛布を手繰り寄せた。


あまりにも唐突過ぎる意識の覚醒で、悟空自身、頭がついていっていない。
どうして目覚めたのか、という疑問よりも、自分は今何をしているのか、という思いの方が強い。


空を見上げれば、月と星が闇に飲まれようとする世界を照らし出している。
日付が変わっているかは判らなかったが、夜半である事に変わりはない。

とりあえず周囲の気配を探ってみるけれど、特に何も感じられない。
益々悟空の思考は混乱して、意味なく目覚めた理由も、どうして目覚めているのかも理解し難かった。
極自然に、意識が浮上してきたのだとしか。



(……腹…減ってない…と、思うんだけど)



自分が夜中に目覚める理由の大半はそれである筈。
だが腹に手を当てて擦ってみるけれど、別に自分の胃袋は鳴いていなかった。

他の誰かも目覚めたのだろうかと、見回してみる。
が、悟浄も八戒もジープも、三蔵も、その瞼を持ち上げてはいなかった。
自分だけが覚醒したという不自然さに、悟空は首を捻る。



(結構遊んだし、腹一杯食ったし。もう寝るだけだと思ってたのにな)



なんとなくアテが外れた気分になって、悟空は渋面になった。
が、それも長く続く性格ではない。



静かな空間に響く、波の音。
何気なく悟空は立ち上がると、隆起した岩の影からそちらを覗いてみた。

昼間の景色とは違う色が、一面に広がっている。


思えば、夜の海と言うのはあまり近くで見たことがなかったかも知れない。
旅に出る前は三蔵の仕事先で、夜になれば三蔵と一緒にいたくて宿泊先に戻っていたし、
ここ一年も海辺で野宿する事はあっても、夜半の浜辺に行く事は何故か八戒に危ないからと禁止されていたから。

駄目と言われれば行きたくなるのが人の心情と言うものだ。
常ならば八戒や三蔵が止めて、悟浄も行かない方が良いだろうと言うのだけど────今は皆、眠っていて。



(ちょっとだけ)



ちらりと一度保護者の方を見てから、悟空は岩の横を通り抜けて、浜辺に駆けて行った。

バレたりしたら確実に大目玉だ。
だけれど、一度動き出した子供の好奇心は留まる事を知らない。


靴を脱いで浜辺に直に足を下ろすと、灼熱のようだった昼間とは違って冷たくなっていた。
歩いた後に出来る足跡は、雪の上につくものとは少し違って面白い。

そのまま走って波打ち際まで来ると、昼間と同じように寄せる波を蹴り上げた。
遊ぶ相手がいないのは少し残念だったが、それよりも悟空の意識は広がる光景に向けられている。
昼間と違って、空と海の曖昧になった境界線の中、煌く小さな光に悟空は意識を奪われていた。



「……すげー……」



足元に寄せては返す波は、悟空を浚おうとしているよう。
吹く風も涼しくて、海辺特有の潮の香りがする。


波打ち際を辿るように、悟空は歩く。
少しずつ三蔵達から離れているとは思ったけれど、すぐに戻れるだろうと踏んで。

軽快すべき事は何も思いつかなかったから、悟空は思うままに進んでいく。
広がる風景はあまり変化を見せなかったけれど、それでもなんだか楽しかった。
まるで小さな子供になったように。

…悟浄がそれを聞いたら、今でも子供だと揶揄ってくるのだろうけど。



「三蔵も起こしてくれば良かったなぁ」



波の音だけの静寂の世界は、三蔵も気に入るんじゃないか。
いや、それでなくても、三蔵と一緒に見たらもっと好きになる。

この静かな光景の中、太陽が隣にいる。
それだけで、悟空の世界は十分満たされるのだ。
他に何もなくても良いぐらいに。


ぱしゃん、と音を立てて白波を蹴飛ばした。
跳ねた水滴は月光に揺らめいてきらきら光り、それがまた悟空を魅了する。

いつまでやっても飽きない。



悟空の口から、無邪気な笑い声が漏れた。





その時。









「泳がないのか?」










───……いつか大好きな人に問われたものと同じ言葉。


聞き慣れてはいないけれど、聞き覚えのある声。
悟空が振り返れば、浜辺に立ち尽くしていたのは漆黒を纏う男。

三蔵の経文を狙い、命を狙う、闘神。
自分と同じ金晴眼を持つ、自分を同族だと言う男。
そして何より、倒すべき敵。




「焔っ!!」




海を背にして如意棒を握る。
が、焔の方は構えるどころか聖龍刀を手にしてさえいない。
仕掛ける気配もなければ、敵意さえも感じられなかった。

時折、この男はこういう行動を取る。
三蔵や悟浄、八戒には容赦しないのに、悟空に対してだけは違った。


けれど悟空にとって焔は敵でしかなく、気を緩めば相手に付け入る隙を見せる事になる。
つい先日完膚なきまでに負かされたという悔しさもあって、悟空は睨むように焔を見据えていた。



