いつかの日まで




三蔵が遠方に出向いてから、八日目の夕刻。


ざわざわと、寺院にしては少々似合わぬざわめきに、悟空は目を覚ます。
朝方から午後の半ばまで山で遊び周り、疲れてぐったり眠ったのは、まだ太陽の高い時間だった。
けれども外は既に夕陽の朱色に染まっていて、思いの他長く寝ていたのだと知る。

それから、失敗した、と思った。
今から寝ては夜に眠れなくなって、音の無い部屋の中で一人で起きているのは苦痛だったから。


起き上がって目を擦り、悟空は少しひんやりとした床に足を下ろした。
素足で降りれば当然冷たさが皮膚を襲ったが、気にするほどのものでもない。

腹は減っていたが、食事はまだ部屋に運び込まれていなかった。
三蔵に強く言いつけられているので一日食いっぱぐれる、なんて心配は必要ない。
太陽の沈み具合から見ても、もう少し待てば食べれるのだろう事は判った。



(まだ一人で食わなきゃいけないんだな…)



寺院の料理が美味いと思ったことは滅多にない。
たまに三蔵に連れて行かれる街の飯屋の方が、悟空はよっぽど好きだった。

だが三蔵と言う存在が傍らにいなければ、どんなに美味い料理でも、不味い料理と変わらなかった。
美味いものが不味くなることはないのだけれど、三蔵が傍にいる時のように嬉しいと思えない。
味気なくて淋しくて、それが辛くて、悟空はいつも三蔵と一緒に食事を取るようにしていた。
とは言え長期の仕事で不在が続く折は仕方がないから、腹が減りっ放しよりはマシ、と半ば強引に胃に流し込んでいる。


机の傍に置いてある椅子に、膝を抱えて座る。
行儀が悪いから足を乗せるなとよく言われていたが、もう無意識に身を縮めて丸くなってしまう。
五行山にいた頃も寒さを凌ぐ時こうして丸くなっていたのを覚えている。

もう癖なのかもしれない。
寒さを、淋しさを、誤魔化すように暖を求めて丸くなるのが。


(早く────……)


此処は冷たい風に晒される事もないし、温もりと切り離されている訳でもない。
けれど三蔵がいないと何処にいても結局は暗くて冷たい場所と同じでしかなかった。

でも、それでも思わずにいられない。



(早く帰ってこないかな───……)



抱えた足の膝皿に頭を乗せると、長い大地色の髪が肩の前へと落ちてくる。
それを掴まえて、岩牢にいた頃のように首に巻きつける。
此処はあの暗くて冷たい場所のように寒くはない、けれど、そうしていないと落ち着かなかった。

尻尾のように長いその髪は、遊びまわっているとよく木の枝に引っ掛かって絡まった。
邪魔なら切れ、と三蔵は言っていたけれど────こうして丸くなっている間は、ずっと切れそうにない。


髪の毛をマフラー代わりにして、本当に暖かくなる訳でもないけれど。
それでもマシになるような木がしたから、今はまだ、切りたくなかった。



長い髪の先を指で弄りながら、悟空はこの一週間で何度吐いたか知れない溜息を吐いた。

────それと同時に、部屋の扉が合図なく開く音がした。



弄っていた髪の毛から視線を前へ上げて、背を向けていた扉に目をやった。
人一人通るにはまだ足りない扉と壁の隙間、其処から覗いた金の糸。

八日ぶりに見る金糸は聊か疲れたようにも見えたけれど、それでも悟空の目を覚ますには十分な光。
窓から差し込む朱色の陽光を反射させて、きらきら煌くそれはいつも悟空の心を予告なく奪うのだ。
それが見たいから、こうしていつまでだって彼を待っていられるんだと、そう思える程に鮮烈で。


金糸の持ち主が、廊下と寝室との境を一歩踏み越えるのと、
悟空が椅子を蹴倒す勢いで飛び降り、その人にあらん限りの力で飛びついたのは、殆ど同時。






「お帰り、三蔵!!」





ともすれば押し倒すのではないかと思うほどの勢い。
それでも何度となく繰り返された衝撃であるからか、三蔵が倒れることはなく、小さな体はすっぽり其処に納まった。


少し汚れ気味の法衣に顔を寄せれば、いつもの匂いが鼻腔を擽る。
ついさっきまで泣きたいくらい傍にあった淋しさや寒さは、あっという間に跳んでいった。
ずっと待ち続けていた温もりが戻ってきて、嬉しいばかりで、後の事は頭になかった。

