トランキライザー










僕にとって できること 全て捧げたい


君といる 未来 描いて





…揺るぎない いとしさに 愛を込め









あふれ出す想いを 抱き締めて …… ───────

























拾われてから、三年目の冬の終わり────いや、春の始まりだっただろうか。


前日は嫌に静かな日で、そんな時の一人寝には慣れていなくて、悟空にも自分用の布団は用意されていたのだが、
どうしても確かな温もりと安心が欲しくて、三蔵のベッドに潜り込んでいた。
人の気配に聡い保護者はその都度起きてハリセンで叩きつつも、結局は「煩いから」「仕方ないから」と赦してくれた。
また寒い夜であれば湯たんぽの代わりになるから、と抱き寄せてくれることもあった。

しかし珍しくもその夜の三蔵は悟空の気配に目覚めた様子はなく、悟空に背中を向けたまま眠っていた。
抱き締めてくれない事に少し剥れつつも、追い出されないのだからいいか、とその時は特に気にもせず眠った。


それを、悟空は翌朝になってから酷く後悔した。


基本的に面倒臭がりで腰が重い三蔵である。
寺の朝と言ったら色々忙しないものでありそうなのに、三蔵だけはいつも重役出勤だ。
いや、三仏神からの呼び出しやらがある時は、一応早く出て行くが───それも見事な仏頂面で、だが。

悟空が目覚める時間は不規則で、楽しいこと──例えば三蔵がどこかに連れて行ってくれるという、最高に特別な日とか──は、
明けに鳴く鳥の囁きが聞こえる時分に目覚めている。
反面、夜半まで眠れなかった日の翌朝は、削ってしまった睡眠時間を取り戻すように惰眠を貪った。

その日はそんな日だったから、悟空が目覚めた時には太陽は既に高い位置にあり、
日々基本が重役出勤の最高僧であろうと、常を思えば保護者は既に部屋を後にし、執務をこなしている時間となっていた。



しかし、予想に反して、悟空がその日目覚めた時。
背中を向けたままの保護者がいたのを見つけた瞬間は、流石に目を剥いた。



自分が目覚めた時に保護者が傍にいてくれるのは嬉しい。
前日が不安な夜だったから尚更だ。

それでも珍しいこともあるものだと思いつつ、どうしたんだろうと不思議にも思って名を呼んだ。


三蔵はそれでようやく目を覚まし、しばし虚ろな目で悟空を見ていた。
寝惚けているのか? と悟空は首を傾げたが、少し経つといつものように起き上がって着替え始めた。
休みだったら良かったのに、と悟空は思ったが、口に出せばただの我侭になるから飲み込んだ。

期待を裏切られた事に勝手に落胆して、悟空は二度寝しようと思って布団に潜り込んだ。
そうしている内に三蔵は着替えを済ませ、常と変わらぬ足取りで部屋を出ようとした。


その後姿に、いってらっしゃい、と拗ねた顔のまま言おうとして。






ぐらり、と傾いた背中に悟空は目を瞠った。




























風邪、だった。
病名自体はなんてことはない、よくあるもの。

けれども、悟空は生きた心地がしなくて、三蔵の傍から離れるのを嫌がった。
僧侶達は弱った三蔵に何か仕出かすのだろうと仕切りに言ったが、悟空には何も届きはしなかった。
それよりも、寝台で眠る三蔵の事ばかりが頭の全部を占めていたから。


昨日の夜に、自分がベッドに潜り込んだ時反応がなかったのはこの所為だったのだ。
自分が目覚めた時に三蔵が未だベッドにいたのも、それが原因。

ずっと一緒にいるのに、少しも気付けなかった自分に何より腹が立った。



三蔵は人の三倍から五倍は確実にプライドが他界し、弱みを見せるのを何より嫌う。
だから三年も一緒にいた悟空でも、三蔵が弱った姿なんて見たことがなかった。
妖怪退治に出かけて血塗れで戻ってきても、毅然とした姿以外、悟空に見せた事はない。

とは言え、三蔵はれきとした人間な訳で、思えば体調を崩すなんて事は珍しい話ではなかったのだ。
人に知られるのを良しとしない性格が、己の変調を他者に気付かせることを赦さなかっただけで。


