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(…………痛え)

(………熱い)

(……寒い)



相反したものが溢れてくる。
溢れて零れて、失われていく。



ぼんやりと浮上した意識の中で、最初に感じたのは鈍痛のような鋭痛のような。

体内からマグマが溢れてくるような熱さもあったし、内蔵にマイナス温度の冷水を直接流し込まれたような寒さもあった。
それらはもう熱さ寒さと言えるレベルを超していたのかも知れなかったが、生憎其処までは判然としない。
自分の体の感覚器官がまともな働きをしているとは、最早思えなかった。


そう思うくらいには、どうやら頭の中は冷静になっていたようだった。



(……あー………)

(痛え、のかな)

(そろそろ判んなくなって来たか)



どくどくと溢れて失われていくものが多過ぎてだろう。
生命に危機を感じさせる為の痛覚が、段々と失われて来ている。
こうなったら、もう駄目だろう。


でも。
麻痺したのなら、動けるだろうか。

動かないだろう程にボロボロになった体も、騙されてくれるだろうか。


(熱いとこ、と)

(寒いとこ、が)

(ある)


動くと噴出すものがある。
動くと流れていくものがある。
それらは全て熱い熱いもので、きっと失われたらいけないもの。

指先の末端が酷く冷えてきて、其処から先の感覚はない。
冷たい、と言う事だけがどうにか認識できる程度で、何かに触れても何も感じ取る事が出来ない。


それでも、どうにか起き上がる。




(─────ああ)




目の前に広がったのは、きっと“不浄”を許さぬこの世界に置いて、あってはならない筈のもの。
だけれど同時に、“生”を感じさせてくれる何よりのもの。

死臭が其処には溢れていた。



恐らくそこそこ広いのだろう空間は、その床に横たわる者達で埋め尽くされ、酷く窮屈に映って見えた。


壁に寄り掛かりながら立ち上がり、そっと、横たわる者達を覗き込む。
見開かれた金色は、見慣れたものより幾らかくすんだ色をしていたけれど、それは多分、この者達がもう動かないからだ。
そして理由も判らず生み出され、意味も判らず閉じ込められ、出来損ないと罵られ、温もりに触れる事がなかったから。

自分は、これとよく似た金色を、それぞれ二つ知っている。
同じようにくすみ掛けた、けれどもまだ僅かに光を失うまいと小さく輝く金色と、
何よりも爛々と、空の太陽よりも眩しく輝き、全てを照らして笑う金色。


そのどちらもが、自分はとても大好きで。


それを思うと、この冷たい床と、冷たい紅の中に横たわる者達も、嫌いにはなれそうにない。
だって彼らに罪はない、あの子供達に何も罪などないように。

ここで眠る者達も、此処にはいない子供たちも、全ては周りの汚い大人に勝手に利用されただけ。
ならば謝らなければ、贖罪を受けなければならないのは、彼らではなく彼らを巻き込んだ大人達の方だ。
もっと自由に駆け回って、もっと眩しく輝いて良い筈の子供達を、勝手に鎖で雁字搦めにしたのは自分達なのだから。



少し頭を上げて前を見ると、壁があった。
壁には此処で眠る者の巨大な手がめり込んで、其処から潰れかけた手が覗いている。

正直言って、グロテスクな風景だ。
今までだって人の腕がもげたり、首が飛んだり、内臓から散ったり…そんなものを見てきたけれど。
それとは別の意味で、気持ちの良い風景ではない。



(……自由に)



座る───と言うよりも、ずるりずるりとしゃがみ込んで。
そのしゃがんで床に手をついた直ぐ手前に、見開かれた金色がある。



(なれたか? ……お前らは)



生まれてから、今まで。
訳も判らず閉じ込められて、誰にも愛を与えられずに、生かされ続けた子供達。
大人の勝手な都合で生まれて、望まれない形だったからと、打ち捨てられた子供達。

この薄暗くて狭い、小さな小さな世界しか知らなかった子供達。
もっと明るい箱庭もあるんだと、それすら知る事を許されなかった子供達。


……何が、自分に出来ると思った訳でもないけれど、それでも。



見開かれた目の上に手のひらを置いて、そっと瞼を下ろす。
人よりも、どちらかと言えば獣に近い姿形をした者達は、それでもまだ苦悶の顔をしていた。



(…………自由、に)



