トランキライザー











いつの日か いつの日か 離れることなく


過ごしたい 君と二人で





…透き通った 夢だから 叶えたい









どうかこの願いを 届けたい …… ───────
























拾われて六年、二人の友人が出来て一年。

またこれも冬の終わりから春の始り頃の話。


預かっている小猿が熱を出したことに気付いたのは、ジープだった。
悟浄も八戒もぼんやりしている子供に感付いてはいたのだが、何せ大好きな保護者に置いてけぼりにされたのだ。
止むを得ないとはいえ、悟空が元気を喪くすのも無理はないと思っていたから、うっかり見過ごしてしまった。

ジープが気付けたのは、動物同士特有の勘だろうか。
悟浄は思ったが、眠る子供を見下ろして流石に茶化す気は失せてしまった。


気付いた時には38度の熱を持っており、寝かしつける頃には39度。
その上、病気時にありがちな心細さで、悟空はいつも以上に一人寝を嫌がった。
かと言って悟浄や八戒が一緒でも中々寝付けず、更に容態を悪化させる結果となってしまった。

一先ず看護に適していると言える八戒が一緒になって、一時間程度も愚図る悟空を宥め、ようやく子供は寝付いた。
しかし夢現に紡がれる保護者を呼ぶ声に、報われませんよねぇ、と八戒は苦笑を漏らすしかない。



翌朝になって、就寝時の不安げな色は形を潜めたものの。
やはり保護者がいない淋しさは助長されたようで、仕切りに保護者のことを尋ねてくる。

悟空が待ち侘びる保護者が帰ってくるには、まだ三日あった。
それも最低限の予定での日程で、あちら側のしつこい要望で足止めされる事も多い。
もう六年も一緒なのだから、それを判らない悟空ではなくて、だから余計に淋しいのかも知れない。


離れているのだから仕方がない。
仕事だからしょうがない。

でも、やっぱり淋しいものは淋しくて、病気となれば尚更だった。


多少の不調は食べれば治る。
しかし病は気から、悟空は食欲さえなくなっていた。
食べなければ体力は取り戻せないというのに。

悟空の生来の生命力は重々承知していた二人だったが、流石にこれは焦った。
食べる事を何よりの楽しみとしている悟空が「食べたくない」なんて言い出すから。

それでもこのまま食べさせずにいる訳には行かない、薬も飲ませなければならないのだから。
元教師という義務感か、それとも預かっているという責任感からか、とにかく八戒はなんとか食べさせようとした。
悟空もその気持ちは判ったようだったが、どうしても気が進まないらしく、食べようとしない。


食べましょうね、食べたくない、食べなさい、やだ。
そんな押し問答が延々繰り返される様子を、悟浄は肩にジープを乗せて眺めていた。

八戒はあれこれ言って食べさせようとしたが、悟空は最早意固地になっていたのだろうか。
遂には差し出される匙からも逃れるように、布団の中に潜り込んでしまった。
其処俺のベッドなんですけど、とは言えなかった悟浄だ。


だが保護者が帰ってきた時にまでこんな調子のままでは困るのだ。
当人は否定する上、言えば間違いなく銃弾が跳ぶだろうが、あれであの男は過保護だから。



勘弁してくれよ、と悟浄が胸中で呟いた、その時。





「………三蔵と一緒だったら、食べる………」






─────不安そうな、泣きそうな声でそんな事を言うから。

さっさと帰ってきやがれクソボーズ、とこちらも意外と過保護で甘い悟浄が思ったのは言うまでもない。


























帰ってくるなり八戒に見事なまでの完璧な笑みに迎えられて、流石の最高僧も引いた。

この男の笑顔ほど凶悪なものはない、と彼も十分判っているのだ。
どうも鈍いお子様だけは、(彼が意図している部分もあって)そうは思っていないらしいが。


悟空が何か言ったかと思った三蔵だったが、三蔵が覚えているのは出立前の泣く一歩手前の顔ぐらい。
連れて行けない事は今までにも何度もあったのだから、今更それについて言及されてもどうにもならない。
何より、強引に連れて行く方が、子供を傷付けてしまう事にも繋がるのは、この笑顔の男も判っていない筈はない。

だったらまた河童が何かいらない事を子供に吹き込んで、それを八戒に報告したのか。
なんとなく繋がった連鎖に、三蔵は悟浄を睨み付けた。



「俺じゃねーよ!!」



ドンと抗議に机を叩き、即否定の言葉が出て来る辺り、日頃の行いがよく表されている。
いつもならどうだか、と思う三蔵だったが、八戒が否定しなかったので今回は嘘ではないのだろう。