力の限りを持って飛びついたりすれば、後からハリセンで叩かれるのは直ぐ判ること。
けれどそれだって八日ぶりのものだと思ったら、決して怖い訳でも、嫌な訳でもなかった。


だが、いつまで経っても常のハリセンが振り下ろされることはなかった。
変わりにくしゃり、と不慣れな手付きで撫ぜる大きな手。



「……さんぞ?」



ハリセンで叩かれる方が良いと言う訳ではないけれど、違和感を感じて悟空は首を傾げた。



「離れろ、疲れてんだ」
「むぅ」



今度はいつも通りで、頭を押されて無理矢理引き剥がされる。
法衣を掴んで抵抗を試みるも、あっさり離されてしまった。

八日ぶりでもなんでも、三蔵が素っ気無いのは変わらない。
もう少しだけ三蔵の存在を感じていたかったのに、と悟空はこっそりと唇を尖らせた。


さっきまで悟空が座っていた椅子に、三蔵が腰を下ろす。



「ったく、あの狸ジジイ……」
「タヌキ? じいちゃん?」
「他にいねぇだろ」



早速取り出した煙草に火をつける三蔵に、悟空はベッドヘッドに片付けられていた灰皿を差し出す。
それから悟空ももう一つの椅子に座り、先程とは違って足を下ろしてブラブラと揺らす。


三蔵の言う“狸ジジイ”は先方の寺院の僧正の事だ。
悟空にしてみれば、お菓子もくれるし面白い話も聞かせてくれる面白い老人でしかないのだが、
三蔵に対しては色々と揶揄ったり、腹の内を隠して見せたりと、食えない老僧なのである。

だが古い考えに凝り固まった頭の固い者達よりも、三蔵はその老人の事を敬っているつもりだ。
それでも、時折こうやって愚痴に漏らす事はある。



「じいちゃん、元気だった?」
「もう少しジジイらしくした方がいいぐらいな」



それがどの程度のものか悟空にはよく判らないが、元気だという事が判れば十分だ。



「オレもじいちゃん会いたかったー」
「俺は仕事しに行ったんだ、このバカ猿」
「判ってるけど、顔ぐらい見たかったもん」



ぷくっと頬を膨らませて言う悟空に、三蔵は呆れた目を向けるだけ。
その目に疲れた色が濃く滲んでいるのに気付いて、悟空はまた首を傾げた。

仕事の内容は聞いていなかったが、そんなにも大変な内容だったのだろうか。
妖怪退治でも任されたのか、だがそれにしては硝煙の残り香は感じられない。
汗や土の匂いは僅かにあるけれど、それ以外のものは悟空の鼻腔には引っ掛からなかった。



「………三蔵、疲れた?」
「さっきそう言っただろうが」



言う三蔵に、だっていつもの台詞だから、と言い掛けて止めた。

本当に疲れていようがいまいが、三蔵は寝室に戻って悟空がじゃれ付いてくると“疲れた”と言って引っぺがす。
だから先刻の台詞の真偽を、悟空はあまり深く考えていなかったから、もう一度確認したのだ。


帰ったら思い切り遊んでもらおうと思っていたのに、これでは駄目だ。
話だけでもしてくれたら、と考えていたのだが、三蔵の顔を見て悟空は思いなおす。

本当に疲れているのなら、休んで欲しい。
どうせ明日になったら、またあれこれと仕事を押し付けられる羽目になってしまうに違いない。
それなら今日のあと数時間ぐらいは、十分な休息を取る方が断然良いに決まっている。