此処ではない、何処かへ。
此処にはない、“楽園”へ。
この者達は、逝く事が出来ただろうか。

それが何処だって構わない。
少なくとも、この世界よりはきっと広い場所へいけると思う。


子供は広い場所で、自由に駆け回っているのが良い。
こんな狭くて暗い場所で、誰にも愛されないなんて絶対に間違っている。

生まれてきたなら誰だって、広い広い世界を知って、自由に生きて良い筈だ。
大人になったらどうしたって色んなものに縛られるのだから、それまで自由に生きて良い筈だ。
何も知らない内から閉じ込められて取り上げられたりなんか、されなくたって良い筈だ。


魂が消えた者達の巨体は、どうしたって持ち上げる事は出来そうにない。
大人が数十人かかってようやくと言った所だろうか。

陽の下で弔ってやれたら、もっと良かったのに。
自分は、もうそんな体力も気力も、時間も残っていない。


だからせめて、消えていった魂は、陽の傍を目指していれば良いと思う。

自由を求めて、自由を目指して。
留めようと縛ろうとする鎖なんて灰にして─────……



もう一度立ち上がって、紅に塗れた世界の中、ぽっかり空いた一つの床に歩み寄る。
覗き込んでみると、其処には何も存在せず、空虚な穴が空いているだけ。

……反りの合わなかった上司の姿は、其処にはない。


落ちた訳ではないだろう。
あれからどれ程の時間が経過しているのかは判らなかったが、もう部下達とも合流していると予測して間違いない。

そして多分────自分は、死んだ事になっていて。


(……それならそれで、都合がいいな)


仮に、そうでなかったとしても。
追ってくるなら多分、彼一人になるだろう。
それは上司としてであり、全ての経緯を見届けた者してでもあるから。


物語は、広く普及すればする程、様々な尾びれ背びれが着いて行く。
そしてこの物語に着く尾びれは、間違いなく真実からは遠いものになるだろう。
伝えられて行く間にも、その嘘は真実となり変わって息衝いて行く。

……ならば、真実を知る者はほんの僅かで構わない。
真実が“真実”として、物語が紡がれていくのならば。


(でも、まぁ……騙せそうにねえ奴もいるけど)


ふ、と。
浮かんだ傲岸不遜を地で行く人物と、その隣でいつも胃痛を起こしている側近。

彼女にだけは、誰が何人束になったって敵わないだろう。
彼女ほど敵に回して厄介な相手はないと言える。


でも。



(大丈夫だろ)



何故かって?
そんなのは簡単な事だ。

背を押したのは、彼女だから。


彼女は全ての真実を見通し、甥とその連れの愚行を見詰め、きっと笑んで見せるのだろう。
愚か者達が辿った軌跡を後に思い出しながら、莫迦は見ていて飽きないな、と。



ずるり、足を引き摺りながら歩き出した。
懐を無意識に探ったが、目当てのものは其処にはない。

苦笑が漏れた、それはそうだと。
あってもどうせ吸える状態ではないだろうし。


煙を吸い込んで咽た子供と、その背を撫でてやりながら睨んできた保護者を思い出す。

いい機会だから、少しだけ禁煙に努力してみようか。
煙草が美味いと感じる瞬間はそれはそれは好きなものなのだけど、子供が咽てしまうんじゃ仕方がない。
保護者もお冠になる事だし、完全に吸わなくなるのは多分無理だろうが、量を減らす位なら出来るかも知れない。


……死が、溢れた部屋。

…生が、零れていく部屋。


其処にいるのは、二度と動かない者達と、もう一度動いている自分。






血錆でガチガチになって止まりそうな歯車を、強引に動かして。

外を知らないままで逝った、子供達を置いて。
自由も束縛も、その意味もその存在も、教えられる事も与えられる事もなかった子供達を、置いて。


目指すのは、ただ一つ。


───────約束の地へ。



































愚図る子供を慰める言葉を、金蝉は持ち合わせていなかった。
同時に、何を言ってもどうにもならないと言う事も判っていた。

優しい嘘を吐けるほど器用ではなく、今の子供にそれを信じさせる事も出来ないだろう。
だからと言って真実を突きつけてやるほどの強さを自分は持っていないし、音にした瞬間に子供が泣くのは目に見えていた。
この子供の泣き顔だけはどうしても苦手だったから、結局、何も言わずに抱き締めている。