「毛を逆立てた猫のようだな」



隠しもせずに警戒を見せる悟空に、焔は苦笑した。
それが悟空にとってはバカにされたようで、余計に腹が立つ。



「そう構えるなよ。散歩に来ただけだ」
「…なんで」
「暇だったからな。お前達がこんな所で燻っているから」
「そんなのオレ達の勝手だろ!」



噛み付くように吼えても、当然焔が動じることはなかった。
もとよりこの男に何を言った所で無駄なのだ。

真っ直ぐに睨む悟空の視線を、焔はいつも逸らす事無く受け止める。



「別に悪いと言ってる訳じゃない。面白いものが見れそうだと思ってな」
「…はぁ?」



何を目的にしているのか判らない焔に、悟空は眉根を寄せた。


時折、焔はこんな風に意味の判らないことを悟空に語りかける。
挑発するようにバカにしたかと思えば、癇癪を起こした子供をあやすように宥めたり。
遥か遠い記憶を呼び起こすように、絹で包むように包み込んだりして。

どうしてそんな風に接するのか、悟空は今でも理由を見つけられないでいる。
その一瞬の迷いの間に、いつも距離を詰められると判っている筈なのに。


気付いた時には、いつも遅い。
間近になった存在に両腕を掴まれて、逃げる事さえ出来なくなる。



「しばらく見ていたが、相変わらずなんだな」
「っ何がだよ!?」
「海で泳がないのが、だ」



腕を掴む手を振り払おうとするけれど、出来ない。



「待っているのか?」
「知るか! 離せよ!」



一つ一つを確かめるように問うのが、悟空の苛立ちを煽る。
見下ろす焔の瞳は何かを含んでいるようにも見えるし、寂しそうにも見える。

この男は、いつも相反するものを抱えているのだ。
思い出せと言ったり、今のままのお前がいいと言ったり。
その言葉通りに思うことはない悟空だけれど、無用に揺さぶられるのは腹が立った。


あらん限りの力を振り絞って、焔の手を振り払う。
すると今度はあまりにもあっさりと解放されて、悟空は勢いあまって後ろに蹈鞴を踏んだ。
そのまま留まる事が出来ずに、寄せる波の中に倒れこむ。



「うっ…ぷ……何すんだよっ!」
「離せというから離しただけだ」



答える焔の表情は、明らかに面白がっているもの。
波の中に座り込んだままで睨み上げると、オッドアイとぶつかった。



「変わらんな、そういう所は。ほら」



言って、焔が手を伸ばす。
けれど悟空はそれを取ることはせず、明後日の方向を向いた。



「強情だな」
「煩い」
「三蔵でなければ嫌か?」



途端、悟空はかっと自分の顔が熱くなるのを感じた。
それを知られたくなくてもう一度焔を睨む。

濡れた所為で冷えた身体が震えたけれど、構わない。
こんなにびしょ濡れで帰ってバレたらハリセン一発じゃ済まないだろう。
でもそれぐらい、この男に塗られた屈辱に比べれば軽いもんだと思う。


伸ばされた手を取る相手は、たった一人だけでいい。
それ以外の人の手なんて、絶対に取らない。







「本当に、三蔵でなければ嫌なのか?」






なのに、この男はいつもそう言って揺さぶって。










「待っているのは、別の光じゃないのか」











まるで、誰かの代わりにしているような事を言う。
三蔵は三蔵でしかないし、誰も代わりになんて出来ないし、太陽はたった一つしかないのに。

なのにこの男は、代わりにしているだけなんだと言う。



悟空の知っている限りで、あんな光を持つ人は彼しかいない。
悟浄や八戒も暖かいけれど、三蔵は別格だった。

初めて出逢った時から、今までずっとそう。
彼以上の光なんて知らないし、それよりも彼以外に自分の世界を照らしてくれる人はいなかった。
だから彼がいなくなったら、自分の世界は真っ暗になってしまうんだと悟空は知っている。



彼はいつだって自分の前にいて、先に進む道を教えてくれる。
其処を辿るか否かは悟空の好きにされていて、悟空は自分の意志でその道を進むことを選んだ。
その道の向こうに彼がいると思えば、悟空は幾らだってその道を進んで行けた。