……自分の我侭は、隠して。



「おつかれさま」



言ってことんと首を傾けると、長い髪がさらさらと重力に従い、流れて揺れた。

それを紫闇が追い駆けて、悟空もなんとなくそれに倣う。
視界の隅で揺れる大地色の髪は、さっき弄っていた所為か、先端が不自然な跳ね方をしていた。



「……伸びたな」
「…そか?」
「また絡まったんじゃねえのか、此処」



不自然に跳ねる先端を三蔵が掴まえる。



「あ、それさっき弄ってただけ。絡まったんじゃないよ」
「……つっても、引っ掛けもしたんだろうが」



不揃いになっている髪の毛先を見ながら、三蔵は溜息混じりに言う。
実際それは間違っていなかったので、悟空は笑って流すことにした。



「ったく、邪魔になるなら切っちまえばいいだろうが」
「だから、それはヤなんだってば」



この問答も何度繰り返しただろう。


遊んでいる最中に髪を引っ掛け、悪戦苦闘しながらそれを解く悟空を見る度、三蔵は切ってしまえと言った。
野山を駆け回るのが日常になっている子供にとって、長い髪はどう考えても邪魔でしかない。
切ってしまえば身軽にもなるだろうに、と三蔵は思っているのだろう。

他にも長い髪の所為で保護者の手を煩わせることも多く、そういう事もあって、三蔵は切れと言うのだろう。
ゆらゆら揺れる髪は動物の尻尾を彷彿とさせ、微笑ましさも演出するのだが、生憎三蔵はそれに対して如何と思うことはない。
手間がかかるだけのものならば、さっさと断ち切ってしまえば良いと。


でも、嫌だった。
寒くて丸くなる癖がなくなるまでは、まだ。



「……正直、ウゼェな」



持っていた髪を手放して、三蔵が呟き、



「鋏持って来い、切ってやる」
「え!?」



続いた言葉に、悟空は咄嗟に後ろ髪を庇うように項部分に手をやった。
三蔵の言葉に、強制的に短くされるものだと思ったからだ。

しかし三蔵は自分の言葉が少なかったのを自覚して、溜息を吐いて付け足す。



「毛先を切り揃えるだけだ。そんなざんばらじゃ、みっともねぇだろうが」
「んー……そうでもないけど……」
「お前は良くても、俺が鬱陶しいんだよ。さっさと持って来い」



後ろ髪を前に持ってきながら言えば、じろりと睨まれる。
それに怯みつつも、そう言いながら全部切られてしまうんじゃないかと思ってしまう。
常日頃から何事かある度、邪魔になるなら切ってしまえと言われていたから。

いつかは切ってしまっても良くなるだろうと思うけれど、今はまだそんな気分にならない。
今いる場所はあの暗くて冷たい場所とは違うと判っているつもりでも、気持ちはまだふとした瞬間に不安になるのだ。


ただの髪の毛を後生大事にするように、悟空は髪の毛を握り締めながら後ずさる。



「ってかさ、三蔵疲れてんだろ? いいよ、今度で」



お愛想な笑みを浮かべながら言っても、三蔵に通用する筈もなく。





数分後には、結局言う通りにする悟空の姿があるのだった。



























髪量が多いからか、切り揃えただけでも随分な髪の毛が廃棄物となって行く。


じっとしていろと言われたから大人しくしている悟空だったが、やはり落ち着けない。
それは単純に自分がじっとしていられない性格だからなのか、髪が切られているという今の状況によるものか。
頭が軽くなったという感覚はあまり感じられないから、すっかり短くなっている、という事はないようだが。

時折身動ぎすると、動くな、とでも言うように頭を押さえつけられる。
姿勢を直すぐらい赦して欲しいと思いつつ、口には出さなかった。


面倒臭いのを嫌う割には、やる事はきっちりやらなければ気がすまないタイプなのだろうか。
適当に揃えてしまえば良いだろうに、三蔵はきちんと整えてくれている。

髪を梳く三蔵の手付きは思いの他優しいものだ。
よく掴まれたり引っ張られたりするのに、そういう時とは全く違って大事そうに触れてくる。
どうにもそれがくすぐったい。



(……いっつもこうなら良いのにな)



思いながらも、それはそれで気持ち悪いかも、と思ってしまう。

普段が“ああ”だから、こういう些細な優しいところが好きなのかも知れない。
……と言うよりも、普段から常に優しさを前面に出す、という保護者像が頭に浮かんでこないだけか。



