比翼の連理





一歩敷居を跨いだ途端に、大気がざわめくのを感じた。
尋常ではない空気を感じ取ったのは三蔵だけではなく、迎えに出ていた僧侶たちも狼狽している。
三蔵だけはそうなることなく、瞬間、弾かれたように広がっていた蒼天を仰いだ。

けれども、見上げた先につい一瞬前まであった筈の蒼い空は欠片もなかった。
あるのは酷く暗く重い色を帯びた分厚い雲で、それに気を取られていると地鳴りが起き三蔵はバランスを崩した。


予告のない大きな地鳴りに何事かと僧侶たちが喚き出す。
喚くばかりで動く様子のないそれらを一瞥すらせず、三蔵は地を蹴った。

ざわめく大気の渦の中、同時に大きな気の力が流れている。
寺に不似合いと言える程のその強大なそれの正体が何であるかなど、考えるのも莫迦らしい。
此れに対する答えの数など一つしかなく、それが判らないほど鈍くはなかった。


呼び止める僧侶たちの声など鼓膜に届くことはない。
それよりも煩い聲が三蔵の頭に直接響いてきて、それは大気のざわつきよりも地鳴りよりも事態を克明に伝えてくる。
抜けるように蒼かった空はあっという間に暗闇に閉ざされて、その意味も考えるより早く答えが見つかった。






────誰がやった。


そんな言葉が過ぎる。
その明確な答えなど、半ばどうでもいい思いと共に。

下らない自問自答よりも、今はただ腸が煮えくり返る。
最初の夜にあれだけの騒ぎが起きたと言うのに、誰がなんの意図を持ってその愚を繰り返そうとしたのか。
やはり此処にいるのは己の保身しか頭にない屑ばかりなのだと、吐き捨てるように胸中で呟いた。


この事態を自ら引き起こした連中は、きっと騒動が収まった時、図太い顔をして己の前に現れるのだろう。
声高に何度となく喚いた言葉を吐き、何も己らに責任はないのだと図々しい態度を取るのだ。
あまりにも矮小なその連中の顔も判らぬ今から、反吐が出る気がした。

そうして騒動の原因として全ての罪を押し付けられるのが誰であるのか。
傍目には保護している三蔵の監督不行き届きと見られるものだが、それも精々、遠目に見ての話。


その所為で誰がどんな顔をして泣くのかさえ、矮小なその連中にはまるで判らぬ事なのだろう。






然程の距離ではない距離を走れば、渦巻く中心に近付いていくのだと判る。


まるで噴出した火山のように溢れ出す強い気は、この僅かな時間で寺院全体を覆いつくしていた。
時折窓の外で閃く雷鳴は、まるで非難の声を揃って上げている様で、けれどそれが何に対してなのかは判らなかった。
愚かなことを仕出かした矮小な連中に対してか、それとも一時とはいえ手を離していた三蔵に対してなのか。
世界が丸ごと憤怒に揺れているようで、大地の地鳴りも空の唸りもその所為だと言われたら納得がいく気がする。

返せと、守らぬのなら返せと、あちこちから声が聞こえるような気がする。
地鳴りの音も、風の音も、稲光も、何もかもが全て憤怒に震えているようで。

だけれどそれのどれにも応じるつもりはなかった。
そもそも、返せと言うその対象すら、きっとそれに応じることはないだろうと三蔵は思う。
何故なら、あれはあれの意志で此処にいる事を望み選び取ったのだから。


だから、ふざけた連中の言う事など何一つ聞くつもりはない。
矮小な連中の喚き声も、返せと叫ぶ世界の声も。



だから、迷う事無く扉を開けた。



そうして最初に見たのが変わり果てていてもあの子供であったなら、少しは気も落ち着いたかもしれない。
けれど紫闇に先に映ったのは吹き飛んできた坊主の背中で、三蔵は顔を顰めてそれをひらりと避けた。
飛んできたそれは廊下の壁に激突してずるりと床に落ちた。

ああこいつか、と冷め切った瞳でそれを見下ろしていると、痛みに顔を歪めながら坊主が顔を上げた。
其処に最高僧の姿を見つけると、驚愕と畏怖とに顔を強張らせた。



「なんの騒ぎだ」



聞かずとも判っていながら、敢えて問う。
感情の篭っていないその言葉と見下ろす冷たい瞳に、僧侶は引き攣ったような声を上げた。


そう、そうして一度喋って自分で認識すればいい。
己がどれだけの愚考をしたのか、それによって何が起きているのか。

口で言って判らないのなら、己のその身で判らせる以外に何がある。


だが僧侶はあ、う、とまともな意味を持たない言葉を並べるばかりだ。
いつまでもそれに付き合うほど三蔵の気は長くないし、坊主の顔を見ていたくもなかった。
一つ射殺せると思うほどに睨みつけると、坊主に背中を向け、改めて己の寝室へと目を向ける。

