Sunset school





普通サイズの弁当を食べる三蔵よりも、重箱を食べる悟空の方が食べ終わるのが早いのはいつもの事だ。
綺麗に空になった重箱を片付けて、悟空はいつも三蔵が食べ終わるのを待つ。

自分なりに一所懸命作った弁当を、三蔵は美味いと言ってくれた事は今のところ一度もない。
最初の頃など食えたもんじゃないと苦情が来るほどだったのだが、その傍らで三蔵が弁当を残すことはなかった。
それを見ると嬉しくて、だから女の子達は好きな人の弁当を頑張って作ろうとするんだろうか、と思った。


減っていく弁当の中身と、無言でそれを食べる三蔵を交互に見る。
不在の教員の席の椅子に靴を脱いだ足を乗せて、悟空は嬉しそうに恋人を眺めていた。


このまま今日も、空になった弁当箱を無言で返されるのだろうな、と思っていた。
何が美味かったとか、こういう味の方がいいとか、感想もないままで。

―――――けれど、今日は違ってしまった。


「先生、さっきの授業で判らないところがあったんですけど……」


恐る恐る、という感じで聞こえた声に、三蔵と悟空が同時に顔をあげた。
立っていたのは悟空の知らない女子生徒で、恥ずかしそうに頬を染めて清楚な雰囲気を醸し出している。

食事の途中ということには気付いていなかったようで(何せ机の上には教材が山積で、遠くからだと何をしているか見えない)、
弁当と箸を持っている三蔵に気付いた生徒は慌てたような顔になった。


だが、質問があると来たのであれば教員として無碍にする事は出来ない。



「……見せてみろ」



弁当と箸を置いて、三蔵は茶を飲みながら手を出した。
示していたのは、生徒が持っていたプリントだ。

女子生徒は赤い顔をしながらプリントを渡すと、そのまま俯いてしまった。
それが食事を邪魔した申し訳なさからではなく、端整な顔立ちに見惚れてしまったからだと悟空も判った。
悟空も三蔵と恋仲になるまでは、同じような事をしていたと恥ずかしながら覚えているから。



(………この子も、そう……?)



過ぎった考えを知られたくなくて、悟空は目を逸らす。
だけれど視野が広い所為か、女子生徒と三蔵の姿は視界の隅に残る。

運動部にとって重宝される動物並みのこの視界と感覚を、悟空は今だけ酷く恨んだ。


三蔵がシャーペンを手に取るのが見えた。
手早く添削すると、プリントを女子生徒に返す。



「間違ってる所は修正したから、後は自分で考えろ」
「……判らなかったら、もう一回来てもいいですか?」
「まともに考えたんだったらな」



質問にかまけて三蔵に近付きたがる女子生徒は珍しくない。
学校で判らない事を教師に聞くのは当たり前の事だし、悟空も最初はそうやって三蔵に声をかけていた。
三蔵はそれを理解しているから、しっかりと釘を刺すことを忘れなかった。

だが釘を刺されてもめげない生徒とはいるもので、悟空もこの遣り取りを何度も見てきた。
その都度、心臓がキリキリと音を立てるのを耐えて来た。



「ありがとうございました」



きちんと頭を下げて、女子生徒は何処か浮かれた足取りで出入り口へ向かう。
女子生徒は職員室の出入り口でもう一度頭を下げ、職員室を後にした。

なんとなく悟空はそれを目で追っていた。


三蔵と懇意になりたい、と思っている女子生徒や女性教員は幾らも見てきた。
ひょっとしたら、彼女達よりも悟空の方がよく見ているかも知れない。
彼女達は自分が追い駆ける事に必死で、周りよりも先に、という思いで一杯だから。

悟空と三蔵の仲については、生徒間ではまだまだ噂の範疇でしかなかった。
三蔵の人嫌いと悟空の無邪気な気質のお陰で、まだ本意の部分まで到達しないのである。

だから、まだチャンスはあるのだと考えている女子生徒は多くいて。



「さっきの子、可愛かったじゃん」



悟浄の揶揄に、悟空の方が肩を揺らした。



「相変わらず人気者だなー、お前はさ」
「愛想無いのに、どうしてでしょうね」
「女の子の気持ちって判んねえよなー」



男から見れば“愛想が無い”と見えるのに、女の子には“クールで格好いい”と言われる。
それが見目の良さから来る欲目だと、その場にいる誰もが重々承知していた。
何せ三蔵の性格破綻具合を知っているから。

