Calystegia soldanella


何処にいたのか、顔には泥土が付着し、服もそれは同じだった。
大地色の尾にもそれが付着しているのを見つけ、三蔵はこっそりと嘆息する。
夜になってあれを洗い落とすのが自分なのだと思うと、面倒で。

悟空はそんな保護者の様子に気付く事無く、じっと三蔵を見上げている。



「いや、まだだ」



だがその期待に満ちた瞳に答えることは出来ないのだ。
事実、三蔵の執務机にはまだ紙束の塔があり、その塔の高さも半端なものではない。
この一週間ずっと缶詰にされ続けたというのに、紙束はまだ解放する気はないらしい。

悟空は不満そうな声をあげたが、執務机の紙束に気付くと、眉尻を下げた。



「……なんだぁ……窓にいるから、もう遊べるって思ったのに…」
「誰がガキなんかと遊ぶか」



素っ気無く言った三蔵に、悟空は小さく頷いた。


悟空は、一緒にいたいと言っているだけだ。
仕事疲れの三蔵を振り回すほどに保護者の大変さが判っていない訳ではない。
それぐらいには、悟空も学習して覚えるだけの時間を此処で過ごしている。

けれども頭と心はどうしても別物だから、理由が判ったからと言って納得できるものではないのだ。
淋しがり屋で煩い子供は、一緒にいられないこの一週間、余計に淋しかったのだから尚の事。



「で、なんだ」
「んー……?」
「腹でも減ったか」



最近は夕飯時まで帰って来なかった悟空だったから、三蔵は戻って来た理由をそうだと思った。
悟空の行動理念はごくごく単純なものだから、自然と行き着く言葉だ。

しかし、悟空は珍しく首を横に振った。



「んーん。腹はへーき、木の実食ってたから」
「……それは食える奴か?」
「多分。今日も前もは腹痛くならなかったし」



悟空にとって、先ず優先されるのは“食べられるか、食べられないか”。
次が“美味いか不味いか”で、その後(もしかしたら、もっと後か)に“毒性などはないか”。

前に食べて平気だったと言うなら、取り合えず今回は咎めないでおくとしよう。
ついでにどの種類の木の実を食べたのか調べておいた方がいいかもしれない。
前回のような面倒を避ける為の作業がまたも面倒で、三蔵は今から頭痛を覚えた。



(野生動物ってのは、自分の食えないものってのは判断できるんじゃねえのか?)



目の前にいるのは小猿のような子供だが、決して小猿ではない。
普段“猿”と呼ぶのは身軽さや騒がしさから、そんな呼び方が出てきただけだ。

だがそれにしたって、この子供は自己への危機管理能力に欠けている。



「次に腹痛起こしても、俺は看てやらねえからな」
「判ってるよ」



ぷぅ、とリスの頬袋のように悟空は頬を膨らませる。

けれども、判っているのだろう。
三蔵が何を言って否定しても、結局は彼が悟空の面倒を見なければならない事を。


この寺院にいる間、悟空の味方は殆どいない、三蔵だけだと言ってもいい。
だというのに弱った悟空を修行僧などに任せたら、何を仕出かすか判ったものではない。
悟空も常日頃から己を忌み嫌う修行僧に、己の看病など任せたくはないだろう。

信用できる者が互いしかないということは、こういう時に不便だ。
だが二人とも、その世界に他人を赦そうとはしないから。



「前のはちゃんと形覚えてるから、もう食べない」
「だといいがな」
「食べないよ。すっげ痛かったもん」



いまいち信じられない、という三蔵の言葉に、悟空は益々剥れてしまった。



「で、なんで戻って来た? 飯の時間にゃ早ぇぞ」
「だからそうじゃないってば」



話を元に戻す三蔵の言葉に、悟空は恨めしそうに呟く。
煙草を吹かしながらその様子を見ていると、悟空はごそごそと何かを取り出そうとする。

外に遊びに行った悟空が何か拾ってくる事はよくある事だ。
今度はどんな下らないものを拾ってきたのか、と三蔵はにべもなく思う。
川辺で見付けた丸い小石だとか、道端に落ちていた木の実だとか、時には動物から貰ったと言うものまで。
三番目は真偽怪しく思うこともあるのだが、悟空が大地の子供であると思うと根のない言葉とは思えない。


ポケットに引っ掛かったのか唸りながら取り出そうとする悟空。
やや手間取ってから、悟空はようやく目当てのものを三蔵に見せた。



「あんな、コレ何かなって。聞こうと思った」






それが三蔵と話がしたい為だけの口実だと、なんとなく判ってしまった。
少しだけ悪いことをした、と金の瞳が怒られるのを怖がる子供のように見えたからだろう。

普段なら、下らない事に時間を使わせるな、と言うところだ。
事実、少し前までの執務机に向かっていた自分ならばそうしただろう。
椅子を立つまでは面倒な仕事をさっさと済ませる事だけに集中していたから。


