絶対不可侵領域





そろそろ夜半を迎えると言うのに、子供はまだ寝るつもりはないらしい。
お子様は寝る時間だと揶揄してみれば、ガキじゃない、という声は返るのだが、いつものように手が出てくることはなかった。

金色の綺麗な瞳は、もう半分が自身の瞼に覆い隠されつつある。
保護者が今日帰って来るという保障は何処にもないのに、この小猿は待つつもりなのだ。
健気な姿は少々涙を誘うものがあるが、もうダウンまでは後数分もないだろう。


八戒が寒くないようにとブランケットを持ってきていた。
それを肩にかけてやれば、手繰って包まってしまう。
益々眠くなるのは判り切ったことだろうに、やはり限界は近いのだ。


それとも、と悟浄はふと思った。
まさか、今日───もう直帰ってくるというのだろうか。


この二人が、他人にはよく判らないけれど確かな繋がりを持っていることは知っている。
構って貰えなくて拗ねた悟空が何処に行こうと、三蔵は直ぐに見付け出すことが出来た。
寺院の本堂の屋根の上にいようと、裏山の入り組んだ獣道の先にいようと。

悟空の方は三蔵よりもはっきりとしたものではないらしいが、こちらは動物の勘だろうかと悟浄は思うことがままある。
誰も其処にその人がいるなど考えていないだろうに、悟空だけは薄ぼんやりとだが、彼の気配を捉えることが出来るのだ。


以前、珍しくも4人で町へ繰り出した時、悟空が迷子になってしまったことがあった。
人ごみの中で揉まれている間に逸れ、おまけに悟空が自分達を探してうろうろしたものだから手間取った。
姿形の情報は確認できるのに、言ってみれば既に其処にはいなかったのだから。

一時間ほど手分けして探し回ったところで、三蔵はあらぬ方向へ向かい始めた。
慌ててその後を辿ってみれば、果たして子供は、其処にいたのである。
泣いたと判る顔で立ち尽くしていた悟空が保護者を見つけるなり飛びついたのは、まだ記憶に新しい。



誰にも判らない筈なのに、彼らには判る。
互いが傍にいる事を、近付いている事を。



「……悟空、もう寝ませんか?」



あと少しで瞼が落ちきってしまう所で声をかけると、またゆるゆると持ち上がる。



「う……何時……?」
「もうすぐ10時ですよ」



最近悟浄とカードゲームに夢中になって、夜更かしする時間が増えた悟空だったが、やはり眠いのは変わらないらしい。
気分が高揚していれば起きていられるのだろうが、今は特に何もする事がなかった。

リビングの椅子に腰掛け、テーブルに突っ伏したままで意識を手放そうとしている悟空。
その隣に座って頭を撫でているのは八戒で、悟浄はその向かいに座ってビールを開けていた。
決して広くはないだろう室内に、ビールのアルコールの匂いが薄ら漂い始めている。



「ほら、ギブアップならさっさと寝ろよ。三蔵が帰ってきたら起こしてやっから」
「う〜……」



ふるふると悟空は横に頭を振った。
嫌だ、と意思表示。

どうしても保護者の出迎えをしたいらしい。


殆ど寝惚け眼になっているが、それでもまだ粘る。
意識を手放してしまえば楽になるだろうに、なんだってそんなにも必死になるのか。

思えば、悟空はいつだってそうだ。
何があっても三蔵が第一で、時々自分のことさえ二の次にしてしまう事がある。
ごく当たり前のようにそうするから、見ていて忘れてしまう時があるけど。



「……なんだって、そんなにあいつを待つんだよ」



漏れた言葉に特に意味はなく、純粋な疑問からだった。


封印を解いて外に出してくれたから、という理由だけでは生温い。
悟空はまるで己の全てを捧げるかのように、三蔵の事だけを思って生きている。

誰がどう考えても、三蔵は優しい手合いではない。
本気で怒らせればハリセンどころか銃弾が飛んでくるし、口を開けば死ねだの殺すだの物騒な台詞しか出て来ない。
悟浄や八戒の知らない三蔵がどれだけいるのか知らないが、子供が無邪気に慕うには無理のある性格だと思う。


優しい人なら、もっと他にいるだろう。
悟浄だって八戒だって、これは過小評価ではなく、三蔵よりも悟空に対して優しいと思う。
甘やかす事と優しい事が同意義になるかは、置いて考えるとして、だ。

どうして迷いなく選び取るのは、あの無愛想な青年の手なのだろうか。
雛の刷り込みのようだと思ったのは一度や二度ではなかった。



「なんでって、なんで?」



悟浄の質問に、悟空は質問で返した。
無理もない、悟空はいつも待っていて、この風景は当たり前だったから。
今更何故そんな事を聞くのだろう、という気分なのだ。



「……あいつ、待ってろなんて言ってたか?」
「ううん」
「じゃあ、なんでお前はそうやってるんだ?」



悟空を置いて行く時、三蔵は決して待っていろとは言わない。
大人しくしてろ、と。
それぐらいだ。

この家に連れてくるまでに色々遣り取りはあるのだろうが、其処は悟浄達の知る所ではない。


悟浄と話をしていれば、少しは眠気も紛れると思ったのだろうか。
悟空はテーブルに置いた腕の上に顎を乗せて、悟浄を見た。

零れ落ちそうなくらい大きな瞳に、紅い髪がはっきり映り込む。



「だって、いっつも待ってるもん」
「けど、寝てたって良いんだろ」
「うん。たまに寝てることもあったし」



三蔵が帰って来るまでに耐え切れず、意識を手放すことは珍しくない。
悟浄達と会うまではそういう事もよくあった。






「でも、待つの」





まるで厳守すべき掟を守るかのような口調で、悟空は言った。

その時、悟浄は何かを感じたような気がした。
真っ直ぐ見つめてくる、その瞳の奥で、何かが呟いていたのを。


ガタン、と立ち上がった悟浄を、八戒が驚いた顔で見ていた。
何故自分がそんな行動に走ったのか、悟浄自身にもよく判らなかった。
けれど、何か異質───そうだ、異質なものを感じたのは確かだったのだ。

