ただ、隣に


それまで自分以外に音を発するもののなかった部屋の中に、高い声が響いた。
それからパタパタと軽い音を立てて、近付いてくる気配がある。

ぎし、とベッドに乗る音と振動がした後で、目を開けた悟浄の視界にひょこっと入ってきた子供。



悟空だ。



しげしげと悟浄の顔を見つめる悟空の表情は、なんだか珍しいものを見つけたと言っているようだった。

悟空が家に来た時、悟浄がベッドの中にいる事は珍しくない。
最もそれは自分の部屋で、朝帰りであった時の話だけれど。


悟浄も風邪ひくんだな、となんだか失礼な台詞が聞こえてきた。
馬鹿にしてんのかと思ったが、それを言うのも面倒で、悟浄は悟空の背中を向けた。
此処でこの小猿の相手をしたら、間違いなくその後の安眠からは縁がなくなる。

退屈を持て余すのも嫌だが、自分で自覚がある程の体調不良の時に子供の相手をするのも嫌だ。
子供の相手をするか、眠るか───……選ぶのは最初から決まっている。


が、しかし。
其処で思う通りにさせてくれないのも、この子供が子供たる由縁であった。



「な、悟浄、熱あんの?」



何故か楽しそうに聞いてくる悟空に、悟浄はそこはかとなく嫌な予感を覚えた。


悟空はベッドに乗ると、背中を向けたままの悟浄の顔へと腕を伸ばす。
ぺたりと発展途上の小さな手が、悟浄の頬に当てられた。

いつも熱いと思うぐらいの悟空の体温は、今は少しだけ冷たく感じた。
どうやら、悟浄自身が思っている以上に熱があるらしい。
でなければ、子供体温の悟空の手を冷たいと思う事はないだろう。



「うわ、けっこー熱ぃ」



ぺたぺたと悟浄の顔を無遠慮に触りながら、悟空が呟くのが聞こえた。

おいおい、一回触るだけで十分だろが。
思いながら、悟浄は触れる悟空の手を押し退けようとはしなかった。



「むー……」



しばらくすると気が済んだのか、悟空の手が離れていく。
少しだけ、それを勿体無いかなと思った自分がいた。
無論それを悟空に知られる訳がないのだが、そう思った自分がなんだか癪で、枕に頭を突っ伏した。

悟浄が突然うつ伏せになったことに、悟空は不思議そうに首を傾げる。
じっと後頭部に視線を感じつつ、悟浄はそれから動こうとしなかった。



「八戒いないしなー……」



独り言で漏れた悟空の言葉に、そういえば、と悟浄は今更気付く。
今日一日は悟浄の部屋の片付けをすると思っていたのに、隣室の部屋は酷く静かだ。
あれだけごちゃごちゃになった部屋を片付けるなら、大掃除並みに忙しくなりそうなものなのに。

いやそれよりも、まず彼がいるなら、病人のいる部屋に子供を入れる訳がない。
この子供も柔な作りをしてはいないのだが、どうにもあの保父は過保護であるから。


手紙に買い物行くって書いてあったけど、とまた独り言が聞こえる。
そう言えば冷蔵庫の中身なかったな、とまた今頃になって思い出した。


悟空がベッド端に腰掛けたのが、スプリングの軋む音で判った。
ぷらぷらと足を揺らしているのが、またスプリングの軋みで感じられる。

これはこれで、大人しく寝ていられない。
子供がいる状態で安眠するのは難しいものである。
悟空は、悟浄が寝ているものだとばかり思っているようだけど。



「ヒマー………」



悟浄の状態に関しては、八戒の置手紙である程度知ったのだろうか。
いつもなら寝ている悟浄を起こして遊べ構えと煩いのに、今日はそれがない。
最初から悟浄の体調不良をある程度見越しているようだった。

時折構って欲しそうな視線を感じるものの、悟浄はそれに応えない。
今それに応えたら明日は絶対死んでる、という確信があった。



「……ねー、つらい?」



話しかけていたら、いつか返事が返る事を期待しているのだろうか。
悟空はベッド端に座ったままで、間を置きながら同じ事を尋ねてきた。




辛いと言えば、辛いかも知れない。

体温計など使っていないから、自分が今どれだけ熱があるのか、正確には判らなかった。
ただ何もかもが億劫な気分になるぐらいには状態は酷いのだと思う。


繰り返し問う言葉に答えられないからか、悟空は何度も同じ質問を繰り返す。
それに応えてやれず、見えない金瞳ががっかりしていると予想がつくと、余計につらくなった気がした。



起きて、話し相手ぐらいしてやろうか。
頭がまだグラグラしているようだから、話をちゃんと聞けるかは判らないが。

大概自分もこの子供には甘いのだと、悟浄は胸中だけで溜息を吐いた。
そして、それを決して厭う訳ではない自分も、確かに其処に存在する。
頭を撫でられたぐらいで笑う子供が嫌いじゃないという自分が、いる。


子供が此処に来たのは、多分また保護者に置いていかれたからだ。
それだけで寂しい思いをしている子供を、これ以上放っておくのもなんだか気分が悪い。



(…八戒の甘やかしが伝染ったな)



自分の思考回路を取り合えず同居人の所為にした。





だって、自分は子供が嫌いな筈なのだから。
自分勝手で、思い込みが激しくて、すぐに我武者羅になる子供なんて。

嫌いだと、思っている、筈なんだから。






そんじゃ早速────と起き上がろうとして、悟浄は出鼻を挫かれる結果に終わった。
子供が突然立ち上がって、足早に部屋を出て行ってしまったからである。

悟空が突飛な行動を取るのは毎度の事だが、今回はタイミングが悪かった。
折角人が相手をしてやろうと思ったのに、と本人のいない状態で愚痴が零れた。


それにしても、何故突然に部屋を出て行ったりしたのか。



(……なんか、嫌な予感しかしねぇな)