そうしてようやく見る事が出来たのは、凄惨と言う言葉が何より相応しい景色。
殺風景な白い部屋の壁に飛び散った赤い顔料よりも濃いそれが、嫌に映えて見えた。







その真ん中に立つ、子供。

幼い小さな手を紅に染めた、子供。


うつろな目を した  泣く    こど も。





顔は笑っている、けれど。
何よりもはっきり伝わってくるのは、小さな子供の泣く聲だった。

いつも結ってやっていた後ろ髪は解けて、渦巻く大気の上昇気流に乗せられたようにゆらゆらと揺れている。
無邪気に笑って駆け寄ってきた子供の面影は、外身の姿形程度しか残されてはいない。
酷似したけれども確かに違う気配と纏う色が望んでいるのは、今この場にいるモノ全ての破壊のみ。


子供を部屋の中心に置いて、辺りは白と紅の二色。
転がっているのは数人の僧侶で、それらは骸であるか否か判らず、またそれもどうでも良かった。
三蔵の目は真っ直ぐに子供のみ向けられていて、それ以外のものは無機物でも有機物でも不要なものだった。

けれども、周りの方は三蔵の登場を放っておかない。
壁に寄りかかって血塗れになっていた僧侶の一人が、三蔵に手を伸ばす。



「三蔵…様……ご、慈悲、を……」



伸ばした手も血塗れになっていて、それは恐らく僧侶自身の流した血だろう。
幸いと言うべきか、その僧侶は脇腹を抉られて深手ではあるが致命傷ではないらしかった。
…痛みと恐怖に苛まれても生きるそれを幸いと呼ぶべきかは、定かではないが。

僧侶の言う慈悲が、救いが、何をもってしてのものなのかなど知ったところではない。
その痛みも恐怖も、三蔵からしてみれば自業自得の結果だったから。


ただ。
その手を伸ばす僧侶の顔を、三蔵は頭に刻み込んだ。

犯した愚の罰がこの程度で済むと思ったら大間違いなのだから。



また視線を真ん中で立ち尽くす子供へと向けた。

子供は口端を上げ、新しい玩具を見つけた子供のように笑っている。
それに一瞬ぞくりとしたものを覚えても、誰も咎めるものなどいないだろう。


ヒュ、と風が走り抜けたと同時に、目の前に小さな子供の顔があった。
其処にいつも見ていた無邪気な笑顔はない。
否、無邪気と言えば確かにこれも無邪気、何故なら今此処に罪悪感と言う言葉ほど似合わぬものはないのだから。

下手に受ければ骨が折れる、三蔵は屈んで子供の突進を避けると、懐に仕舞っていた銃を取り出した。
少なくとも生身の人間よりかは頑丈な鋼作りのそれで、背後から続いた拳を受け止めた。


まさか受け止められるとは思っていなかったのだろう。
子供は一瞬驚いたような顔を見せた後、またにぃと笑った。



そうだ。
面白いだろう。

簡単に壊れる古びた玩具なんかより、よっぽど。


多少の無茶をしたって壊れない新しい玩具の方が、ずっと壊し甲斐があるだろう。



小柄な身体は風のように疾く、三蔵も目で追うのが精一杯だった。
それでも、押さえつけてしまえば体躯の差で三蔵の勝ちになる。

悟空の力は確かに幼い子供とは思えぬほどに強いが、けれども体躯の差に勝つことは出来なかった。
以前も同じように戒めから解き放たれてしまった子供を、力任せに床に押さえつけた事がある。
その時も抗いをしなかった訳ではなかったけれど、まだ幼い子供はそれ以上暴れることを赦されなかった。

────だから、腕の中に閉じ込めてしまえば。


遠くで雷鳴が閃くと、まるでそれに感電したかのように子供は笑った。
三蔵は変わらぬ無表情でそれを見て、畏怖に戦慄いたのは周りで幸か不幸かまだ生きていた者達の方。



「ヒ……!」
「や、やはり妖怪は妖怪だ! 子供の形をしていても!!」
「三蔵様! このままでは、このままでは我らの命が危のうございます!!」
「このような化け物は、今直ぐに────ヒィッ!」



喚き出した僧侶をギロリと睨み付けたのは、三蔵だった。

全く、相変わらず喚く元気だけはあるらしい。
その舌を根こそぎ抜いて、其処に弾丸を埋め込んでやろうかと一体何度思っただろう。
今この手にある銃の方向を、奴らに向けてやろうか。