────例えそれが、己の養い子である悟空だとしても。



悟空は本能的に三蔵の微細な変化を感じ取ることが出来る。
けれども、口では当然負けるし、三蔵に何もない、と押し切られれば反論の余地はない。
三蔵が何もないと言い切るのであれば、違うと言う根拠は悟空の中にはないのだから。

三蔵はいつも悟空の変化に聡いし、間違えないのに、それは不公平だと思う。
確かに自分は子供だけれど───……だからと言って何も教えてくれないのは、やはり淋しいし、悲しかった。


(オレが、なんにもできないから……)


だから三蔵は、何も教えてくれないのだろうか。
何か出来たら頼ってくれる、なんて簡単な公式でもないのだろうけれど。


けれど何も出来ないのは事実だった。

倒れた三蔵を見てパニックになって、とにかく名を呼ぶしか出来なかった。
ベッドに戻したのは騒ぎを聞きつけた僧侶で、医者が診ている間、悟空は外に連れ出されてしまった。



騒ぐしか出来なかった。
名前を呼ぶしか出来なかった。

そうして今も、傍にいるだけで何も出来やしない。



(役立たず)



椅子で膝を抱いて丸くなる。
膝の皿上に頭を乗せて、こみ上げてくる涙を誤魔化そうとして失敗する。
じわりと溢れた涙が零れ落ちて、鼻を啜る音が静かな部屋に反響した。


着替えるタイミングを損なった所為で、悟空も未だ寝巻きのままだ。
寝巻きは三蔵の使い古しのシャツを貰ったもので、サイズが合わず、ずれて肩がむき出しになっている。
時刻が昼を迎えつつあるとはいえ、流石にこの格好では如何な悟空でも寒い。

でも、三蔵の方が辛い思いをしているのだと思うと、着替える気になれなかった。
それがただの自分のエゴだとしても。


(……なんにも出来ないんだったら)


眉根を寄せる保護者を見つめて、熱に魘されているのかな、と思う。
そんな辛いこと、ただでさえ仕事だのなんだので大変なのだから、この人に味合わせないで欲しいと思って。


(……伝染んないかな……)


他の誰でもない、自分に。

抗体持ちと言う訳ではないが、自分の方が病気に対して強いだろう。
何より、三蔵が楽になるなら、その方がいいと思った。


寝台で横になるこの人を見るくらいなら、自分がなった方がいい。
そうして三蔵は自分の事なんて気にしないで、仕事に行ってくれればいい。
傍にいられないのは淋しいけれど、今の状況よりずっとマシだろうから。


ただ見ているだけ、何も出来ずにいるのは嫌いだった。
何か出来ることがあればいいのに、探したいのに、判らないばかりで。

結局、こうして腐っている自分がいる。



何も出来ないのが嫌で。
何も出来ない自分が嫌いで。

辛そうなこの人を見るのが一番嫌で。


だから気付いたら、呟いていた。








「……伝染っちゃえ」




「─────誰にだ」








思わず返ってきた声に、悟空は一瞬、それが誰のものか判らなかった。
この部屋にいるのはたった二人しかいないのだから、答えなんて考えなくても出る筈なのに。

顔を上げれば、こちらを見据える紫闇があって。
それは常よりも頼りなさげに見えたけれど、意志の強さを示す光は変わらない。
汗で張り付いた前髪を鬱陶しそうに払う仕草は、何処か気だるげではあるけれど。


息を呑んだ様相のまま、悟空は自分を射抜く紫闇を見つめ返していた。
瞠りながら驚いた表情のままの悟空に、三蔵は滅多に見せない苦笑を漏らす。



「バカ面」



それがあまりにもいつも通りの言葉だったから、また反応に遅れた。
バカじゃない、とでも何とでも言える筈だったのに、それが出来なかった。


腕を支えにして起き上がるのを、止めなければ、と思った。
目を覚ましたところで三蔵が病人であるのは変わらない事実だし、最近のオーバーワークが祟ったとも言える。
今無理をするのは彼の体調の悪さを悪化させるだけにしかならない筈だ。

