絶対不可侵領域








僕の世界にあなたしかいないなら



あなたの世界に僕しかないなら











………僕は外の世界が壊れたって構わない





























預かれ、と相変わらずろくな説明もないまま、最高僧は寵愛する養い子を置いていった。
別にそれはいつもの事になっているので、悟浄も八戒も一向に構わない。
それに、この無邪気で元気な幼子に何かと構いつける事が出来るので、彼らは決してこの出来事を厭う事はなかった。

保護者と離された子供には悪いと思わないこともないのだけれど、やはり悟浄と八戒の本音は“嬉しい”になってしまうのだ。
何せ保護者がいる時には、甘やかすなだの、煩いだのと制止がかかるので、自分達が思う存分構ってやれないのである。



今回は二週間という長い期間、不在にすると悟浄は聞いた。
預かる時にその話を聞いていた時、子供は保護者の袖を掴んで握り締め、全身全霊で不満を露にしていたものだ。

長い期間不在にする時、三蔵はなるべく子供を連れて行くようにしているようだった。
元来誰かと行動を共にするのを好まない三蔵に、子供が散々連れて行けと駄々を捏ね、彼が仕方なく折れるのである。
悟浄と八戒と知り合ってからは預けるようにもなったのだが、やはり子供の方が保護者と一緒にいたがるようだ。


しかし今回は格式高い───言ってしまえば、頭の固い寺院に赴くのだという。


悟空の金瞳は、目立つ。
もしも古い伝承を盲目のように信じる場所に連れて行ったら、何が起こるか。

以前もそういう事はあったようで、三蔵が仕事に言っている間に、悟空は暴行を受けた事がある。
いつもの事だから気にしない、と悟空はその時言ったらしいけれど、その実、綺麗な金瞳は泣き腫らしていた。
傍においている時は三蔵の存在もあって、精々陰口しかないのだが、その庇護から少しでも離れると何をされるか判ったものじゃない。
中には俗物もいる訳で、幼い中世的な顔立ちの悟空に不埒な事を考える輩もいる。



置いて行っても、連れて行っても、同じ。
いずれにしても、悟空は謂れのない暴力をされる。

どうしたものかと思っていた三蔵にとって、悟浄と八戒との出会いは幸運だったと言っていいだろうか。



以来、長期の不在の時は、決まって彼は子供を二人に預けて行くようになった。
悟空も甘えさせてくれる二人の所に泊まれるのは嬉しいらしい。
不満そうにしているのは三蔵に置いて行かれたと言う事だけで、次第に機嫌も直っていくのだ。




だけれど、悟浄は一つ、どうしても気掛かりな事があった。
























「お前って、本当に三蔵様の事好きなのな」



唐突な悟浄の言葉に、悟空はきょとんとして悟浄の方へと振り返る。
その手には八戒特性のジャンボ肉まんがあり、口の端にも食べかすはついていた。

振り返った悟空と同じく、子供の世話をしていた保父も振り返った。
こちらは何を今更、という表情である。


確かに、悟浄の言った言葉は本当に今更のものであった。



「……へ?」
「だから、ほんっっとーに三蔵のこと好きだよな」



煙草の煙を吐き出しながら、同じ台詞を繰り返す。


本当に今更だ。
悟空は三蔵しか見ていなくて、いつだって三蔵のことを考えている。
食べ物第一のように見える悟空だが、本当は三蔵第一、だ。

腹減った、と何かと口にする悟空だけれど、悟浄は多分、“三蔵”と言っている回数の方が多いと思う。
だって本人がいようがいまいが、まるでそれしか呼ぶ名がないかのように繰り返しているのだから。



「どうしたんです、急に」
「いやぁ……ちょっとな…」



大した事じゃないんだけどと良いながら、悟浄の表情はそれを裏切っていた。
鈍い悟空は不思議そうに首を傾げただけだったが、流石に八戒はそれを見逃すほど優しくない。
いぶかしんだ様に眉を潜めて、悟浄の前にもコーヒーを置いた。



