比翼の連理










「あなたに逢えて良かった」と



いつかあなたに話せる日は来てくれますか






「あなたに愛されて良かった」と



いつかあなたに知ってもらえる日は来てくれますか











“紛い物”の僕でも


































相変わらずの、保護者の不在。
三年経っても未だに慣れる事なく、悟空は三蔵の寝室でただ寝転がって過ごしていた。

時折外に出て裏山まで駆けて行き、其処で夕方まで遊んで過ごすことはあるものの、やはり何かが物足りない。
物足りない何かが何であるかなど考えるより遥かに明白な話で、それを思う度、悟空の表情には翳りが落ちる。
それを誰にも見られる事がないのがせめてもの幸いだろうか、とも思うけれど、それは気休めにもならなかった。


三蔵の寝室から外に出る時は、寝室の窓を使う。
其処が外に出るには一番手っ取り早い方法だし、何より人目につかない。
当然普通は怒られるのだが、その怒る保護者は今いない。

何のために人目を避けているのかと聞かれれば、勿論の事、この慶雲院の修行僧達の目だ。
三蔵不在の折にあれらと遭遇して碌な事のあった試しはない。
逃げているようで聊か気に入らないのも本音だが、この状態で何事か揉め事を起こせばそれこそ厄介。
責任は監督不行き届きと言う事で全て三蔵に皺寄せし、それは悟空とて望むところではなかった。

もしも遭遇して何もなかったとしても、向けられる陰湿な瞳が変わることはない。
それらに会わずに済むと言うのならば、自ずと選ぶ選択肢は決まってくるものだ。


……寂しさを感じないとは言わないし、きっと言えない。


本当はいつも三蔵と一緒にいたくて、遠出の出張だって無理を言ってついて行く事もあった。
それでも三蔵の方にも都合というものはあって、悟空を連れて行けば出先で揉める事も多い。

悟空が一番望むのは、三蔵に迷惑をかけたくないということ。
普段からあれこれ手を煩わせている自覚はあるから、せめてそれ以上の事に振り回されて欲しくはない。
ただでさえ最高僧という地位にあって忙殺されているのだから、今以上の手間は彼の迷惑以外の何者でもないのだ。

我慢できるのなら、我慢する。
どんなに寂しさに泣きたくなっても。


それに、三蔵の寝室にいる事は赦されているのだ。
悟空にとってこれ以上の優越感という者があろうことか。


平時に三蔵の寝室に入っていいのは、当然此処の部屋の主である彼と、悟空のみ。
後は食事を持ってくる小坊主ぐらいのもので、それだって時間が限られているし、用が済んだらさっさと出て行くのが常。
この部屋は一種の聖域のようなもので、部屋の主に赦された者以外は無断で立ち入ってはいけないのだ。

悟空は、その部屋に入ることを赦されており、そして部屋にずっと在る事を赦されている。
他の誰にも赦さない空間を赦されている、それだけで悟空は嬉しくなるのだ。



だからこの空間の中にいれば、悟空は安心できる。
寂しさは消えないし誤魔化せないけれど、それを包んでくれる温もりが此処にはある。

言葉をくれない金糸の、不器用な優しさが此処には溢れている。





そうして、昨日も一昨日もその前もそのまた前も、悟空は少しの寂しさと香る煙草の匂いに包まれて眠った。
それも今日が最後になる筈、何故なら明日には彼は帰って来てくれるのだ。

早く時間なんて過ぎてしまえ、早く夜になってしまえ、早く月よ昇ってそして西に下りていけばいい。
東の空が次に明るくなるのはいつだろうと時計を見ながら一体何度思った事だろう。
目覚めた時に一人じゃなかったら一番嬉しいのにな、なんて思いながら目を閉じて。