けれど、悟空は瞠目したままでただ保護者を見つめていた。
その己の目尻に涙の膜が一杯に溢れているとも、自覚しないままで。



「んな面してんじゃねえよ」



そんな面ってどんなの。
あ、バカ面って言ったっけ。

何処か歯車のずれた思考回路でそんな事を考える。



「ったく、ダセェ……」



その呟きは目の前で曰く“バカ面”を晒す養い子に対してか、それともその目の前で不覚にも意識を失った自分に対してか。
悟空にはやはりよく判らないところであったが、三蔵はそんな子供の事など気にしていない。
僅かに痛む米神に手を当てて、眉間にこれでもかという皺を寄せながら、長い溜息を吐いた。

それから視線だけでぐるりと部屋を見回し、改めて悟空へと目を遣った。



「……あ……」



解放されたと思ったら、また束縛する紫闇。
見えなかった一時間は不安で堪らなくて、見えたら見えたで雁字搦めにする。
どうしてこんなに両極端なのか、悟空にはまだ判らなかった。



「煙草」
「え?」



保護者の唐突な目覚めの驚きからようやく解放された悟空に、三蔵の短い言葉。
思わず聞き返した悟空だったが、言われた言葉はちゃんと脳に届いていた。

同じ台詞を二度も繰り返す手間を、三蔵は嫌う。
聞き返したところで言葉は帰ってこなくて、視線だけが早くしろとでも言うように急かす。
だから言われた言葉を理解していたのは、この時本当に幸いだった。
もしも本当に聞き逃していたら、保護者の不機嫌が増すのは間違いなかっただろう。


必要最低限しか喋らない三蔵だが、悟空はそれでも十分だった。
よく判らないものは本当に判らないのだが、今のは実に判りやすかった。

煙草は、ベッドから少し離れたテーブルの上に放置してある。
それを取って持って来い、と言うのだ。



「………はい」



数歩しかない距離を何故か逸る気持ちで移動して、目当てのものを取って戻る。
保護者の前に差し出すと、三蔵は無言でそれを受け取り、一本を取り出した。



「火」
「え?」
「…………」
「あ……」



火のついていない煙草を咥えている三蔵に、そういえばライターがない、とようやく気付く。
基本的には煙草と並んで置かれている筈だとテーブルに戻るが、其処にあるのは灰皿だけだった。

きょろきょろと部屋を見回して、見つけたのはベッドヘッド。
其処なら三蔵の方が近いんじゃないかと思ったが、三蔵は気付いていないのか、手を伸ばそうとしない。
紫闇はじっと悟空に向けられたままで、それに少しの居心地の悪さと、
頼ってくれる──自惚れだとは思うけど──のが嬉しくて、何も言及しなかった。



「はい」



差し出せば、また無言で受け取る。
悟空は椅子に戻って腰を下ろし、三蔵は渡されたライターで煙草に火をつけた。

病人が煙草など、普通はするものじゃない。
しかし悟空は医学的知識は殆どないし、看護の仕方も判らなければ、何が良くて何が悪いのかも判らない。
咎める者がいないのを良い事に、三蔵は思い切り煙を吸って吐き出した。


ゆらゆら揺れる紫煙に、そう言えば換気、と悟空は思い至った。

三蔵の煙草の匂いは好きだが、煙たいのはやはり好きにはなれない。
しかし外は風が強く、気温も低そうで、病人にそういうものは良くないのだと、それだけは判って止めた。



今日は外で遊べないな。
いや、遊びたくないな。

だって三蔵が病気になってるし。


つらつら考えながら、窓の外で強風に煽られる木々を眺める。



「………悟空」



今日の夜は寒そうだ。

三蔵は病気だから、もっと寒いのかな?
三蔵はオレを湯たんぽ代わりって言うけど、それって役に立ってるのかな?




「おい、悟空」




そういや、坊さん達なんか煩かったな。
オレが三蔵をどうこうしたとか、なんとか、色々。

出来る訳ないじゃん。
オレ、三蔵にそんなことする度胸ないし、後が絶対怖いし。
つーか、オレが何したら三蔵がこうなるんだよ。
意味判んね。





「悟空」





…でも……
オレ、昨日気付かなかったんだよな……
気付いてたら三蔵、倒れたりしなかったかも知んないのに。

じゃあやっぱりオレの所為?


