flare




「ベコベコに凹んだ猿の扱い切れねえったら」
「ですよねぇ」



少し前に、完膚なきまでに負かされた事があった。
その時唯一動ける程度には傷が浅かった悟浄は、全員の手当てをしてやろうとした。
けれど悟空はそれを拒否し、食事も取らず、子供のように泣き喚くこともしなかった。

今思えば、あの時の態度は自分の中でなんとか折をつけようとした過程のものだったのだろう。
だがあの瞬間まで負けた事がなかった二人は、悟空が自分の強さを幾分自負していた故の悔しさから来たものだと思った。
────それも、全くの的外れではなかったとは思うけれど。


もしも、もしもの話だとして。
あの時、三蔵があそこまで傷を負っていなかったら、心を折られていなかったら。
悟空が立ち直るまであれ程の時間はかからなかったのだろうか。

いつだって悟空の機微に敏感なのは三蔵で、沈み込んだ悟空を連れ戻すのは三蔵の役目だった。
悟浄や八戒だって何もしなかった訳ではないけれど、その都度、二人の絆の深さを突きつけられた気分だ。



「あそこまで三蔵一番! ってぇのも珍しいんじゃねえの?」



寺院にいる間に、最高僧と言う肩書きを持つ三蔵に言い寄る者は少なくなかっただろう。
それでも、なんの邪心もなく三蔵に近付く人間は殆どいなかったのではないか。

そんな中で、擦れることもなく、ただ真っ直ぐに自分を慕う子供の存在は、どれほど三蔵の中でどれほど大きなものだったか。



「────まぁ、悟空ですから」



生来の無邪気さあっての、笑顔。
何を一つ欠けても、きっとそれは失われてしまうのだろう。


だから、余計に悔しくて。
でも仕方がない気がして。

悟空の気持ちが向かう先は最初から決まっていて、誰も其処に割り込むことは出来ない。
いつかの雪の日に二人が交わした約束に───例えそれが果たされぬものであったとしても───、
ああ死さえ彼らを引き離す事は出来ないのだと思えたほどで。



「ちったぁこっちにもチャンスが欲しいもんだけどな」
「それは僕も同感です」



いつの間にか寄せていた好意は、最初から見込みのないものだった。
いっそ清々しいほどの見える結果に、二人で酒を飲み明かした日も数知れず。


想っているから、伝えることも出来ない。
きっと知ってしまったら、あの無邪気で優しい子供に気を遣わせる。
それは、望む事ではなかった。

あの子の笑顔を見ていたいから、きっと何があっても伝えない。
─────だから、せめて。




その笑顔を守りたいと、思う。




くるり、と気付けば随分先方を歩いていた子供が振り返った。
空いてしまった距離と、歩調の遅い悟浄と八戒の様子に一度首をかしげてから、



「悟浄───! 八戒────! 何してんだよ────!!」



これもまた死屍累々の地獄絵図の風景には不釣合いな声だ。
聞こえていることを知らせるように悟浄が手を上げれば、遅い! と文句が飛んで来た。

その子供の隣には、こちらに背中を向けたままの三蔵。
小さな手が保護者の法衣の裾を掴んでいるのが見えて、八戒は肩を竦めた。
言っている傍から、あの子供はたった一人しか求めていないものだから。



「やれやれ……こっちの気も知らねぇで」



年がら年中見せ付けられているようで、悟浄の呟きは半ば恨みがましささえ伺えた。
結局それも、この先ずっと伝えられることはないだろう。



「さ、愚痴はこの辺にして。此処からさっさとおさらばしましょうか」



一面に広がる骸の山に一瞥もくれず、八戒は言う。
まだ幾らか生きている者もいるのだろうが、そんなものは全体の一握りにもならないだろう。

屍の道はそろそろ終わりに差し掛かるところだ。
天辺を越してしまえば、もう後ろを振り返っても屍の道を目にする事はない。
そしてその先で待っているのは、一行待望の街宿だ。


待っていた子供と不機嫌な保護者のもとに追いつけば、また直ぐに歩き出す。
悟空の小さな手はやはり三蔵の法衣の裾を握ったままで、三蔵も振り払おうとはしなかった。
するだけ無駄、というのもあるのだろうが、やはり悟空にだけは甘い男だ。



