形にない贈り物






夜、悟空の部屋の方から小さな音がした事に気付いたのは、悟浄だった。



部屋の並びは、フロアの一番角奥が三蔵。
其処から並んで悟空、悟浄、八戒という並びになっていた。

安宿なだけあって、部屋の壁は薄い。
窓枠も頑丈な作りではない為、少々強い風が吹くとガタガタと煩く、開け閉めすればキィと甲高い軋む音。
そんな風に窓枠がキィ、と鳴る音が、丁度強い風が吹いた時に聞こえて来たのである。

何故そんな些細な音に気付いたかと言ったら、悟浄がまだ寝る姿勢ではなく、煙草を吹かしていたからだ。
多少寒くはあったが喚起の為に少しの隙間を空けていた窓から、その小さな音は滑り込んできた。


オイオイ、と思いながら悟浄は腰掛けていた椅子から立ち上がる。
それから窓辺に歩み寄ると、隙間しか開いていなかった窓を盛大に開け放つ。



「……あ」


見つかった。
そんな顔をした悟空が、隣の窓辺の桟に乗っていた。



「何処行くんだよ、バカ猿」



気付いた以上、見つけた以上は聞いておかねばなるまい。
此処で何も言わずに見逃せば、保護者と保父に間違いなく殺される。

明日の日を拝めないのは、御免だ。


悟空は気付かれるとは思っていなかったのか、それとも単純にバレないように願って早々に打ち破られた所為か。
今直ぐにでも飛び降りようとしていたのだろう窓の桟に乗ったまま、固まっていた。



「………もっかい聞くぞ。何処行くんだ」



かちんこちんに硬直してしまったような悟空に、悟浄は呆れた目をしながら繰り返す。
すると、ようやく悟空は我に返ったらしい。



「え…と……ちょ、そっち、行っていい…?」



ちらりと悟浄がいる部屋とは反対───三蔵の部屋の方を伺って、悟空は言う。
どうやら、向こう側に対してだけは(一応)細心の注意を払っているつもりだったらしい。

小猿の事となると本人以上に敏感な彼が、子供の無断外出に気付いていないかは、定かではないが。


どーぞ、と悟浄が窓を開けたまま体を下がらせれば、悟空は壁の僅かな出っ張りに足を引っ掛けて辿ってくる。
その身軽さはやはり猿だな、とこの場に関係ないことを悟浄は考えた。



「よっ…と」
「ほい、ご苦労さん。で?」



見つかった時点で言い訳もせず、逃げもしなかった悟空。
それは理由を話す意思があると見て間違いないだろう、と悟浄は勝手に推測した。

そして、それは外れてはいない。



「ちょっと、ね……あの…怒んない……?」



上目遣いに問う悟空に、つまりバレたら怒られそうな事をしようとしてたのか、と胸中で呟いた。

返事をせずに黙っていれば、それをどう受け取ったのだろうか。
悟浄だったらいいかな、と言うのが僅かに聞こえた。



「あんね」
「おう」
「……ちょっとだけ、ね…外行こうと思って」



言葉尻が段々萎んでいくので、それが言い付けを破る行為であるとは判っていたようだ。
あれだけ散々言い聞かされたのだから、それは流石に判るし、後ろめたさもあるらしい。

だが、そんな後ろめたさがあっても街に出ようとした。


悟空の行動には一見なんの法則性もなく、ただ自分が思うまま行動しているように見える。
けれども、幼いながらに行動の一つ一つにはちゃんとした理由があるのだ。
ただそれが周囲にして見れば、行動も理由もなんとも幼稚だと軽視されるだけで。

子供の行動の奥底にあるのは、一途なものだ。
判りたくもないけど判る気がする悟浄は、続きの言葉を促した。



「別にさ、南部にね、行こうってんじゃなくて……」
「おう」
「ちょっと……探したいものってか、あって…」



途切れ途切れに言う悟空にじれったさは感じたが、悟浄は急かさなかった。
時折見上げる金瞳は「怒らないで」と言っているようで、それが余計に急かす気を削ぐ。

悟空の文章といったら中々要領を得ない。
こういう時に適している相手は八戒なのだろうが、彼であれば最初の一言を告げた時点で「駄目です」と来るだろう。
適材適所と言う言葉が通じない今、悟浄が心を広く持ってやるしかない。

その甲斐あって、悟空はどうにか不慣れな説明を自分からする姿勢になっていた。



「昼間にもさ、逝こうと思ったんだけど。悟浄と八戒、買い物は二人でいいって言ったし…」
「三蔵と一緒に行きゃ良かったじゃねえか」
「……三蔵、人ごみ嫌いじゃん……」