明日はずっと此処にいいよう。
あの人が帰って来るまでずっと。

そして、「おかえり」って。







───────そんな風に、信じてた。











































ノックもなしに扉を開けられて少し眉を顰めた悟空だったが、結局何も言わなかった。
返事をしなくてもやはり部屋の扉は開けられて、食事を運んできた小坊主が入ってくる。

これも保護者が言うからしているだけで、それがなければ三日でも四日でも、最悪一ヶ月でも悟空は放置されるだろう。
文句を言えばそれを実行されかねないので悟空は黙ったまま、小坊主が部屋を出て行くのを待つ。
時刻は午後2時、遅めの昼食に空きっ腹は確かに鳴っているのだが、此処でがっつく気にはならない。
いやしいだの、うすぎたないだの、図々しいだの、そろそろ耳胼胝が出来そうな台詞を言われるからだ。


悟空は入ってきた小坊主をまるで認識していないかのように、じっと窓の外に目をやっていた。
空は何処まで青く晴れ渡り、寺の敷地内でも小鳥のさえずりが聞こえてくる。
こんな日に外で遊べたら最高に気持ちが良さそうだが、今日はずっと部屋の中にいると決めたのだ。

取り合えず、目下思っているのは小坊主が早く部屋を出て行かないかという事。
そうでなければこの遅い昼食にもありつけない。
ついでに言うと、明らかに悟空の存在を鬱陶しいと言わんばかりのオーラが、悟空からすればまた鬱陶しかった。




最初から歩み寄りなど両者の中にはない。


悟空が此処に来てから三年経つというのに、それは未だに変わらなかった。
寧ろ悟空をこの寺院に相応しくないとして三蔵に抗議するものは増えている。

だが三蔵が寺院側の意見に流されることは全くない。
悟空を傍に置くのは拾った者としての義務で、悟空を傍に置いたことで何事か目に見えた不利益はないと言い、
寧ろ行く宛てのない子供を道端に捨て置けと言う方が間違いだと言い返す程。

僧侶たちが声高に喚いているのは、ただの臆病者の遠吠えであると彼ははっきりと口にした事もあった。


最初から排除しか口にしないような連中と無理に歩み寄るような必要はない、と彼は悟空にも言った。
だから悟空は、この寺の僧侶達に何を言われようと、例え暴行を振るわれようと一貫して無視するようになった。

三蔵が傍にいてもいいと言ってくれた、それだけがあれば悟空は十分なのだから。



だけれど、そろそろ三蔵の顔が見たい。


止むを得ない仕事の都合で離れてしまってから、今日で丁度一週間。
そろそろ色んな忍耐も切れてしまいそうで、悟空は溜息を吐いて広い空を見上げた。




と、その時、不意に後ろで物音がした。
着物の衣擦れの音でそれが小坊主だと知っても、悟空は振り返らなかった。
どうせ直ぐに部屋を立ち去るのだから、と。

────……けれども、予想に反してそれ以上の音はなく、出て行く為の足音もない。
流石に不思議に思って、悟空は頬杖していた手を離し、そろそろと後ろを窺った。


窺い見た先にあったのは、こちらに背中を向け、食事を置いたテーブルの横で立ち尽くしている小坊主。
その小坊主の名が何であるか、どんな顔をしているかなど、悟空には判らない。

ただなんとなく、本能的な部分であったと言って良いだろう。
あまり良い予感がしなくて、悟空は部屋の外に出てしまおうと思った。
今日はずっとこの部屋で彼を待っていたかったのだけれど、このまま居心地が悪くなるのも嫌だ。



そうして躊躇いもなく、窓の桟に体重を乗せた手を乗せた時だった。
不意に頭部から後方へと強い力で引っ張られ、受身を取る間もなく悟空は背中から床に落ちた。



「────っ………」



瞬間、不能になった呼吸器官と、それから鈍い痛みを訴える背中。
俄かに何が起きたのかと思った悟空が顔を顰め、頭を持ち上げると、見下ろす小坊主の無表情な顔があった。

それから、はらりと後ろ髪が揺れたのを感じて、坊主の足元に髪結に使っている紐を見つけた。
先ほど頭部を後方に退かれたのは、長い後ろ髪を引っ張られた所為だった。
拍子に結紐が解けるなんて、どれだけ乱雑に扱ってくれるというのか。