だが悟空にとっては幸運なことに、既に三蔵はそんな気の一切を失っていた。







「……貸してみろ」



だから三蔵がそう言った時、悟空が驚いて目を剥いたのは無理もない。
次いで差し出された手に、悟空は慌てて持っていたものを手渡す。



「なぁ、それ石じゃないよな。普通の石よりちょっと柔らかいんだ」
「石は石だろ。普通とか普通じゃないとかあるのか?」
「でもそれは石じゃないよな?」



取り合えず、求める答えはそれだけらしい。



「……それは間違ってねえな」



手の中のものを見下ろしながら言うと、推測が当たって嬉しかったらしい。
窓の向こうでぴょんぴょん跳ねている。


三蔵の手の中にあるもの────悟空が何処からか拾ってきたもの。
それは黒く小さな、何かの種だった。

悟空にしては珍しいものを見つけてきたものだ。
花を摘んできたり、木の実を拾ってくることはあったが、種を持って帰って来ることはなかった。
だからこそ三蔵と会話をする為の口実になると思ったのかも知れない。



「これは種だ」
「種? なんの?」
「其処までは俺も知らん」



生憎、花には詳しくない。
薬草や毒草については必要があったから覚えていたが、それ以外の植物には興味がなかった。
山菜の種類や形などは、今となっては悟空の方がよく知っているのではないかと思う。

咲いた花の形を見て種類を問われるなら、まだ判ったかも知れないが、生憎此処にあるのは種だけだ。
発芽の兆しも見せていないものだけで、何の種類か問われても判る訳がない。



「食える奴かな?」
「……お前はそれしかねえのか」



呆れて呟けば、自分は何か変な事を言ったか、という顔で見上げてくる。
教えるのも面倒だったので、なんでもない、と返した。



「それ、咲く?」
「さぁな」



是とも否とも答えずに返せば、その言葉は悟空のお気に召さなかったらしい。
不満げに少し剥れたが、種を返す意として突き出すと大人しく受け取った。


種はまだ子供の息を抜けない悟空が持っても小さなものだ。
咲いたとしてもそれほど大きな花ではないだろう、と三蔵は見当をつける。
いや、その前に根が植えついて育つかどうかも危ういかも知れない。

種を見下ろす悟空は、恐らく寺院の何処かに種を植えようとでも思っているのだろう。
しかし悲しいかな、きっと目が出てくる頃には、掃除をする小坊主によって抜かれている可能性が高い。
増して、悟空が世話をしている所など見られたりしては、尚の事。



「咲いたの、見たいな」



悟空のその呟きは、予想していた通りのもの。


大地の子と呼びなわされるからか、悟空は殊更大地に根を下ろすものが気になるらしい。
道端で誰も見ないような小さな花を見つけたり、暗い場所にひっそりと咲く花を気にして明るい場所に植え直したり、
その割には花の一つ一つの特性というものは無意識に理解しているらしく、日陰を好んで咲く花はそのままにしていたり。

大地に根を下ろし生きていくそれらを見て何を思うのか、三蔵が知ることはないだろう。
だがやはり、いつか散ると知りながら咲き誇る花を見る悟空は、いつも嬉しそうだったのも間違いではないのだ。



「……だが寺院の中に植えたんじゃ、誰かが雑草と勘違いして抜いちまうだろうな」
「う……やっぱ、そうなる…?」



悟空も何となく予想はついていたらしい。
修行僧の嫌がらせというのも、実に下らない事をするものだ。


悟空はしゅんと萎れた花のように俯いた。

それを横目に見ながら、三蔵は執務机に向き直る。
が、改めて堆く積まれた書類の紙束に再び辟易を覚えた。




くるり、踵を返す。




「……三蔵?」



てっきり仕事に戻るとばかり思っていた保護者が、自分のいる窓辺に戻って来た。
種を見下ろしていた悟空はその気配に気付いて、きょとんとした顔でまた保護者を見上げた。

窓辺に三蔵が手をかけて、その直ぐ外側に悟空に目を向けた。



「退け、猿」
「へっ? え、あ、うん」



言われると、悟空は慌てて窓の前から体を退かせる。
すると三蔵は窓枠に足をかけて、そのまま外へ出てしまった。



「三蔵、仕事あるんじゃないの!?」



机に積まれている書類は、最初に悟空が見たままの高さで残っている。
悟空が戻ってきてから三蔵は一度も机についていないから、当然の事だ。

書類の内容がどんなものか、悟空は知らない。
三蔵は普段からどうでもいい中身だと言ってはいるが、かと言って何もかも無視できる内容ではないのだ。
そういうものが混じっているから、三蔵も面倒でも一通り目を通すようにしている。


だが、三蔵はフンと鼻で笑ってから。



「どうでもいい」
「どーでもって……」
「後は他の奴らがやりゃあいいんだ。俺は疲れた」



煙草の煙を吐き出しながらそう言えば、悟空はぽかんとした顔。



「一週間も缶詰にしやがって、これ以上付き合ってられるか」



苦々しく、忌々しげに呟いて、悟空が我に返る。
種を持つ手とは逆の手が伸びて、三蔵の法衣の裾を掴まえる。



「じゃ、じゃあ! じゃあ三蔵、もう遊べるの!?」
「だから遊ばねえっつってんだろが」
「んじゃ、一緒にいられるの!?」



興奮気味でいつもより高くなった声が、三蔵の耳をキンキンと刺激する。
鼓膜が痛くなる程のボリュームに、他人が聞いたらバレるだろうがと内心舌打ちした。
しかし金瞳をきらきら輝かせて繰り返し問う悟空に、怒鳴る気も失せる。

片手で種を、片手で三蔵の法衣をしっかりと握り締めている小さな手。
それはまるで逃がさないように掴まえようとしているようだった。





くしゃ、と大地色の髪を撫でる。


悟空は仔猫のように目を細めて、それから三蔵を見上げてきた。








「見たいんだろ……─────咲いた、花」