悟空の言葉に、確かに、と悟浄は思った。


昼間に買出しに連れて行かれた時、通りは行き交う人で溢れかえっていた。
数歩歩けば直ぐに知らぬ誰かに肩がぶつかり、連れとはすぐに逸れそうになる。

接触どころか接近も嫌う三蔵が、自身になんの理由もなしにそんな街の中を歩こうと思う訳がない。



「一人で外出るなって、皆言うし」



その上で昼間とは言え一人で外に出れば、即三蔵に見つかるのは間違いない。



「で、夜にこっそり行こうってか」
「……うん」



あれだけ散々言い含められて、それでも行こうとするなんて。
これは悟空にしては珍しいことではないだろうか。

大体外出なんて今日に限らず、明日になってからだって出来るのだ。
買い物は一通り済ませてきたから、明日になれば八戒なり悟浄なりを連れてあちこち見回る事が出来る筈。
何をそんなに急いているのか。



「まだ通りの店、一杯開いてるみたいだし」



そう言って窓辺に目を向けた悟空に倣うように、悟浄も窓の外へと目を向ける。

宿の直ぐ傍を通る道もそうだが、並ぶ軒並みの向こうにある一つ大きな通り。
悟空の言葉の通り、それらはまだまだ明かりが消える様子はなかった。
時刻は既に日付変更間近だったが、なんとも商売熱心な街だ。


けれども、悟浄はあまり感心しなかった。




「……あのな、猿」



呼べば、悟空がまた悟浄を見上げる。



「あいつらみたいに口煩く言う気はねぇけど、夜にお前が外に出るのは止めた方がいいと思うぜ」



こんな時間になっても商売している店が真っ当な店だとは、とてもじゃないが思えなかった。
歓楽街として反映しているのが街の南部だとは言え、北部にもそういう場所がない訳ではない。
軒先に並ぶ店の佇まいが、昼間に見ているものと一変しているものだって少なくはないだろう。

悟空が興味を示していた動物達の芸を見せる見世物小屋も、きっと装いは変わっている。
悟空が思っているほどに、この街の治安が良いとは、お世辞にも言えないのだ。


悟浄の言葉になんで、と言い出す前に其処まで口早に告げる。
すると段々悟空の眉尻は下がって、最終的には肩を落とす仔犬のような子供が其処にいた。



「あいつらが散々止めた理由が判っただろ? だから、今日はもう寝てろよ」
「……でも」
「明日になったら市でも見世物小屋でも連れてってやるよ」



くしゃくしゃと大地色の髪を撫ぜる。
しかし、悟空の表情が晴れる事はなかった。



「────……おい?」



いつも撫でてやれば笑顔になるのに、今日に限ってそれがない。
俯いた悟空の顔を覗き込むと、昼間も同じように見た顔があった。

何処で見たのか、と思い出そうとして、それはすぐに浮かび上がった。
八戒と三蔵に散々外に出るなと言い含められて、宿の中で大人しくしていろと言われた時。
つまらなそうに窓辺に立ち尽くし、賑わう市場を見下ろしていた時のもの。


そんなに市場に行きたいのか。
そんなに今直ぐ見たいものがあるのか。



ひょっとして、他に理由があるのだろうか。



そう思って悟浄がもう一度悟空に問いかけようとした直前に、部屋に設置された時計が音を鳴らした。

日付を跨いだことを教える、12回の鐘の音。
それがなり始めた途端、俯いていた悟空が勢いよく顔を上げた。



「ヤバッ!」
「あ? 何が……って、ちょっと待てコラ!!」



悟浄を押し退けて窓辺から飛び出ようとする悟空を、悟浄は襟首を掴んで引き戻した。



「お前、俺の話聞いてたか!?」
「聞いてたよ! でも行くの!」



咄嗟の事で力一杯引っ張られた悟空は首の痛みを訴えつつも、行くんだと言い切る。
ばたばたと暴れ出した悟空を、悟浄は羽交い絞めにして押さえた。



「あのなぁ、夜の街ってのは何処でも昼間より治安が悪いんだよ。ガキが行くとこじゃねえの!」
「ガキじゃない! 良いから離せよ、間に合わなくなるじゃん!」
「間に合わないって何がだよ!」



市場は明日も続いているし、見世物小屋だって明日もきっとやっている。
今日──もう昨日か──見つけたものがなくても、別の何かがあるだろう。

けれど、悟空は今直ぐじゃないと駄目なんだと言う。
朝を待てと言っても、それから行ってもきっと間に合わない、と。
今から行って探さなきゃいけないんだと。


けれど、何度言われたって悟浄は悟空を離そうとしない。
力一杯暴れられて確かに辛くもあるのだが、此処で手放せば間違いなく朝一番に殺される。
否、それよりもこの騒ぎを聞きつけた隣室の保父が何を言いに来るか。

頼むから俺の身の安全ってものも考えてくれ、と悟浄は切実に願う。
何せあの保護者と保父の機嫌を左右するのは、いつだってこの小猿で、そのとばっちりを受けるのは自分なのだから。