だが、彼女達はそれを知っても“ギャップがある”なんて言い出すのだろう。



「見た目がいい人って得ですよね。何してても赦されますから」
「それならお前だってそうだろ。優しそうって言われてんじゃん」
「……悟浄は見たまんまだよね」
「んだと、この猿」



黙していた悟空がぽつりと呟くと、悟浄が立ち上がって腕を伸ばす。
逃げるよりも一瞬早く頭を掴まれて、がしがしと乱暴に頭を撫でられた。



「いてーよ、何すんだよ!」
「自業自得だろ。つか、先生ってつけろ!」
「いいじゃん、皆呼び捨てにしてんだから…いててて!」
「舐めんじゃねーぞ、チビ!」
「チビ言うな!」



教員用の机二つを挟んで始まった掴み合い。
教師と生徒の取っ組み合いという、一般から見れば止めるべき光景だ。

しかし、悟浄が男子生徒とふざけあっているのはよくある光景で、増して悟空とのじゃれあいは何時もの事。
隣にいる八戒が必要な教材が桧貝を被らないように庇う以外、特に咎めるものはいない。
頭の固い古い衆は嘆かわしい、と顔を顰めているが、当人達は楽しんでいるので気にしていなかった。


いつもは、そのじゃれあいは数分程度続き、喧しさに耐え兼ねた三蔵がキレて終わる。
しかし、予想に反して、ぴたりと悟空が動きを止めた。



「……さ…先生、もう食べないの?」



動きを止めた悟空が視界の端に捉えたのは、弁当箱を仕舞う三蔵。
中身はまだ残っていた筈で、悟空は悟浄を掴んでいた手を離して三蔵に向き直る。



「…ああ」
「……なんか失敗してた?」
「別に」



恐々と問いかける悟空に、三蔵からは素っ気無い台詞。
そうでもないと言う事もしない三蔵に、悟浄と八戒は肩を竦める。

不安げに揺れる金の瞳を紫闇が捉える。



「今から準備しねえと、午後の授業に間に合わねえんだよ」
「……何するの?」
「ボイル=シャルルの法則の演示実験」



告げられた単元に、悟空はきょとんとした。



「その準備、面倒臭いの?」
「……お前、去年教えただろうが……」



聞きなれない言葉に不思議そうに問いかけると、不機嫌な視線が返って来る。
去年やったのだから、どれだけ面倒臭かったか判るだろう、というもの。
だが生憎ながら、悟空にはそういう名で行った授業のことはまるで覚えていなかった。

頬を掻いて誤魔化すようにへらっと笑うと、本日二度目の拳骨。



「俺が教えた授業を覚えてねぇとは、いい度胸だな……」
「う……だ、だって…物理って難しいんだもん…」



三蔵は去年も今年も、二年生の物理の授業を担当している。
だから去年は、悟空もちゃんと三蔵の授業を受けた。

物理は化学や数学と同じく大の苦手分野だったが、三蔵が教えてくれるならと悟空なりに頑張ったつもりだ。
他にも実験授業は話を聞くだけの授業より、難しくて大変でも楽しかったりしたのを覚えている。
が、一年経った今となっては、生憎ながら授業内容まで悟空の頭に残ってはいなかった。


三蔵は呆れた溜息を吐きながら、包みに戻した弁当箱を差し出した。



「俺はもう行くから、残り食うなら勝手に食え。午後の授業に遅刻すんじゃねえぞ」



そういう三蔵を何を言うでもなく、悟空はじっと見上げた。
机の上に置きっ放しにしないのが三蔵なりの譲歩だと、判ってはいるつもりだった。
だが授業の準備とは言え、初めて残された事に悟空は自分でも驚くほどショックを受けていたのだ。