「だったらなんだ」
「いえ、ちょっと」



問うてみれば、完璧な笑顔を浮かべていた男が、僅かにそれを崩した。
表情は相変わらず基本形の笑ったものだったが、眉尻が下がっている。

それから、いつもならばこの男よりも何よりも真っ先に自分を出迎える笑顔がない事に気付く。



「猿はどうした」



時刻は昼日中だったから、外で遊んでいるとも考えられる。
寺院と違って奇異な視線を向けられないからか、悟空は此処にくるといつも以上に奔放だった。
だから三蔵が仕事から帰って迎えに来た時、いないという事も稀にある話でもあった。

しかし机の上にジープがちょこんと落ち着き、悟浄も椅子に座っている。
一人より誰かと一緒が好きな子供が、此処に来てまで一人遊びをする確立は低かった。


眉間に皺を寄せて問うた三蔵に、八戒は愛想笑いを浮かべて答える。



「三日前から熱を出して、寝込んじゃいまして」
「あのバカ猿がか?」
「バカは風邪ひかねーって、あれ迷信だな」



茶化す悟浄の言葉は無視して、八戒は続ける。



「三蔵が帰って来るまでに治しましょうねって言ったんですけど」
「寝て食えば治るだろ、アレは」
「それが……」



言葉を濁す八戒に眉根を寄せると、八戒はちらりと家の奥を見遣る。
それに倣って目を向ければ、悟浄のものと宛がっている部屋の扉。

其処に目を向けたまま、八戒は言った。



「食べたくないって言うんですよ」
「あの万年欠食児童がな」



それは、色々と大事だ。
あの悟空が“食べたくない”と言うのだから。

しかし、だからと言って空腹中枢がやられた訳ではないのだから、三日も食べないなんて有り得ない。
何をやってるんだバカが、と胸中で呟いていたら、隣でまた見事な笑顔を浮かべる男がいて。



「三蔵と一緒だったら食べるって言ってくれたんですけどね」




─────って訳で、さっさと言って下さい、悟空の為に。

黒い笑顔に、そんな幻聴が聞こえたが……多分、ただの幻聴ではなかったと三蔵は思っている。


























なんで俺が、と思いつつ、仕方がないし面倒でも義務であるという意識はあった。
経緯がどうあれ自分はあの子供を拾ったし、保護者となった以上は面倒を見なければならない。
例え拾った時分、まだ己も少年をやっと抜け出した年頃であったとしても。

里子に出すという選択肢を無効にしたのは三蔵で、傍に置くと決めたのも三蔵。
ならば、体調不良の子供の面倒を見るのは正しい責務である、保護者として。


あのバカ猿、また面倒な事させやがって。
ブツブツと胸中で呟きながら、子供が眠っているという部屋のドアを開けた。

けれどもいつもの迎える笑顔はなくて、子供は布団の中に芋虫宜しく蹲っていた。



(………面倒くせぇ……)



先ずはこの布団を剥ぎ取って、子供を外に出さねばなるまい。

八戒ならば揺さぶってやる、悟浄なら小突きながら宥めてやる。
そんな手段に出るのだろうが、生憎自分はそんなに優しい気質ではないと自覚がある。


だから、問答無用で布団を剥ぎ取ってやる為に手を伸ばす。


が。





「………さんぞ………」





布団の下から漏れた声に、気付いたか、と思って手を止めた。
しかし見慣れた金が目の前に出てくることはなく、ただ漏れ出た声なのだと知る。

こうして保護者が帰ってきたことに気付かないのも珍しい。
これは、確かにかなりの重症かも知れない。
今までの経験からそう思い、三蔵は短い溜息を漏らした。


小さな子供の愚図る声が布団の下から漏れて聞こえる。
そう言えば二日前から呼ぶ声が煩くなっていたのを思い出し、原因はこれか、と至った。



(バカ猿)



布団の上下のリズム具合から、寝ているのだと判った。
が、呼ぶ聲は意識があろうがなかろうが変わらない。


布団を捲れば、眠っているからか、抵抗はなかった。
丸くなって眠る姿は拾った当初に見た頃と大差なかったが、寄せられた眉根は少し辛そうだった。
噴出している汗に相当の熱があると見て、頬に手を当ててみると、猫のように擦り寄ってくる。

三蔵は体温が低い。
ただでさえ子供体温の上、熱のある悟空にとって、その冷たさは心地良いものだろう。



「……さ…ぁんぞ……」



ゆるゆると伸びて来た手が、己の頬に添えられた三蔵の手に重なった。




そこでようやく、金瞳が覗く。




待ち侘びていたのだろう保護者が其処にいる事に、悟空はしばらく判っていないようだった。
いや、其処にいるのが三蔵だとは認識しているだろうが、夢か現か判別できていない。
ぼんやりとした目で見上げてくる瞳に、三蔵は殴ってやろうかと思って止めた、流石に病人なのだからと。

