ただ、隣に









なぁ、頼むから






他はなんにもいらねぇから










……頼む、じっとしててくれ






































……風邪を引いた。

それを言ったら、同居人からはそれはそれはとても素敵な笑顔を向けられた。
刹那、背中を走り抜けた戦慄は絶対に本能が身の危険を感じてのものだったと、悟浄は確信を持って言える。


こんな目に会う羽目になったのも、全ては自業自得である事は判っているつもりだ。
一週間前の晴天が嘘の様に、今週は長雨続きで、それでも悟浄は街に繰り出していた。
それは食って行く為でもあったし、雨の日の同居人を多少なり気遣ったつもりであったかも知れないし、
また単純に自分が街に遊びに行きたかったからでもあった。


出て行く時も雨だったので傘はちゃんと持っていたのだが、突然の突風の所為で見事に蝙蝠に。
以後は新しく買い直すのも面倒で、そのまま濡れ鼠状態で街を歩き回り、酒場を数件梯子した。
傘をなくした代わりに運が回ってきたのか、酒場での賭けにはボロ勝ちする事が出来た。

お陰でこれならしばらく働かなくても──賭け事を仕事と言っていいものかは置いておくとして──いい位には稼げた。
そして家路に帰り着いたのは、雨も随分と小降りになった明朝の事だった。


傘も差さずに、濡れ鼠で歩き回れば体調を崩すのも当たり前の話。
傘が折れたのは自分の所為ではないのだけど。
あの突風ははっきり言って卑怯だったと悟浄は思う。

だが同居人にしてみれば、理由が何であれ、悟浄の風邪を歓迎していない事には変わらない。
……いや、ある意味では大いに歓迎しているのかもしれない。


実際、今目の前で笑っている男は、いい機会だとばかりに部屋内の悟浄の私物あれこれを片付けにかかっている。








「煙草は勿論、こういう時は寝て過ごすのが一番ですからね。この辺りの如何わしい書物は僕が処分しておきます」
「いや、そりゃちょっと。その辺、俺の秘蔵なんですけど」
「知りません。僕には全く関係ありませんね。おや、こんな所にもビール缶が」



言って八戒が手に取ったビール缶の中身は、灰だらけになっていた。

途端、室内の空気の温度が一気に下がる。
正確には、温和な表情を浮かべた男が纏う空気が。



「これと同じものがあと幾つあるんでしょうねぇ………」



メキ。
そんな音が八戒の手元から聞こえた。


バレたら確実に大目玉を喰らうだろうと思っていた、それ。
いつか見つかる前に自分で処理しようと思っていたのだが、結局それは実行されずに、今の今まで放置されていた。
見つからないようにと隠したその後、悟浄自身もそれの存在を忘れてしまっていたのである。

多分、あと二、三個は同じものが部屋の何処かに放置されているだろう。
それを容易に想像できるから、余計に八戒の怒りを煽っている。



「ちょっと目を離すとこれだから…」



家など、寝る場所があれば十分、という悟浄の事。
しばし放置すれば部屋の中がどうなるかぐらい、考えなくても直ぐに判る。

降り続いた雨の所為で少し欝になっていた八戒は、いつも自分が担当している家事も手につかなかった。
食事は必要であるから最低限作るけれど、掃除や洗濯は溜まる一方。
その間、当然悟浄の部屋の中の状態も放置される訳で。


結果が、これ。
八戒から言わせれば、ゴミ山同然。

悟浄としては何処に何があるのかは把握しているつもりなのだが。



「この調子だと、今日はこの部屋の大掃除になりそうですね」
「あー……いーよ、今度で」
「駄目です。不衛生ですから」



そう言うと、八戒はベッドに突っ伏している悟浄の首根っこを掴んだ。



「という訳で、あなたは僕の部屋で寝て下さい」
「え、マジで?」



八戒の部屋と言えば、本当に簡素なものである。
必要最低限のものしかないし、暇つぶしできるものと言ったら文庫本ぐらい。
あまり読書と言うものへ関心を持たない悟浄にしてみれば、つまらないだけである。