が、やっぱり子供は一つの事しか考えられなくて。


そんな目の前の子供が考える事と言ったら。







「だって今日、三蔵の誕生日─────………」







そんな事しか、ない訳で。




口走った直後、悟空ははっとしたように硬直した。

ようやく暴れなくなった子供に息を吐きつつ、悟浄は悟空を解放してやる。
拘束がなくなったと言うのに、悟空はやはり固まっていた。


前に回って顔を見てみれば、思ったとおり、耳まで赤くなった子供の顔。
いや、耳とか言う前に首から見事な紅い実になってしまっている。

ついでに部屋に飾られているカレンダーを見遣れば、月は既に霜月間際。
昼間ジープの上で悟空が指折りにしていた数を数えれば、行き着く数字は“29”。
そう言えば、そんな日もあったんだな、と悟浄はようやく今日と言う日がなんだったのかを思い出した。




不機嫌な最高僧の誕生日。


当人にして見れば誕生日なんてなんでもない事なのだろうが、悟空にとっては違う。
大好きな人がこの世に生を受けたことを、悟空はいつだって本人以上に喜んでいた。
悟浄や八戒の誕生日まで祝ってくれて、それまであまり好きではなかったその日のことを、
“嫌いじゃない”と思うようになる切っ掛けをくれたのは悟空だったと、悟浄は今でも覚えている。

そんな悟空にとって何より大好きで大切な三蔵が、この世に生を受けた日。
昔は拾われ子であった三蔵だから、正確な誕生日は判らないけれど。
それでも、師に拾われた日であるとして誕生日と定められたその日を悟空が喜ぶのは当然だった。


今日と言う日に、三蔵が師に拾われていなければ。
9年前の春のあの日も、なかったかも知れない。



だから大好きな人の誕生日を、悟空はどうしても祝いたかった。




いいねぇ、愛されてて。
此処にいない最高僧に向けてそんな事を胸中で呟いて見る。

此処まで一途なのも本当に珍しい。
夜中に言い付けを破ろうとした事は確かに感心しないが、其処までして祝おうとしているなんて、早々ないんじゃないか。
其処までして、“おめでとう”を形にして渡したいというのだから。



「……なーる」



納得した。
心底、納得した。

本当に。


真っ赤になって固まったままの悟空の頭を撫でながら、悟浄はそーかそーかと頷く。



「だからそんなに必死だった訳か……」



昼間、ジープでの走行中に今日中に街に着けるかと聞いたり。
街について妙にそわそわしていると思ったら、そんな理由。

あちこち見回って目を輝かせていたのは、確かに自分の興味を惹くものがあったというのも理由の一つだろう。
それから、これだけ沢山の物が売られているのなら、物欲のない彼が喜びそうなものもあるんじゃないかと。



「あ、いや…あの…えっと……」
「なーんか当てられた気分だぜ」
「あう……」



悟浄の台詞に、悟空は真っ赤になったままで俯いた。


幾ら市場が立っているとは言え、夜が明けてから探したのでは、中々いい品は見つけられないかも知れない。
何せ贈る相手があの三蔵なのだから、彼が喜びそうなものなんて滅多にない。
上等の酒なんて悟空の手が届く訳もなく、煙草の買い置きは今日の買出しの間に済ませてしまった。

出来れば今日のうちに目星だけでも付けておきたかった。
だから悟浄と八戒が昼間に買出しに行こうとした時、やたらと一緒に行きたがったのだ。



「………ごめ、ん………」



赤い顔で、小さな声で謝る悟空。
いや、何も謝るようなことなど何もないのだけれど。

しゅんと落ち込んでいる悟空は、このまま解放すればもう自分の部屋に戻って眠るだろう。
そうして明日の朝になって見るのが、子供の落ち込んだ顔だと思うと少し胸が痛む気がした。
…かと言って外に出してやっても恐らくバレるし、その後の悲惨なことと言ったら。


黙り込んだ悟浄を、ちらりと悟空が見上げてきた。
叱られたばかりの子供のようなその顔に、弱いのは何も保父だけではなくて。

────結局、悟浄も弱い訳で。



「………っあ────、もう!」



がりがりと頭を掻いて吐き出した声に、悟空がびくっと肩を震わせた。
それに構わず悟浄は、くしゃくしゃと悟空の頭を乱暴に掻き撫ぜて、椅子に引っ掛けていた上着を取った。

上着に袖を通していると、悟空がぽかんとしてそれを見ていた。
それに気付いて、同時に悟浄は、悟空がGパンにシャツだけという井出たちだった事に顔を顰めた。
空気は既に冷え切っているというのに、そんな格好で外に出ようとしていたのか。
おまけにあまり良いとは言えない治安の中、こんな格好で送り出したら何が起こるか。


咥えたまま半ば存在を忘れていた煙草は、もう半分にもなっていた。
あまり味わえずにいた事に小さく舌打ちした後、それを灰皿に押し付けて揉み消す。



「……えと…悟浄……?」
「あんだよ」
「……何してんの?」



悟空の問いに答えるよりも先に、悟浄は窓辺に立つ。



「行くんだろ」



窓の向こうでゆらゆらと揺れる、市場の明かり。

一人で行く事にはやはり感心しないが、そういう場に慣れた者が一緒なら。
結局明日に痛い目を見るのは自分だとおもう悟浄だったが、目の前に泣き顔があるよりは、と思ってしまったから。





窓を飛び降りる子供の背中に、せめて夜明けまでには戻れたら、と思う。