彼がいない道を辿る気にはなれなかった。
彼がいるから、意味があった。


出逢った時から、ずっと。
ひょっとしたら、出逢う前からずっと。



自分には、三蔵しかいないと。



あの岩牢を連れ出された時、この為に自分は此処にいたんだと思った。
他の誰に会う為でもなく、他の誰に連れ出してもらう為でもなく、ただ彼を待っていたんだと。

運命だとか信じているつもりはないけれど、彼にだけは。
誰が定めたとか決めたとかではなく、きっと彼に逢う為に自分は此処で待っていたんだと思った。
500の刻が流れる日々を、たった一人で過ごしていたのは、この為だったんだと。







……でもそれは、本当に。



“彼”を待っていたのだろうか。










「─────っ!!!」





声にならない叫びを上げて、悟空は逃げるように焔の横をすり抜ける。
けれど寄せて返す波に足を取られて、また水の中に倒れこんだ。


振ってくるのは、冷たくて、何処か寂しそうな声。




「まだ、待ち続けているんだろう」




何を、誰を、何処で、何故。

湧き上がる疑問を口にしたところで、きっと誰も答えてはくれない。
焔はいつも問いを投げかけるばかりで、一つも答えらしい答えを教えてくれた事はなかった。




「遠い日の約束を、お前はいつまでも覚えているんだな」




何もかも知っているような口振りで、だけど絶対に教えてくれない。
なんの意図を持ってこの男がそうしているのか、御供には判らなかった。

ただ無性に、頭が痛い。
焔がこんな風に語り掛けてくる時、いつも身体の何処かが悲鳴を上げる。
それは今みたいに頭だったり、手のひらだったり、足だったり、様々だ。




「……封じられているだけでは、忘れたことにはならない」




───急に、寄せて返す波が怖くなった。
今までそんな風に感じたことは一度だってなかったのに、急に。

まともに立ち上がるまでの時間も惜しくて、悟空はとにかく足を前へと動かした。
地盤のしっかりしない砂と寄せる波に足を取られたけれど、もう転びはしない。
転んだらまた波に浚われる、それが今は酷く怖かった。




「…酷な事をするものだな……なぁ、孫悟空」




波の届かない浜辺で座り込んでいる悟空を、焔は背を向けたままで呼ぶ。
悟空も海に背を向けたままで、振り返ることはしなかった。

────……振り返ることが、出来なかった。







「いっそ全て忘れさせてくれたなら、こんなにも怖い思いはしなかったのにな」







う、と漏れた嗚咽が自分のものであったと気付くまで、時間がかかった。
泣きたいなんて思ってもいなかったのに、視界が水の膜に覆われてゆらゆら揺れる。
今此処で涙する理由も判らずに、悟空は抗うことも出来ずに浮かび上がったそれを落とした。


怖い、なんて。
何が怖かったかなんて、判らなかった。

何故寄せては返す波が怖いだなんて思ったのだろう。
さっきまで綺麗だと思っていた光景を、怖いだなんて。
静寂の中に聞こえる波の音は、少しも恐ろしくなんてないのに。



“約束”なんて、何も知らない。
遠い過去の事なら、自分は何も覚えていない。



判らないことが多すぎて、頭の中がぐちゃぐちゃになっている事だけ判る。
正常な原形なんて欠片も留めていない思考回路は、今度はバラバラに砕けようとしていた。
それ以上考えるな、思い出すな、何も知るな───……そんな風に言われているようで。

その傍らで、必死になってバラバラになった回路を元に戻そうとしている自分がいた。
考えなきゃいけない、思い出さなきゃいけない、知らなきゃいけない───……そんな自分が。


思い出した先にあるのは、自分の望んでいるものだろうか。
知った先にあるのは、自分が待ち望んでいるものだろうか。

そんな事は判らない。



感情が頭の中の出来事について行かない。




「思い出せとも…思い出すなとも、俺には言えない」




堪えきれなくなった嗚咽が、波の音の隙間をぬって当りに響く。




「……ただ」




暗闇しかなかった空と海の境界線から、光が差し込んだ。
背中を向けた悟空にそれは見られなかったけれど、砂浜に落ちた影でそれを知った。

どうしてこんな時に朝が来るんだろう。
そんなにも自分は長い時間を此処で過ごしていたのだろうか。








「本当に欲しいものが判らずに泣いているお前は、見たくない」










欲しい、もの。
求めている、もの。


待っている………人。





誰も教えてくれない、自分だけの虚像と真実。

それさえ、今の悟空にはどれがどれなのか判らなかった。