無言で受け取ろうとしない悟空に短気な三蔵が焦れて、悟空の手を取る。
半ば強引に包みを持たせると、三蔵はくるりと踵を返し、必要な教材を持って席を後にした。



背中を見送りながら、悟空はふと先ほど此処にきた女子生徒を思い出す。


彼女が来なかったら、この弁当の中身はいつものようになくなっていたんじゃないかと。
此処で食べないで屋上じゃなくても他の場所を探したら、彼女に時間を取られたりしなかったんじゃないかと。

それが酷い考えてある事も判って、自分がとても嫌な人間になった気がした。






空っぽでない弁当の重みに泣きたくなったのは、初めてだ。





























午後の授業には全く身が入らなくて、悟浄の古文の授業などは思いっきり寝てしまった。
教科書で叩かれて起こされたが、不思議なことに悟浄はあまり怒らなかった。

悟浄が怒らなかったのは、悟空があまりにも判り易かったからだ。
昼休憩の一件が尾を引いているのだと、目敏い悟浄はしっかりと察していた。
火を見るよりも明らかな凹み方に、居眠り程度で怒る気にはならなかったのだ。


そうして本日最後の授業である数学も終えた時には、すっかり無気力になっていた。


ふとすれば泣きたくなって、そんな自分が女々しくて嫌だった。
けれど何度頭を振ってみても嫌な考えが拭い去ることはなく、逆に暗い感情に捕まってしまう。
あの時彼女が来なければ、他の所にいれば彼女は来なかったのに、とそればかりで。

三蔵が女子生徒から色んな質問をされる所は、今までだって何度も見てきた筈だった。
その度に苦しくはなるけれど、三蔵が一緒にいてくれるのが嬉しかったから、それほど気にしないでいられたのに。



「……もうヤだ……」



ぽつりと呟いた声は、静かな教室にやけに響いた。
そしてそれを、唯一じっと悟空を待ってくれていたクラスメイトに聞かれてしまう。



「何がヤなんだ?」



陽が沈むのが早いこの時期、外は既に夕暮れに染まっている。
東の空の端はそろそろ夕闇を交えているだろう、西側に窓がある為悟空にはまだ見えないけれど。
グラウンドからは運動部の元気な声がして、いつもなら悟空も其処に加わっている筈だった。

そして同じく、ずっと隣で悟空が動くのを待っている友人、那托も。



「……那托ぅ……」
「うん?」



何? と問いかけてくる那托の声は優しかった。


小学校の低学年からずっと一緒の幼馴染は、唯一悟空が自分で自分の想いを打ち明け相談した相手だ。
そして普通ならば変だと言いそうなその相談に、親身になって答えてくれた。
一番信じることが出来て、一番一緒にいて安心するのは、ひょっとして恋人よりもこの幼馴染かも知れない。

だって、あの人は滅多に言葉をくれない。
そういう人だと、判ってはいるけれど。



「……なんか、誰かにヤなこと言われた?」



三蔵と悟空が男同士でありながら恋人となっている事は、生徒間ではまだまだ噂の範疇。
だけれど、人気のある三蔵には親衛隊――要は非公式ファンクラブ――というものが存在し、
噂が立ち始めた頃、悟空はそのメンバーから嫌がらせを受けた事があった。

また再びそれが始まったのかと、那托は心配そうに悟空の顔を伺いながら問う。
けれども、悟空ははっきりと首を横に振った。



「違う?」
「…うん。つーか…その方がまだマシかも知んない」
「なんでだよ? あいつら、散々なことしてたじゃん」
「……そりゃ、それがいいって訳じゃないけど……」



あの人たちからの嫌がらせにはもう慣れた。
棘で刺されるのが痛いのは変わらないけれど、それよりも三蔵が隣にいるから耐えられる。
三蔵も気にするような事じゃないと言ったから、気にしないでいられる。