「………なぁ、悟空」
「ん? …うん、好きだよ。三蔵」
「だよなぁ……」



今更そんな事を聞いてくるのか、と悟空は至極不思議そうだ。

けれども目の前の肉まんが冷めてしまう方が嫌らしく、すぐにそちらに意識を戻していた。
ジープがおねだりするように寄ってきて、悟空はしばし考えた後、千切って分けてやっている。


悟浄と同じく悟空を見ていた八戒だったが、悟空の意識がこちらから逸れたのを見て、悟浄へ向き直る。
しかし悟浄の方は、まだ悟空に目を向けたままだ。




悟空にとって三蔵は唯一無二の存在。
岩牢から連れ出してもらってから、まるで刷り込みでもしたかのように三蔵の後ばかり追いかけている。
置いて行かれるとまるで世界が真っ暗になってしまったように泣きそうな顔になったりして。


悟空は何かと三蔵を“太陽みたい”と形容する。
それは悟空にとって、決して比喩ではないのだろう。

大地の上で生きる命は、須らく太陽がなければ生きて行くことが出来ない。
悟空は、三蔵がいなければ、きっと笑うことも泣くこともしなくなるだろう。
────……それはきっと“死ぬ”事と同じだ。

それほどまでに、悟空の中で三蔵は大きな存在なのだ。


そんな事は、まだほんの一年しか一緒に過ごしていない悟浄や八戒でも、判り切ったこと。




じっと小動物とじゃれている子供を見つめる悟浄の瞳。
それは何か、良くないものでも見ているようだった。



「……悟浄?」
「…………」



八戒が呼びかけてみるが、返事はない。

悟浄は短くなった煙草を灰皿に捨て、また新しい煙草に火をつけた。
もともとヘビースモーカーの悟浄だが、最近やけに本数が増えたように思うのは、八戒の気の所為ではないだろう。



「部屋、白くなりますよ」
「窓開けりゃ良いだろ」
「それで済ませる域を超えてます」



常ならば然程口煩くするつもりのない八戒であるが、今は成長期真っ盛りの子供がいるのである。
悟空の隣にも常に煙草を手放さない破戒僧はいるので、気にする必要はないのかも知れないが、此処は保父として咎めて置きたい所。


子供はすっかり特製肉まんに夢中になって、こちらの会話など欠片も聞こえている様子はなかった。
悟浄の視線は、先ほどからずっとその子供に向けられたままで逸らされる事はない。
それはいつもの風景となんら変わりなく、別段、気に留めるようなシーンでもない筈だ。

なのに、悟浄の瞳は何処かそれとは逸していた。
今其処に何か、招かざる何かが来てしまったような。



「何か気になることでもありましたか?」



八戒自身の目には何も変わらない光景に見えたが、悟浄には違うのだろうか。
人に関心がないように見えて、意外とお人好しな彼である。

何か琴線に引っ掛かったのかと、問う。



「……いや………─────」
「…そんな顔でもないですよ」



肺に溜まった煙を吐き出す様は、何かを払拭しようとしているようにも見えた。



「八戒、これおかわりある?」



そんな大人たちの空気に気付くことなどなく、悟空は無邪気に八戒に甘えにかかる。
保護者がいれば止められるところだが、今は生憎遠くに行っているのだ。
咎める者などいない事を幸いにして、今日は思う存分、ひょっとしたら悟浄宅の食料が尽きるほどに食べ続けるかも知れない。

八戒は悟浄のことも気になったが、それでも優先順位の上位にいるのはやはり悟空だ。
ふかして保温しておいた次の肉まんを取りにキッチンへ入って行った。


その場に残されたのは、あと少ししかない肉まんを頬張る悟空と、それを見ている悟浄。






別に、何も変わったところはない筈だ。
出逢った頃からこの子供はこうであったし、何も不自然な所などない筈だ。

チビだし、ガキだし、猿だし……といつもの悪口を延々と頭の中に浮かべてみる。
そしてあの最高僧も、何故あんな奴にそんな地位を与えるのだと思うのも変わっていない。
────そんな二人があの閉ざされた寺院の中で、唯一の存在に寄り添うように生きているのも。