それから目尻に泣いた後がある事に気付く。
目元も少し腫れていて、寝ている間も寝ていたのだろうかと思った。

……多分、それは外れていない。


ややもしてから、悟空はうつらうつらしつつも、意識が現実に帰ってきたらしい。



「………れ…?」



頬に触れている手が誰のものなのか、自分の手が触れている温もりが誰のものなのか。
ぼうっとた頭では直ぐに答えが出なかったようで、しばらく三蔵を見上げていた。


三蔵、と掠れた声が小さく漏れた。
熱が高いのか、あまり意識はクリアにならないらしく、瞳の光も頼りない。

悟空の幼さを残す手が伸ばされて、それに顔を寄せれば、やはり金糸に指が絡む。
熱に浮かされた思考回路はあまりまともな働きをしていないらしく、甘えるようにもう片方の腕も伸ばされた。
抱っこをせがむ子供のように手を伸ばすから、三蔵は嘆息して悟空を抱き起こしてやった。



「さんぞぉ……」
「ああ」
「……おかえり……」



呟かれた声に、今更か、と思った。
しかしそれでも言おうとするのが悟空らしい。



「……さみしかったよぉ……」
「……ああ」



────多分、いつもなら言わない言葉が漏れた。


幼く見えて負けず嫌いだから、悟空もやはり保護者に似たのか、弱みを見せるのを厭う。
寺院の僧侶の嫌がらせだって、一人で泣く事はあっても、三蔵の前では笑って見せた───泣いた跡は、誤魔化せなかったけれど。

けれども珍しく病気になって弱気になった心は、思わぬところで本音を漏らした。
混濁した意識の今漏らした言葉を、後になって悟空が覚えているかは定かではない。
だが、呟いた言葉が今までのも何もかもひっくるめて、本音だったのは間違いないだろう。


一人ぼっちで淋しかった。
置いていかれて淋しかった。

待っているのが淋しかった。


小さな子供のように愚図るのを、腕の中に閉じ込めて宥める。
言葉はかけずに、頭を撫でて、赤子をあやすように軽く背中を叩きながら。



「な、んで…なんで……」
「ああ」
「なんで…いっしょ…いてくんないの……」



仕事なんだから仕方がない、とは言わなかった。
言っても今の悟空は癇癪を起こした子供のように泣き喚くだけだろうし、それを宥めるのもまた疲れる。

今は、好きなだけ吐き出させてやるのがいい。



「…お、れ……っさみし、かったのに……」
「悪かったな」



くしゃりと大地色の髪を撫ぜて、頭を自分の胸に押し付けてやる。
悟空は大人しく埋もれていて、益々声を上げて泣き出した。



「ひっく…ふぇ……さんぞぉ……」
「もう帰ってきたから、泣くな」
「…って…だって……いっつも、すぐ……どっか行く…」



確かに、遠出の仕事が終わった傍からまた遠出、というのはよくある事だった。
最近は妖怪の凶暴性が増したとかで、尚更遠くに呼び出される機会が増えた。
三仏神からの呼び出しも勿論のこと。

妖怪退治ならば悟空を連れて行けば何よりの戦力になるのだが、泊まり先が大抵格式高い寺院というのが面倒臭い。
金瞳を異端と蔑む大元に連れて行く気にはならなくて、結果、置いて行く結果に行き着いた。


それが、逆に悟空を淋しがらせる原因になる。





「…も…っ、やだよ……置いてっちゃやだぁ………!」





顔も知らない人に疎まれるより、大好きな人に置いて行かれる方が嫌で。
顔も知らない人に蔑まれるより、一人ぼっちで待つしかない方が嫌で。

ただ一緒にいてくれれば、傍にいてくれれば、伸ばした手が届く距離なら。
可も知らない人の陰口なんてなんともないし、謂れのない嫌がらせだって平気。
だから、だから。


だから、一人にしないで。



しゃくりあげながら必死に紡がれる言の葉。
腕の中で泣きじゃくる子供を抱き締めて、三蔵は見えないように小さく笑う。

どうしてか、この子供に言われると不思議と居心地が悪くない。
多分、言葉に不純物が混じっていないからだろうと勝手に考えて結論付けた。
それでも他の子供に同じように言われても、自分は何も言わないのだろうけれど。


最初に言ってしまったからか、それとも別の理由があるのか。
三蔵にもその辺りの事はよく判らなかった、けれど。







「置いてきゃしねぇよ」







─────……あんまり真っ直ぐに願うから、それぐらいしか返す言葉は見付からなかった。