でも、今回のことは誰に責任がある訳でもない。
だから沸き上がる感情をどうしていいのか、向ける先が見つからない。



「オレ、嫌な奴だ」
「……なんだ、そりゃ」



唐突な言葉に、那托が眉根を顰める。


やっぱり誰かに何か言われたんじゃないか、という考えが那托の中に過ぎる。

どうにも悟空は人を信用し過ぎたり、言葉をそのまま間に受けてしまうことが多い。
だから誰かが悪意を持ってか否か知らないが、言われた言葉を気にしているのかと思った。


けれど、次の言葉は付き合いの長い那托も予想していなかったもので。





「……三蔵と誰かが話してるの、全部ヤなんだ」





―――――例えばそれが、教師としての仕事だとしても。


他意無く質問をしてくる生徒というのが、いない訳ではない。
ただその多くがあわよくば、という想いが見え隠れするだけの話で。

質問されるのならば本人が面倒臭いと内心思っていても、無視する訳にはいかないのが教師だ。
悟浄や八戒のように会話をしながら、という事を三蔵はする事はないけれど、
ただ受け応えするだけでも最近は胸の痛みを抑えられなくて、油断すると泣きそうになる。


美人の女性教員と話している姿は、遠目に見ても“お似合い”と称される。
その内容が三蔵にとってどんなに下らないものであるとしても、見ている側にはそんな事は関係ないのだ。
中にはそれを判っていて見せ付けるように声をかける教員もいた。



それらを見る度、悟空は叫びたくなるのだ。



――――……“近付かないで”と。







俯く幼馴染に、那托は驚いた。


悟空が抱く感情は、所謂“嫉妬”だ。
好きな人を独り占めしたいという、ごく普通に抱くような感情。

けれど、悟空はそれを禁忌とでも思っているようだった。



「……お前、それ、先生に言った?」



那托の言葉に悟空は首を横に振り、机に突っ伏した。



「言う訳無いじゃん。絶対下らないって言われるし……」
「そうか?」
「そうだよ」



彼は大人だから、悟空のこんな考えなんて幼稚だと思うに違いない。
それが悟空の考えで、こんな気持ちをぶつけること事態が大それた事だと思うのだ。

自分の想いを彼が受け止めてくれた時点で、それ以上のワガママなんて言える訳がない。
一番近くにいるのに、三蔵が他の人と一緒にいるのが嫌だなんて図に乗ることは出来なかった。
もっとみっともなく、なりふり構わない性格であったなら、もう少し違ったかもしれないけれど。


でも、そうだとしたらきっと彼は悟空と会話すらしてくれなかった。


苦しくても、我慢するのが当然の報いだと悟空は思う。
一番近くで一番贅沢をしているんだから、これ以上何を望むというのか。
優しい言葉はくれなくても、彼はちゃんと自分を見てくれるのだから。

嫌がらせも、苦しい思いも、受け入れて耐えるべきものだ。
彼にはきっともっと相応しい人がいるのに、自分なんかが隣にいる事を赦されたのだから。



「……お前なあ……」



顔をあげて親友を見遣れば、那托は眉尻を下げて溜息交じり。



「いっつも底抜けに明るいくせに、なんでこうなるとマイナス思考なんだよ」
「……んなことないけど」
「何処が」



コン、と額を小突かれる。
少しだけ紅くなったそこを押さえながら、悟空はのろのろと突っ伏していた体を起こした。

小突かれたばかりの額より、昼間に喰らった拳骨の方が今になって痛くなる気がした。


那托は一度長い溜息を吐くと、座っている悟空の腕を引っ張って立たせる。



「ほら、帰るぞ。帰りにどっか飯食おう」
「……飯?」
「腹減ってるからそんなになるんだよ。感謝しろよ、俺のオゴリな」



悟空に食事を奢ったりしたら、財布がどうなるのか判っていない幼馴染ではない。
けれど悟空も流石に遠慮を知らない訳ではない。

幼馴染を元気付けるにはそれが一番効果的だと、笑う那托に悟空も笑みを零す。
夕暮れ空に染められた笑顔は淋しげなものだったけれど、那托も変わらず笑顔だった。
此処で本当に淋しい顔を表に出してしまったら、傷付いてしまうのはお互いなのだから。


暗い事はもう頭から追い出すことにして、二人は教室を後にした。