「なんか、二人ともすっげー遅かったけど、なんの話してたんだ?」



三蔵の隣で置いて行かれまいと早足で歩を進めながら、後ろをついて歩く二人を振り返って悟空は問う。



「小猿ちゃんには内緒。大人になったら教えてやるよ」
「んだよ、ガキ扱いすんな!」
「ガキだろが」
「ガキじゃない!!」



レベルの低い言い合いを始めた二人に対し、三蔵は呆れた目線を向けるだけ。
それから、傍観姿勢の八戒へ一瞥をくれる。

きっとこの男には気付かれているのだと、八戒は思う。
寧ろ気付いていない悟空の方が不思議なのではないかとも思うが。
先刻までの悟浄と八戒の会話の内容は、粗方予想をつけられているだろう。


だから“俺のものだ”なんて目が出来るのだと思う。


誰も奪える訳がない。
奪えば待っているのは望まぬものだけだと、判らないほど鈍くはない。

やっぱり、判っていないのは子供ぐらいだ。



「………貴様ら、煩ぇ。さっさと歩け」



ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人に三蔵が低い声でそれだけを言えば、ぴたっと止まる喧騒。
それまで引っ張り合っていた手を悟浄がぱっと離すと、悟空は拗ねた顔をしながらまた三蔵の隣に収まった。

前を歩く二人の顔は、悟浄達からそれ以上窺い知る事は出来なかった。
しようとするだけ野暮なのだろうとも思う。


互いの隣は、互いだけの場所。
他の誰にも侵食を赦さない。

もしも三蔵以外の誰かが悟空を拾っていたとして、その隣に在るものは違っていただろうか。
仮定はあくまで仮定でしかなく現実には最早なり得ないものだから、それは考えるだけ思考回路の無駄使い。
それでもやはり望んでしまう自分たちは、大概諦めが悪い、と悟浄と八戒は思う。

────だって容易く捨てられる想いなら、こんなにも子供の幸せだけを願ったりはしない。




……まるで、聖域。
何者にも侵される事はなく、何者にも引き裂くことなど出来ない。

永久に在ることがごく当たり前のように互いの存在を捕まえる。




(……バカップル観察もこの辺で終わりにしましょうかね)



本人達の耳に入れば即殺であろうことを八戒は考えていた。
ちらりと悟浄へと目を向ければ、同様の事を考えていた事が判る。


屍の道は既に終わっていて、山の頂上も越えていた。
目線よりもずっと下の方に街の存在を見つけて、ぱっと悟空の纏う空気が明るいものになる。
三蔵を捕まえていた手を離して、待ちきれないとばかりに駆け出した。

けれども、それも少しの距離が出来ると立ち止まってくるりと振り返る。
早く、と急かす様に両手をぶんぶんと振る子供に、悟浄と八戒は苦笑を漏らし、三蔵は溜息を吐く。



「街に着いたら、食堂ですか?」
「宿だ」



八戒の台詞に忌々しげに返した三蔵であったが、恐らく食堂直行になるだろう。
宿屋探しは悟浄と八戒に押し付けて、空腹に鳴く小猿を黙らせる為に。



「三蔵、早くー! 皆遅いぞ、年かよー!!」
「殺すぞ、猿!!」



言ってはならぬ一言を躊躇いもなく口にする悟空。
無邪気とはなんと恐ろしいものか。

ハリセンを手に早足になった三蔵から、持ち前の足でさっさと逃げれば良いものを。
嘘、冗談、と繰り返してその場から動かない悟空に、悟浄は呆れる。
どう言えば三蔵が追いついて来てくれるのか、子供は子供なりに学習しているらしい。


ハリセンの音が盛大に山の中に響いて、何処かで鳥が逃げ出した気がした。



「ってー!! そんな思いっきり叩く事ないじゃんか!」
「だったらこっちで殴ってやろうか……」
「……や、いいです……」



握り締められた保護者の拳骨がどれ程痛いか、熟知しているのは悟空だけだ。
丁重に断わって、悟空はハリセンで叩かれた頭を両手で擦っている。
そしてそのまま、二人は歩き出す。