若年で最高僧になった青年に向けられる眼差しは様々だ。
その端麗な容姿に見せられて盲目のまま慕う者もいれば、やっかみというものも多量に買う。
三蔵はそれら全てを黙殺しているけれど。

悟浄でさえ腹が立ったのは、その最高僧の養い子に向けられる冷たい目だ。
お世辞にも子供には良い環境とは言えないだろうに、寺院に遊びに行って悟空が生傷を負っている所だって何度も見た。
後で問題にならない程度に仕返しはしているそうなのだが、本当なら息苦しくて仕方がないだろうに。
それでも、大好きと言って憚らない保護者と離れたくない悟空は、何を言われても何をされても、寺院を出て行く事はない。



味方は、互いしかいない。



寺院を一歩出ればもう少し澄んだ空気がある。
だけれど、二人は決して其処から離れようとはしないのだ。

三蔵は三蔵の目的の為、悟空は三蔵が其処にいるから。


悟空は人間不信とまでは言わないだろうが、少なからず三蔵に感化されている部分もあるのではないだろうか。
何せ6年間一つ屋根の下で一緒にいる訳だから、何かしらの影響はあるだろう。

良い意味でも、悪い意味でも。

天真爛漫なのは本人の気質であろうが、時折ふと見る瞳の色に悟浄はいつしか気付いてしまった。
それ以来、当たり前のはずの光景が何処か可笑しくなったように見える。
綺麗に彩られた絵画に、一滴の黒い染みを見つけてしまったかのように。






食べたら歯磨きしましょうね、とそれは幼稚園児に向かって言うような台詞ではないだろうか。
けれども言われた当人は気にしていない───と言うより気付いていないようで、素直にこくんと頷いている。
その手には最後のジャンボ肉まんが4分の1の姿だけで残っていた。
間もなく、それもなくなるだろう。

悟浄はずっと煙草を吸っていたのだが、やはり此処数日の消費量は常の倍以上であったらしい。
10分程前にストックを空にしてしまい、手持ち無沙汰で暇を持て余していた。



「三蔵、まだ帰ってこないかなぁ」



そろそろ出てくるだろうかと思っていた台詞が、案の定漏れた。

保護者の不在期間は二週間、悟空を預かってから今日で12日が経つ。
運良く早く終わっていれば、今日の夕方頃にでも門戸は開かれるだろう。
運が悪ければ、あと数日かかるだろうが。



「どうでしょうねぇ……今回は、頭の固い狸ジジィが大勢いるって言ってましたけど」



悟空を預けた折、何故連れて行かないのかと問うと、そんな返事が返ってきた。
それで二人が納得するには十分な材料だったが、悟空一人はやはりまだ不満だったようだ。

頭の固い連中がいるからと言って一人残されるよりは、大好きな人とずっと一緒にいられる方がいい。
邪魔だからと素っ気無い態度の保護者の遠回しな気遣いを判っていない訳ではない。
ないけれど、子供はまっしぐらだから。


八戒の返答に少し残念そうな顔をした悟空の頭を、悟浄がくしゃくしゃと撫でてやった。



「気に入らねぇ奴らがいるなら、尚更早く帰って来るんじゃねーの」
「…ま、そうですね。そんな方々と四六時中顔を突き合わせていられるほど、人間出来ちゃいませんし」



さりげなく酷いことを言ってくれた八戒だが、それは悟浄も同意する。
とにかく面倒を嫌う三蔵のこと、必要な事だけさっさと済ませて早足で戻って来るだろう予想はついた。

けれども、悟空にとって待つ時間が長いように感じるのは変わらない。
何かを待っている間は、時の流れは何故かゆっくりに感じられるものだ。
どんなに楽しくカード遊びに興じていても、八戒特製の料理を食べていても、それはきっと変わらない。



「もう少しの間の辛抱ですからね」



そう言いながら、八戒はまたキッチンへと消えていった。

ああ、本当にうちの食料はこの小猿に食い尽くされるのかも知れない。
そんな危惧を抱かなかった訳ではないが、退屈そうに窓の外に目をやる子供の横顔に、溜息を漏らすしか抵抗する術はなかったのだ。