「前髪切るぞ。目閉じてろ」
「んー」



前に回った三蔵の言葉に、大人しく言うとおりにした。



こうして髪を切ってもらうのは初めてのことではない。


街に出れば理髪店でもなんでもあるのだが、なんとなく、悟空は知らない人に自分の髪を触らせるのが嫌だった。
別に首を切られる訳じゃないんだと三蔵に言われたけれど、慣れないものは慣れないのだから仕方ない。

そうしているうちに無精にしていた髪は伸びていった。
遊んでいる間に絡まる回数が増えて、寝相が悪い所為で起き抜けに髪が引っ張り合って痛くなったりもした。
髪の毛同士が絡まったのを自分で解こうとすれば、余計に引っ張ってしまう羽目になる。
結果、三蔵に泣きついたのも一度や二度の話ではなく、最終的にはやはり保護者にお鉢が回るのだと双方とも実感した。


伸び放題で放置するのも格好が悪い。
けれど、悟空は三蔵以外に髪を触らせるのを嫌がる。
安心して任せられるのは、他でもない保護者だけ。

やはり此処でも任せられたのは保護者である三蔵で、数ヶ月に一回、最高僧の寝室でこうして散髪が行われるようになった。



シャキシャキと規則正しい鋏の音と、間近に紫闇の気配。
今目を開けたら何が見えるかな、と思いながら、悟空はぎゅっと強く目を瞑る。

一度だけ好奇心に負けて目を開けた事がある。
その時見えたのは、間近で真っ直ぐに射抜いてくる強い紫闇と、それと一緒に煌く金糸。
……正直言って、心臓が本気でびっくりしたものだ。


見たい、けど、見たくない。
矛盾した気持ちを抱えつつ、悟空はこの作業が終わるのを待った。



「……街に行きゃこんな手間かからないで済むってのに……」



ブツブツと聞こえてくる愚痴に、悟空はごめん、と小さく呟いた。
それはしっかりと聞こえたらしく、じゃあ行け、と言わんばかりに頭を軽く叩かれた。



「だってしょうがないじゃん、嫌なんだもん」
「勝手にぶった切られる訳じゃねえぞ」



悟空が懸念しているのが“短くされる”事だと思っての台詞。
けれども悟空はそうじゃなくて、と言い掛けて、結局やめた。
じゃあ何故なんだと言われても、其処は悟空にもよく判らなかったのだ。

どうして三蔵以外に触られるのが嫌なのか、ただの食べず嫌いで慣れていないだけと言われればそうかも知れない。
この寺院で友好的な目で悟空に触れるものは滅多にいないから、警戒心が先立ってしまっているだけなのだと。
でもそう考えても悟空の中でしっくり来なくて、頭を傾げるしかなかった。


判るのは、三蔵に触られるのは好きだ、という事だけ。



「目、開けてもいい?」
「ああ」



三蔵の気配が少し離れたのを感じて問えば、肯定。
瞼を上げると、ほんの数秒前まで眼前に降りていた前髪はスッキリと短くなっていた。



「ね、終わった?」
「……ああ」



そわそわしながら問いかけると、先程と同じ返し。
切った髪がかからないようにと被っていた布を放り、悟空は寝室横の洗面所に向かう。


洗面所の鏡を覗き込めば、少しだけすっきりした印象の自分の顔。
後ろ髪を手繰り寄せて前に持ってくると、毛先が綺麗に切り揃えられていた。

坊主を呼びつけて寝室の掃除を命じている三蔵の声を背に聞きながら、悟空は短くされずに済んだ髪を首に巻いてみる。
気の所為かも知れないけれど、やはり少しだけ暖かく感じるような気がする。
下ろしてみると丁度腰までの長さを保たれていて、少しだけホッとした。


短くしてしまえば、こうする癖も次第に抜けるかも知れない。
長いままだから、出来てしまうから繰り返してしまうだけ。
なくなってしまえば未練も何もあったものじゃないから。



(……でも、もうちょっとだけ)



自分で“切りたい”と言えるようになるには、まだ時間がかかりそうだった。


それに。
それに、三蔵にこうやって髪を切って貰ったり、絡まった髪を解いて貰うのは嫌いじゃない。
束の間だけれど触れる手がとても優しくて、とても幸せになる気がするのだ。