見事に悟浄と八戒の存在は無視される形になった。
悟空は忘れた訳ではないだろうが、三蔵が咲きに歩き出したものだからそれについて行くのだ。
完全に邪魔者扱いされているようで、八戒が笑顔のままで固まった。



「本当、いっそ清々しい程ですよね」
「……そーね……─────っと?」
「………おや」



ふと感じた気配に悟浄が立ち止まり、続いて八戒も同じく足を止める。
前方では三蔵と悟空も足を止め、そのまた前にはずらりと並んだ妖怪達の軍団。

見るからに柄の悪い連中は、どうやら刺客というよりもこの周辺を根城にしている野党のようだった。
卑下た笑みを浮かべながら手に持つ刃をちらつかせ、こちらを脅そうとしている。
最も、このメンバーにはやるだけ無駄というものだが。


全く、今日はこのまま街に着けるとばかりに思っていたのに。
刺客だけでなく雑魚妖怪にまで喧嘩を吹っ掛けられるとは、よくよく最近の一行の運勢は宜しくないらしい。



「悟空、全部お前が片付けろよ」
「え! なんでだよ!?」
「さっさと街に着きたいんだろうが。文句言わずにやれ」



近付けば聞こえてくる二人の会話。
此処まで唯我独尊な最高僧の何処がいいのだか、未だに悟浄と八戒には謎だ。



「まぁまぁ三蔵、全員で相手をした方が効率はいいですよ」
「俺は面倒はしたくねぇんだよ」
「運動不足で太るぜ〜。そーすっと小猿ちゃんも流石に嫌になるんじゃね?」
「何が?」



きょとんとして返す悟空に、悟浄はなんでもねぇよ、と呟く。
微かな期待を抱くだけ無駄ということだ、例えそれが冗談であるとしても。



「………ってめぇら無視してんじゃねーよ!!」



割り込むように、半ば泣き出しそうな声で怒鳴られた。
顔を向ければ怒りに顔を染め上げた野党妖怪の集団が立っている。

大抵の人間ならば妖怪が現れたというだけで恐怖に慄くだろう。
そうでなくても野党の軍勢が目の前にいるのだから、もう少し警戒を露にしても良さそうなものだ。


だが生憎ながら、その手のリアクションを求められてもこちらが困るだけで。



「だってお前ら弱いもん」



さらりと、無自覚に毒を吐いてくれる無邪気な子供もいて。
周りの大人が誰一人それを否定しないと言うその風景は、彼らにとって酷く自尊心を傷付けられたものだろう。

血管が破裂するのではないかと思うほどに青筋を立てた妖怪達は、最早当初の予定など忘れたのではないか。
追剥紛いの事でもしようとしていたのだろうに、すっかりそれは頭から抜け落ちたらしい。
思い切り自尊心を傷付けてくれた目の前のいけ好かない人間達を殺す為に、牙が覗く。



「ぶっ殺してやらァ!!!」
「へっ、誰がお前らなんかに殺されるかよ!」



飛び掛ってきた妖怪達に一番に突進したのは、やはり悟空だった。
手に掴んだ如意棒で最前列の妖怪達を薙ぎ払うと、横合いから振り下ろされた剣を一歩下がって避ける。
左足を軸にしてぐるりと回転すると、剣を持った妖怪の脇腹に見事にヒットした。

続いた悟浄は錫杖を右下から斜めに振り上げ、手首だけで回転させる。
じゃらじゃらという金属音を立てて踊った鎌は、一行を中心に円形に陣を敷いていた妖怪達を一度で複数切り刻む。