ぬっと伸ばされた坊主の手に薄ら寒いものを感じて、悟空は跳ね起きた。
勢いを殺さずに床を蹴ると、窓は諦めて部屋の出入り口へと駆ける。

しかし。



「逃げるぞ!!」



小坊主がそう叫ぶや否や、出入り口の扉の方が先に開いた。
其処から入ってきた僧侶の数は一人や二人ではない、幾らなんでもやり過ぎではないかと思うほど。

咄嗟に身を翻した悟空だったが、窓には先ほどの坊主が立っている。
それを飛び越えるために助走するには距離がないし、横をすり抜けようとすれば間違いなく捕まる。
強行すれば可能であろうが、そうして後々文句を言われるのは保護者だ。


一瞬鈍った出足を見逃してくれるほど、相手は優しくない。
否、元より彼らが悟空に対してそんな刹那を見せてくれる筈もないのだ。



「──────痛ぁっ!」



最初に掴まれたのは、やはり身体よりも一歩遅れた位置で踊る長い髪。
鍛えようのない其処を捻じ切るように掴んで引っ張られれば、当然声も上がる。

どうにかそれを振り払おうと身体を捻れば、次に肩を掴まれる。
悟空にしてみれば大した力ではないそれを振り払うのは簡単で、肩越しに振り返った。
相手に怪我をさせれば三蔵が非難の的になるのは判っているけれど、此処までやられたら正当防衛が成り立つものだ。
悟空の頭に其処までの考えはなく、単に我慢の限界に達しただけだったのだが。


けれども、振り返った直後、悟空は確かに恐怖というものを感じた。







手。

手。

手。


手。



手!!







ただ捕らえる為だけに伸ばされる無数の手。
それは拾われたばかりの頃、絶対に寺の奴らに見つかるなと言い含められて、それを破った時に見たものと同じ。



あの時は夜になれば来てくれる筈の三蔵が一向に来てくれなくて、寂しくなって、
それを埋め合わせるように食べ物を探して、寺院の中を歩き回っていた。
何か胃に入れれば落ち着くんじゃないかと思って、とにかくなんでもいいから埋められるものを探していた。

それまで見つかっていなかったからという油断もあって、明るい光に照らされた時は心底肝が冷えた。
向けられる言葉に言い訳しようとして、それよりも先に浮かんできたのは三蔵に言い含められていた事。


言い付けを破ったこと、真っ暗なのが嫌だったこと、このままだと三蔵に迷惑をかけてしまうということ。
言葉で逃げるなんて出来なかったから、ただ逃げるしか頭の中に浮かぶ選択肢はなかった。

あの時も、駆ける背中に伸ばされていたものがなんだったのか、悟空は忘れていない。



そう。
手。


手。
手。
手。

手。



手!!



沢山の、無数の、伸ばされる手。

掴まったらどうなるのか、あの時は考えていなかった。
ただただ怖くて、ただ嫌で、叫んだ事だけしか今になっても悟空は思い出せずにいる。
あの沢山の手に掴まったような記憶もなくて、朧に覚えているのは“寂しかった”ということだけ。



今少し、あの時よりも冷静な部分を持っている自分の頭が憎らしい。



この手に捕まったら。
この手に浚われたら。

自分は何処へ連れて行かれる?


この沢山の手に捕まったら。
この無数の手に浚われたら。

目覚めた時に其処には一体何がある?