が、八戒はもう既に、今日一日のスケジュールを悟浄の部屋の片付けに当てるつもりらしい。



「あなたの部屋は正直不衛生で、病人が寝る場所じゃありません」
「…いや、問題ねえと思うけど」
「あります」



こういう所がお袋みたいに口煩いんだよなぁ、とぼんやり思う。

取り合えず、今日一日は大人しくしておくのが無難なところだろう。
下手に刺激して、治った後まで彼の機嫌を損ねておくのは得策ではない。


しばらく振りに入った八戒の部屋は、相変わらずだった。
よく言えばシンプル、少し悪い言い方をすれば殺風景である。

確かに、悟浄の部屋に比べれば随分衛生的だ。
暇を持て余すだろうことは間違いないだろうけど。



「今日一日は其処で過ごして下さいね」
「そりゃもう判ったけどよ、なんにもなくて暇なんですけど」
「病人は寝るのが仕事です」



仕方なく八戒のベッドに横になれば、八戒はようやく納得したように微笑んだ。

じっとしているのはあまり好きではないが、今日だけはもう諦めよう。
部屋の扉が閉まる音を聞きながら、悟浄も目を閉じた。



睡魔がやって来たのは、それから一時間以上も経ってのことであった。





























ふっと、意識が浮き上がるように現実に返ってきた。

別段なんの夢を見ていたわけでもなかったけれど、あーあ、と思う。
それは気だるさから来る面倒臭さもあったし、目覚めた故に持て余す時間の所為でもあったと思う。


眠る前より喉が乾燥していることに気付いた後、見上げた天井が少し歪んで見えた。
体中の筋肉が明らかに億劫そうにしている事を感じつつ、どうにか持ち上げた右手を額に当ててみる。

はっきり言って、よく判らない。
判らないが、脳がまともに回っていない事は確認できた気がする。



(あー……こりゃやべぇかも…)



眠る前は大した事はないと思っていたのに、思いのほか病状は酷いらしい。
そんなに濡れたかと考えた後、愚問であったと思い直した。
頭の天辺から足の先まで濡れ鼠なったのだから。

あれだけ濡れれば、流石に馬鹿だって風邪を引こうと言うものだろう。


取り合えず、乾燥した喉を潤したくて、水が欲しくなった。
部屋を見回してみるとサイドテーブルに水差しが置いてあり、実に容易の良いことだと思った。

水差しの半分を一気に飲み干せば、幾らか気分も楽になった。
少しもやがかかっていたようだった意識も、はっきりとした。



が、そうなって次にやってくるのは、“退屈”であった。



(……なーんもねぇし)



部屋の本棚にある小説やらは、あまり読む気にならない。
当たり前だが煙草は八戒に取り上げられたし。


上半身だけ起こして、またぼうっと天井を見上げる。
数ヶ月前までは埃やらシミやらで汚れていた其処は、今はすっかり綺麗になっていた。

悟浄はこまめに掃除をする方ではないし、多少の汚れは気にしない方だった。
だから逆に綺麗になった時は、清潔すぎて落ち着かないぐらいには思っていた。
今では、この綺麗な天井もすっかり慣れているけれど。


男と二人で暮らす事になるなんて、数ヶ月前の自分は思っても見なかった。
全く、人生、何処で予定が狂わされるか判ったものじゃない。



(あー、でも…あれホントに秘蔵だったんだけどなー)



悟浄は自分の部屋のベッド下に置いていた、所謂オトナの本を思いながら溜息を吐く。

ベッドの下とは随分ベタだとは思ったが、普通に置いていると何を言われるか。
一番取り出しやすくて隠し易いのは、やはりそういうベタな場所になってしまう。


まぁ、捨てられてしまったらもう仕方がない。
なくなったものを何時までも悔やむような性格はしていないし、勿体無いなと貧乏性があるだけで。
ついでに八戒に逆らおうというのがそもそも無謀な話なのだから。

あのページのお姉ちゃん良かったなー、と思いつつ、悟浄はまた目を閉じる。
眠る以外にやる事がないから。



と、其の時だ。





「あ、ホントに寝てるー」