脳裏に過ぎった幾つかの子供の行動パターンに、悟浄は背中に汗をかいた気がした。
それは決して熱によるものではない。

寝た姿勢になっておくのも不安で、上半身だけ起こす。


八戒が帰ってきたのなら良い。
寧ろ、今はそっちを大歓迎したいぐらいだ。

けれど当って欲しくない勘ほどよく当たる。



程無くして戻ってきた悟空の手には、水の張ったタライとタオルがあった。



「あ、起きた」


少し嬉しそうな色を滲ませて、悟空が悟浄を見て言った。

起きたって言うか、ずっと起きてたんだけど。
鈍い悟空に判る筈もないから、悟浄は手を上げて挨拶だけしてやった。



「悟浄、風邪ひいたって? 八戒の手紙に書いてあった」
「おー……ま、ちょっとな」
「ちょっとじゃねえよ。さっき触ったら熱かったぞ」



悟浄の台詞をやせ我慢だと、悟空は拗ねたように悟浄を睨みながら言った。
確かに、最初に眠る前よりも熱は上がっているようだし、これで平気と言うには少し無理がある。

見上げる悟空の瞳は無理をしてくれるな、と言っているようだった。


それよりも、と悟浄の視線は悟空が抱えているタライへと向けられる。
気付いた悟空は、そのタライをサイドテーブルに置いてタオルを浸した。



「……何やってんだ」



お世辞にも手際がいいとは言えない。
畳んでから浸せばいいものを、タオルは解けた状態のままでタライの中で浮かんでいた。

帰ってくる言葉を予想しながら問えば、案の定。





「悟浄の看病すんの!」





やめろ。
即座に出て来そうになった言葉を、悟浄はどうにか飲み込んだ。

言えば甲高い声で何故、どうして、と騒ぎ出すだろう。
熱がある状態でそれは酷く頭に響くだろうし、そんな真似をして自分を苛める趣味はない。
だけれど、このまま黙って子供の好きにさせるのも良い予感はしなかった。


タオルを絞る悟空の表情は活き活きとして、なんとも楽しそうだ。
だから余計にやめろとは言えなかった悟浄だが、過ぎる不安は消えない。
子供のドジや一般常識を知らない事を理解しているから、尚更。


悟空は基本的に、いつも世話をされる側だった。
周りが大人ばかりで世話を焼くような機会がないからだろうし、大人たちが他人に世話を焼かれるのを嫌うからでもある。
子供の悟空が誰かの世話を焼くような機会なんて、今までにも皆無に等しかったと思う。

5年間も三蔵の傍にいるとは言え、その三蔵も他人に手を焼かれるのは酷く嫌う。
多少体調を崩したところで誰にも頼らないだろうし、特に悟空に対してそういう部分は見せないだろう。



……とにかく。
色々と考えてみても、悟空に人の世話がまともにできるか、悟浄は信じられなかった。



しかし、いつでも子供は想像を裏切る。
良い意味でも、悪い意味でも。



「んじゃ、悟浄は寝とく!」
「いや、ちょっと待て……」
「寝るのが一番いいんだろ?」



言って、悟空は悟浄の肩を押す。
確認するようにそう言われたから、悟浄も仕方なく横になった。



「あのな悟空、んな大袈裟なもんじゃねえんだぞ?」
「でも風邪は風邪だろ? 風邪はマンビョーノモトって前に八戒が言ってたぞ」



半分ぐらい理解していないだろうまま、悟空は八戒の受け売りをそのまま口にする。



「そんなに柔じゃねえから平気だよ。それよか、お前に伝染るぞ」
「ヘーキ。オレは風邪ひかないって三蔵が言ってた」



それは遠回しに馬鹿だと言われているのではないか。
しかし生憎悟空に言葉の奥まで汲み取るようなスキルは備わっていない。
だから大丈夫、なんてそれも根拠のない言葉と共に笑う悟空に、悟浄は溜息を吐いた。

これでもしも風邪が悟空に伝染ったら、なんと言われようと今回は自分の所為じゃないと主張しよう。
ちゃんと忠告はしたし、その上で悟空が離れなかったのだから。


悟浄は仕方ない、という表情で目を閉じる。
明日の朝日が拝める事を祈りつつ。



「そーそ。病人は病人らしく!」



そういうつもりで目を閉じたわけではなかったが、訂正するのも面倒臭い。


タオルを絞る音が聞こえて程無く、ひやりと冷たい布が額に当てられた。
てっきりまともに絞らず、水浸しで乗せられるとばかり思っていただけに、少しだけそれに驚く。

固目を開けて子供の様子を見遣ると、楽しそうに見下ろしている金瞳とぶつかった。



「きもちいい?」



部屋に置いてあった椅子をベッド傍まで持ってきて座ると、悟空は小さな声でそう問うた。
いつも騒がしい悟空ばかり見ていただけに、なんだか珍しいものを見たような気分になった。

悟空が大人しい時と言ったら、睡魔と戦っている時ぐらいではなかったか。
他はいつも落ち着かないし、保護者がいれば叱られるから幾らか静かにしている程度だった。
こんな風に騒ぐでも、構えと言うでもなく、ただ悟浄の隣にいるというのは初めてのような気がする。


サイドテーブルの上に置かれたタライの水は、氷も入れてあるのだろうか。
時折はぜる音がして、静かな部屋の中に少しの音色をもたらした。