フラッシュバックのように蘇ったいつかと酷似した光景に、悟空の思考回路は一気に正常な機能を止めた。
ただ本能がこのままではいけない、このままでは……とだけ信号を送っている。

掴まれた髪は根こそぎ抜けるんじゃないかと思うほど、強く引っ張られて。
肩を掴んだ手の力は強く、悟空の身体を無理矢理反転させる。
そうするの悟空の視界に入るのは終ぞ無数の手だけになり、悟空は遮二無二暴れ出した。



「やだっ! やだ、離せ────ッ!!!」
「ちっ……暴れるんじゃねぇよ、妖怪の分際で!」
「離せよ、離せぇっ! やだ、さんぞーっ!!」



力の加減のことなどまるで忘れて暴れる悟空の身体を、10本近い大人の腕が押さえ付け、床に落とした。
拍子に頭部を打ったがその痛みなど今の悟空にとっては蚊ほどのもので、それよりも眼前の光景が恐ろしかった。



「三蔵、三蔵、三蔵っ! やだぁああぁっ!!」



ただ一つの名前を呼び求めて暴れる悟空に、僧侶達は苦々しい顔をするだけ。
押さえ付ける腕の力は強くなるばかりで、悟空は最早自由なのは口だけだ。

けれど、悟空が幾ら叫んだところで、この寺院内で悟空を助けようと言う心を持つ者は殆どいない。
いたとして、この狂気沙汰にも似た光景の中に乱入できる者はいなかっただろう。
─────ただ一人、最高僧の青年を除いては。


悟空を見下ろす僧侶達の目は濁った色に光り、それが一層悟空の恐怖心を煽る。
見上げた先のそれに顔を強張らせた悟空に、僧侶達の表情は愉悦に歪んだ。



「そうだ、大人しくしてろよ……」
「こっちが痛い思いなんて御免だからな」



勝手すぎる言葉に、今は返す言葉も浮かばない。

悟空の喉は引き攣ったように音を発す事無く、瞠目したままの瞳はふとすれば零れ落ちそうなほど。
金縛りにあったかの如く固まった悟空に、僧侶達は面白そうに笑ってまた手を伸ばす。


伸ばされた手に悟空の体が震えれば、僧侶は今度は声に出して笑う。



「なんだ、怖いのか? 妖怪風情が」



笑いながら伸ばされた手は、悟空の額の金鈷に当てられた。

それが妖力制御装置であると、知らない訳ではないだろう。
悟空も三蔵からこれがどれだけ重要な役割を持っているか、重々聞かされている。
難しいことはまだよく判らなかったけれど、これを外した先にあるのが、どんな形であれ“別離”になりかねないと。
だから悟空は自分で外した事などなければ、三蔵もこれに触れることは滅多になかった。


これがなくなった先にあるのは、“別離”。
それは悟空が最も恐れるもので。

だけれど、目の前の男達には悟空の事情など何も関係ないのだ。



「これでその形を装ってるんだろう?」


ゆっくりと、金鈷がずらされていくのが判る。
一つの戒めでもある役目を持つそれが緩めば、少しずつ浮かんでくるのは言葉に出来ない渦巻く感情。


「これを取れば真実の姿が出てくるって訳だ……強暴な妖怪の本性がな」


嫌だという言葉すら、もう出て来てくれなかった。
目の前の者達の使う言の葉さえ理解できず、まるで言語中枢がいかれてしまったよう。

ただただ溢れてくるのは言葉にならない程の感情で、それは悟空の意志を無視して流れ出ていく。


これ以上それに飲まれたくなくて、嫌だ、と言ったのさえまともな音になっていないと、自分で判らない。



「如何に慈悲深い三蔵様と言えど、お前がどれだけ強暴なのか改めて目の前にすれば……」






一番目に浮かんできたのは、酷く深い色をした悲哀だった。
二番目に浮かんできたのは、酷く激しい色をした憤怒だった。
三番目に浮かんできたのは、酷く揺れる色をした慟哭だった。


その合間に見えるのは、手、手、手、手──────手!!
その向こうに見えるのは、濁って澱んだ目、目、目、目─────目!!

それに対する恐怖など何処かに消えて、ただ、ただ、その後は。














泣き叫んだ 小さな子供 の  聲      が