三蔵にとっては手間がかかるだけでしかない作業だけれど、悟空はそれを気に入っている。
短くしてしまうとその時間が減ってしまって、惜しむ気持ちもあってまだ切りたくはないのだ。


切っても相変わらず長いまま保たれる髪の毛先を弄りながら、悟空は寝室に戻った。



「三蔵、ありがと」
「礼言うぐらいなら、自分で切れるようになれ」
「ヤだ。三蔵に切って貰うのがいい」



きっぱり言い返すと、面倒臭ぇんだよ、と睨まれる。
しかし数瞬後には溜息を吐いて、



「……まぁ、お前にやらせると血の海になりそうだしな」
「そんなに不器用じゃないやい」
「じゃあ次から絡まった髪は自分で解けよ」
「ヤだ! 三蔵にやって貰うの!」



三蔵の背中にくっつきながら言えば、ハリセンの音。
何処までも手を煩わせてばかりの養い子に、元々短い三蔵の堪忍袋の緒がいつまでも持つ訳がないのだ。
けれども叩かれた子供の方は平然としたもので、背中から離れようとしない。



「なんでもかんでも俺にやらせんな」
「だって三蔵がやった方が早いんだもん!」
「だから、そりゃテメェが不器用だからだろうが!」
「不器用じゃないもん!!」



剥れて反論する子供に、三蔵は高い声が頭に響くのか、米神を押さえて眉根を顰めた。



「……せめて纏められりゃ、少しはマシなんだろうがな……」



溜息混じりに呟く三蔵に、悟空は腰の辺りで揺れる自分の髪を見下ろした。


ふわふわとした髪質は、ご丁寧に先端まで生きているらしい。
すこし癖っ毛気味の髪は風が吹くと尻尾のようにゆらゆらと揺れて、少しだけウェーブがかかっている。

悟空の髪で一塊に落ち着いているのは、項にかかる部分だけだ。
その下からは、直ぐに左右に広く広がっていてしまっている。
ストレートと言うには無理がある髪は、そのお陰でよく絡まるのかも知れない。

思えば遊んでいる最中に枝に引っ掛けてしまうのも、同じ理由だ。


三蔵の言うとおり、もう少し中心部に纏めることが出来れば今ほど頻繁に引っ掛かる事はなさそうだ。



「だってしょうがないじゃん、広がっちゃうんだもん」



髪質の事まで文句を言われてもどうにもならない、と悟空は頬を膨らませて反論する。

悟空の拗ねた顔を、三蔵は無言のまま見つめる。
それもややすると溜息を吐いて視線を逸らし、腰掛けて椅子から立ち上がる。



「三蔵?」



移動する三蔵の背中にくっついている気にはならなくて、悟空は床に下りた。


三蔵がベッドに向かっているのを見て、そりゃそうか、と納得する。
長期の仕事から帰ってきて疲れているのだから、子供の相手をするよりも先ず休もうと思うのは当然の話だ。

正直もう少し構っていて欲しかった悟空だったが、彼が疲れていることは重々承知しているつもりだ。
休むよりも先に悟空の髪を切ってくれたと言う方が、彼の優先順位を考えると珍しいことだった。
それだけでも十分構いつけて貰ったのだと思うと、これ以上構えとは、とてもじゃないが言えない。



「寝るの?」



判っていて確認のつもりで問いかけると、肯定の返事。
窓の外を見れば夕の色は既に闇に染められて、夜と言える時刻になっている。

もう少し待っていたら、恐らく夕食が運ばれて来るだろう。
食事の事を考えると思わず腹が鳴ったが、ベッドに入った三蔵の横に勝手に潜り込んだ。
三蔵は一度ちらりと悟空の方を見たが、何も言わずにまた横になる。



「三蔵、おやすみ」
「……あぁ」



背中を向けられたままなのは少し淋しかったけれど、手を伸ばせば届く距離に大好きな人がいる。
それだけで今は十分なのだから、これ以上の我侭は言っては駄目だ。

こんなに近くにいても追い出されないのは自分だけなのだから。






目が覚めたら、絡まった髪を解いてもらおう。

広い背中に頬を摺り寄せながら、決めた。