おまけになんにも出来ない役立たず。



最悪。









「返事しやがれ、このバカ猿!!」








スパーン! と見事なハリセンの音が響き渡る。
それを皮切りにして、静かだった最高僧の寝室は一転して騒がしくなった。



「ってー!! 何すんだよ、病人のくせに!」
「呼んだら返事しろっつったのを聞かなかったからだろうが」



いつもながら何処から取り出したのか判らないハリセンを肩に担ぐ仕草は、およそ病人とは思えない。
スナップのきいた一撃も、とてもじゃないが体調不良真っ最中の人間のものではなかった。

紙を幾重にも追っただけの武器がこんなに痛いなんて、ずるい。
少々ズレた事を考えながら、悟空は恨めしげにそれの持ち主を睨む。
丸っこい涙で滲んだ瞳で睨んでも、全く効果はないのだけれど───それ以前、そういうものをこの保護者に期待するのが無理なのだけど。



「聞こえなかったもん」
「三度も呼んでか」
「……聞こえなかったもん」



同じ返事をすれば、三蔵は紫煙を伴って長い溜息。


だって本当に聞こえなかった。
自分一人の思考の渦に陥っていたからだと、自覚はある。

三蔵にとっては至極下らないことかも知れないが、悟空にとっては重要だった。
だから考え始めたら止まらなくなって、また椅子の上で膝を抱えて丸くなっていた。
ぎゅうぎゅう痛む胸の奥を、三蔵に見付からないように隠して。


けれどやはり、この人には隠し事なんて出来なかった。



「病人より病人みてぇな面してんじゃねえよ」
「……そんな顔してない」
「してんじゃねえか、今」



伸びた手の指が、びしっと悟空の眉間を打った。
ハリセンに続いてこれも痛くて、悟空は赤くなった眉間を押さえてまた三蔵を睨む。

その睨む顔は、一歩間違えれば今にも盛大な声を上げて泣き出しそうな子供のもので。



「……それより、灰皿持って来い」



その顔にもう一度ハリセンでもデコピンでもかましてやろうか、と思いながら三蔵は言いつける。
悟空はどうして、とでも言うようにきょとんとしたが、睨めばやっと思い至ったらしく椅子を降りる。

煙草もライターも言いつけ通り悟空は取ってきた。
けれども、煙草を吸った時に出る灰を棄てるものがない。
幾らなんでも、ベッドの上に焦げ目は作りたくないものだ。


煙草が置いてあった場所の直ぐ横で、灰皿はぽつんと存在していた。
悟空はすぐにそれを取って、三蔵に差し出す。

三蔵は今度は受け取らずに、灰だけを其処に棄てる。



「そのまま持ってろ」



受け取られなかった事、そして言われた言葉に悟空はきょとんとして首を傾げた。
が、言われたのだから言われた通りに、悟空は灰皿だけを持って椅子に座る。

ベッドの上に座したままの三蔵と、傍らに椅子を寄せて座る悟空の距離は、腕を伸ばせば届く程度。
三蔵と灰皿の距離もそんなもので、灰を棄てる動作をするには無理がない。



「其処、動くんじゃねぇぞ」
「……トイレは?」
「…そりゃ行きゃあいい」



阿呆な事を聞くな、と呆れた表情の三蔵に、悟空は頷く。
何も本気で動いてはいけない、などと悟空自身も思っていた訳ではないけれど。

じっとしているのが苦手と自覚している悟空だったが、不思議とこの時は苦に感じなかった。



何度か紫煙を吐き出した後、三蔵は腕を伸ばして、悟空の手の中にある灰皿に灰を落とす。

それだけのことが、悟空は何故か無性に嬉しかった。
看病も何も出来ないけれど、此処にいるのは赦されているのだと思える気がして。


役目を与えられている、そんな気がして。





「其処にいろよ」






その言葉に、笑って頷くことが出来た。