「そんで本当に何もしねぇのかよ、お前らは」



完全に力仕事を悟空と悟浄に押し付けたように、三蔵と八戒は傍観姿勢になっていた。
恨みがましくそんな二人を睨み付けた所で、あまり意味はないのだが。

悟浄は一つ溜息を吐くと、アグレッシブに駆け回る悟空に声をかける。



「おい悟空、俺らだけで片付けろってよ」
「マジで!? 三蔵、マジでオレだけにやらせんの!?」
「河童も働いてんだろうが。お前だけじゃねえよ」



それは見事な屁理屈だ。
悟空はむーっと頬を膨らませると、無謀にも正面から立ち向かってきた妖怪の顎を蹴り上げてから、



「じゃあ街に着いたら先に飯屋な!!」



言うと悟空は、三蔵の返答を待つ事無く次の相手へ意識を向ける。
三蔵は駄目だともなんとも言わなかったから、恐らく悟空の要望は通ったと見て良いだろう。


我武者羅に怒りに任せて襲い掛かってくる妖怪達は、確かに悟空の言葉通り雑魚だった。
この周辺でどれだけ名を馳せていようと、一行にとってはただの邪魔な障害物でしかない。
これなら先ほどの団体ツアーの方が強かったような、なんて気がする程に。

山の頂上を越えればもう屍の道はなかった筈なのに、再び出来上がっていく死屍累々の地獄絵図。
鴨だと勘違いして吹っ掛けてきたのは妖怪達の方だから、三蔵達にすればそれは自業自得の結果でしかないが。



「こ……っっのガキがぁっ!!」
「ガキじゃねぇっ!!」



言われたくない一言のお返しとばかりに、悟空は如意棒で妖怪の腹を突いた。
見事に鳩尾に入れられた衝撃に、妖怪は膝から落ちた。

が、地に伏したと思われた瞬間、妖怪の尖った爪が悟空に向かって伸びた。



「悟空!!」



既に次の妖怪に意識を向けていた悟空は、八戒の呼び声に後ろを振り返る。
同時に前方から振り下ろされる妖怪への対処が、一瞬遅れてしまった。

悟浄が錫杖の鎖で前方の妖怪の腕を絡めたが、それも僅かに遅かった。


横に飛べば避けられる。
けれど一瞬の判断の鈍りが、この日常の中では命取りになる。

判っていながら、悟空はこんな時に限って自分の頭の回転の遅さを恨んだ。
本能のままに横に飛べば良かったものを、どうすべきかと頭で考えてしまったのが間違い。
零コンマ数秒の間の逡巡は、今この瞬間の直後に何を齎すか。







─────けれども、思う程の衝撃はなかった。





右足を貫いた細い爪。
その冷たい痛みに思考回路は一気に現実に返り、悟空は足を引いて強引に爪を抜いた。

皮膚の小さな穴から噴出す血に顔を顰めたが、構わずその爪を持つ妖怪に留めの一発を振り下ろす。
咄嗟の事に力の加減を完全に忘れたその一撃は、妖怪の頭部を地面にめり込ませるほどのもの。


じゃらんと鎖の音がして、それは悟浄の錫杖の音だとすぐに判った。
続いて背後の閃光は八戒のものだと知り、最後に妖怪の断末魔。



……それから。




「突っ立ってねぇで動け、バカ猿」




振り返れば、幼い頃からずっと追いかけてきた見慣れた背中が其処に在る。
その白い法衣の肩口に滲む紅がなんであるのか、考えなくても直ぐに判った。

そうなった原因も、全部。



「……さ、んぞ…!」



引き攣った声で名を呼べば、がくっと三蔵の姿勢が崩れる。
慌ててその体を支えれば、胸元に触れた悟空の手に生温い液体がべっとりと付着する。
その感触にざわりとしたものを覚えて、悟空は頭の隅の何かが壊れるような気がした。



「三蔵、何して……!」



何してんだ、と言おうとして、それは言葉にならなかった。
白衣と金糸に映える紅に、全ての意識を持っていかれて。


庇われたのは、二度目だ。
一度目は一年前の話で、旅もまだまだ始まったばかりの頃だったと言っていい。
今よりもずっとずっと幼くて、外の世界の事も今ほど知らなかった頃。

守りたい、守り抜く、守り抜けると思っていたあの日の事。
降りしきる雨の中で、雷雨に照らされた時に見た、紅に塗れた太陽の姿。









──────守りたいのに、守られて。





そして、また奪われる日が来る。










まるで強迫観念に囚われたように、悟空の正常な思考回路は其処で停止した。