このままにしておいては危険だ。

根拠のない声が自分の意識しない部分から漏れたような気がして、それに触発された。
立ち上がった反動で椅子は床に転がっていて、それはこの均衡を崩す前兆のようだ。



「待ってろって、言われた事ないよ。だけど、オレが待ちたいから待つの」



ついさっきまで眠たそうにしていた瞳は、はっきりと覚醒の色を映し出していた。



「待ってたら迎えに来てくれるもん。そしたら、おかえりって言えるんだ」



悟空が言っている事は、大好きな保護者を待つ子供のものとしては、何も不自然なところはない。
しかし悟浄が見ているのはその後ろに、在る筈のない存在だった。


心霊現象だとか言う類は信じていない、そもそも腹違いの兄に色々吹き込まれた所為で嫌いだし。
だから今自分が見ているものは、ただの幻、自分の脳が作り出した錯覚に過ぎない。

だが、それで片付けるにはあまりにも鮮やかなのだ。
綺麗な綺麗な金色の瞳のすぐ傍ら、まるで狂気に似たものを見つけた。
それ自体はきっと然程のものでもないのに、放つ空気が異様だった。



「そしたらね、三蔵、頭撫でてくれるんだ。ちゃんとしてたなって」



寝てても撫でてくれるけど、起きてた方が嬉しいもん。
そう言いながら、悟空は椅子から降りて背筋を伸ばした。

それからゆっくり振り向いた子供の瞳に戦慄を覚えた。
敵意ではない、だけれど確かに踏み込んでくるなと忠告するような、昏い金の瞳が其処にある。
感じ取ったのは悟浄だけでなく八戒も同じで、いつも柔らかな翡翠が瞠目していた。



「そしたら判るんだ。三蔵、オレのこと置いてかないんだなぁって」



此処から先は、不可侵領域。
互いだけが知っていいこと、他の誰も知らなくていいこと。






閉ざされた空間で、悟空は自らの時間が動き出してから、ずっと住み暮らしていた。
唯一無二の存在だけを追い駆けて、他の温もりなど何も知らぬまま。

自ずと、悟空の心は本来の軸にあるようで、何処か歪んで行っていた。


普通の子供が知ること、普通に成長していく上で教えられること、感じること。
三蔵が意図してのものか否か、其処までは悟浄と八戒には計り知れなかった。
ただそれらが欠けていることによって、悟空は誰も気付かぬ内に歪んでいった。



大好きな人と一緒にいたい、大好きな人の傍にいたい。
今だけじゃ足りない、もっとずっとずっと一緒に。

未来永劫、永遠に。



きっとただ傍にいたいと願い想いだけだった筈なのだ……最初だけは。
傍にいる事を許され、名を呼ぶ事を許され、頭を撫でられて嬉しくなって。
他愛もないことを大切な事のように感じて、一つ一つを大事に摘んでいた日々が確かにあった筈。

だけれどいつの間にか、気付かない内にその思いは狂気にも似た感情に変化した。
他の誰も知らないままで生きてきた子供に、それは可笑しいことだと告げる人など誰もいない。
唯一の保護者が知っているかは、二人には判らなかった。


嬉しいと思うのも事実、傍にいたいと願うのも本当。
その中で渦巻く、大人でも抱かぬ狂気を抱くようになったのも、真実。






他の誰もいらない。
本当は、あんたたちもいらないんだ。






見上げる無邪気な瞳が告げているように聞こえて、悟浄は知らないうちに自分が震えていた事に気付いた。


他に求めるものを知らなかった子供は、いつの間にか求めることを止めた。
ただ一人しか世界になかった子供は、いつの間にかそれが自分の世界であると定めた。

誰もその世界に入り込んではいけない。
子供の絶対的存在である太陽以外は、手を伸ばすことも許されない。
不用意に入り込んで来る者は、きっと八つ裂きにされる───そんな気がする。



「でも、悟浄と八戒のトコに泊まれるのも、楽しいから好き!」



突然響いた明るい声に目を向ければ、にこにこと上機嫌に笑う子供がいた。
其処に先ほどまで二人が見ていた、渦巻く闇は見当たらない。


幻だろうか。
自分の思い込みが作り出した、在る筈のないもの。

……そうだ。
きっとそうだ。
この子供に限って在る筈がない。


性質の悪い白昼夢を見たのだとそう決め付けて、悟浄は笑う悟空に向かって笑いかける。



「そりゃありがとよ。ただ、俺ん家の食料は食い尽くすなよ」
「だって八戒の作るご飯、全部美味いんだもん」
「それは、嬉しい一言ですね」



満面の笑みの悟空に、八戒もいつもと変わらぬ笑顔を見せた。
けれどその笑顔に、少しだけ安堵のようなものが混じることに悟浄は気付く。

だが、見ない振りをした。


何もかも自分の思い込みと勘違いだったのだと、悟浄は何度も言い聞かせた。
このまま忘れてしまえばいい、煙草が切れて少し苛々していただけだったのだと。
思い返せば悟空の言うことは、全て単純に子供が親を慕うものであった筈だ。

可笑しなことなんて何もなかった。
此処しばらくの妙な気分を全て無理やり払拭するように、悟浄は気紛れに四角く切り取られた外界に目を向けた。





────……そうしたら、遠くに煌く、闇に染まらぬ光を見つけた。