「煩い、黙れ。てめぇらを先に殺すぞ」
「さ……三蔵、様……!?」
「どうせ貴様らが招いた事だろうが」



違う、と言おうとした僧侶の声は音にならずに消えた。
風の音がした直後に僧侶の目の前に立っていた子供の存在によって。

煩い喚くだけのそれが、子供にとっても耳障りだったのだろう。
別に、そのまま放っておいて僧侶がどうなろうが三蔵の知ったことではない。
ない、けれど。


……泣き叫ぶ子供の聲が止まないのだから、仕方がなくて。



「お前もいい加減にしやがれ、バカ猿が」



銃口を向ければその気配を感じたのか、ゆっくりとした動作で子供が振り返る。
獲物を見つけた猫のように吊り上がった眦は、今度こそ真っ直ぐに三蔵へと向けられた。



「簡単に外されてんじゃねえよ。警戒心を持てってんだ」



半ば呆れたような口調で呟く言葉を、子供が理解しているのかどうか、甚だ怪しい。
それでも子供の意識をこちらに向けさせるには十分だったらしい。


子供が床を蹴ったのと同時に、三蔵は後方に一歩下がった。
次の瞬間には子供の爪が先ほどまで三蔵が立っていた場所を引き裂いて、遅れた法衣の裾が僅かに破れた。
獲物を取り逃した子供は、片手を床について体重を支えると、三蔵の横腹目掛けて蹴りを放つ。
それも一歩下がって避けると、空振りして勢いを失った子供の足を掴んだ。

軽い子供の身体は、三蔵の片腕一本でも持ち上げられる。
ぐっと上へと引き上げれば、体重を支えていた子供の手が床から僅かに浮いた。


が、其処で子供の負けは決まったわけではない。
宙ぶらりんのままの姿勢から、子供は反動なしで上半身を持ち上げた。
同時に下から振り上げられた爪が三蔵の肩を掠める。



「───っの、バカが!!」



銃を持っていた方の肘で、子供の腹を突いた。
すると意趣返しとばかりに子供は自由な方の足を使い、それは三蔵の心臓付近を蹴り上げた。

子供の足を掴んでいた手の力が緩めば、当然子供は機を逃さずに拘束から逃れた。
加減のない一発を喰らった三蔵は痛みに顔を歪めるものの、視線は子供から外されない。



「飼い主に逆らってんじゃねぇよ……!」



苦々しく呟いた言葉にも、子供は笑って見せるだけ。

きっと今、子供の中に渦巻いているのは、“楽しい”ということ。
だけれど、こっちは子供のそんな遊戯に付き合うつもりなどまるでないのだ。


ただでさえ下らない仕事で疲れていたというのに、帰って早々こんな騒動。
これなら連れていけと言う言葉を聞いてやった方が良かったか。

……考えたところで、意味はない。



もう一度突進してきた子供の瞳に、理性はない。
ただ目の前の、他より少し頑丈な玩具を壊そうとしているだけで、其処に感情は必要ないから。


振り下ろされた爪が三蔵の頬を掠め、血が滲む。
薙ぎ払うように繰り出された蹴りを避けきれずに、脇腹に浅いげ一撃を喰らった。

三年前のあの夜よりも、格段に動きが早い。
それが子供の成長の為なのかどうかは判らないけれど、厄介である事に間違いはない。
下手な一撃を直接貰ってしまえば、三蔵とて無事ではすまないだろう。
最悪、転がる骸の一つになってしまう。



「────ふざけんな……!!」


過ぎった最悪の可能性に、三蔵は悪態を吐いて捨てた。


誰が死んでやるか。
誰が逝ってやるか。

誰が残してなんていってやるか。



最初に手を伸ばしたのは三蔵で、その手を取ったのは子供だ。
傍にいたいと望んだのは子供で、それを承諾したのは三蔵だ。






ひとりは やだ と言ったから


置いていかない と 約束 したから





鋭い爪を、今度は避けなかった。
幼い手が三蔵の肩を貫いて、そのまま引き抜こうとしたのを、掴んで妨げる。








「────────悟空」








肩を貫く腕から、少しだけ力が抜けた。
あれだけ風のように速かった小さな体は、其処にすとんと存在していた。

大地色の髪を撫でて、額に手のひらを押し付ける。
ふわり、と其処に集まった光が少しずつ形を成して、固体を象る。
それが完全な形になるよりも前に、三蔵は肩を貫く幼い腕を強引に引き抜いた。
瞬間、言い難い激痛に襲われるけれど、三蔵は表情一つ変えようとしなかった。


猫のように釣りあがっていた瞳は少しずつ丸みを帯び、瞳孔の開いていた瞳も柔らかさが戻ってくる。
伸びて尖っていた耳も人となんら変わらぬ形へと変わり、爪も同じように丸くなった。

ただ、其処に残った鮮やかな紅だけが変わらないままで。



ぼんやりとした顔で見上げてくる瞳が、其処にはあった。
見慣れた幼い子供の顔が、其処に。

抱き締めれば、幾日振りか知れない馴染んだ温もり。


三年前のあの日も、こうやって。
散々暴れた後に、泣いて泣いて、泣いて。
膝の上に乗ったまま、眠ってしまった子供。



けれど。
小さな手を握れば、しっかりと握り返して。


傍にいて。
離れないで。

置いて行かないで。



言葉にしない代わりの、それは。







閉じる間際の目尻から零れた 雫 は







淋しがり で 泣き虫屋の  子供 の 精一杯の  ─────