風に揺れて、さわさわと音を立てる桜の木。
同じものを遥か天上でも見ていたのに、どうしてだろうか。

全く同じもののようには、見えない。


『生き様が違うんだよ』と言っていた男の言葉の意味が、ほんの少しだけ、判るような気がした。

でもそんな風に感じられるのは、今の自分と数時間前の自分が違うから、かも知れない。
随分と長い間、久しく忘れていた沢山のものが、溢れ出して止まらないから。


生きている。
生きている。

そう、感じる事が出来る。
自分も、腕の中の子供も、生きているのだと。
感じる事が出来るのだと、判る。


最後の一日が始まって、どれ程の時間が流れただろう。
数え切れないものを置き去りにして、それらの事が全く気にならなかった訳じゃない。
けれども、その置き去りにした者達には悪いが、それ以上に腕の中の子供の事が大切だった。

こんな自分を少なからず慕ってくれた僅かな者達は、きっと自分以外にも大切なものがあって、その者達からも大切にされているだろう。
…だけれど、この子供には自分たちしかいなくて、今となっては自分以外は何も残っていないのだ。


自分は太陽ではない。
金蝉はそう思っているし、太陽なのは寧ろ────そう、思ってもいる。

だけれど、腕の中で愚図る小さな子供にとっては、金蝉は太陽なのだ。
どうにもむず痒さが抜けないのは、単純に慣れていないだけで、嫌であるとは思えない。
それならば、あの時傲岸不遜な彼女が言った言葉になんと返すべきか、今なら判る。



この子供が、自分が太陽であるというのなら。
なってやろうではないか。

子供ほどに眩しい光りにはきっとなれないだろうけど、せめて包むぐらいは出来るだろう。
怖い事があると言うなら手を繋いでやるし、淋しいと悲しいと言うなら抱き締めてやる。
それぐらいなら、こんな自分でも出来るから。


淋しがり屋の子供が一人ぼっちにならないように、ずっとずっと、傍にいよう。


……でも、今は。

どんなに撫でても、手を繋いでも、抱き締めても。
子供は泣き止まないし、泣き止ませるのはきっと無理だと判っている。



そして、金蝉もほんの少し────いや、もしかしたら自分でも思っている以上に、空虚感があって。
食えない旧知の友人だとか、軽口を叩く図体の大きい子供のような男だとかが、此処にいないのがその原因。

子供が泣いているのは、多分、そんな自分の代わりに泣いているのもあると思う。
大人は子供よりも理性が強いから、見っとも無いとか格好悪いとか、らしくないとか、そんな理由で泣くのを止める事がある。
それはきっと、涙を流すよりも苦しいから、代わりに子供は泣き続ける。



泣いていい。
泣いて泣いて、泣き続けて。

それでいつか笑ってくれるなら、幾らだって泣いて構わない。



それでいつか、彼らも願ってくれた子供の笑顔が、もう一度見られるというのなら。





─────風が、一度強く吹いた。



ざあんと木の枝々が揺れて擦れあう音がして、桜の花弁が舞い踊る。
地面に落ちて伏していた花びら達までもが、吹き上がるようにして宙で弧を描いた。

それが一瞬、視界を遮り。


晴れた直後、此処に来るまでに辿った道筋の向こうに、人影を見た。


ほんの一瞬視界が遮られただけなのに、まるで別の場所にいるような気がした。
それは多分、見つけた人影に、まさか────と言う思いがあったからだ。

まさか、此処にいる筈が、と。


子供を抱いた姿勢のまま、金蝉は目を凝らした。
桜色と吹き抜ける青空と、辿ってきた丘の緑の中で、ゆっくりと歩いてくる影が一つ。

少しずつ近付いてくる影が形を、色を、その成り立ちをはっきりと伝えてくる距離になった頃。
金蝉は無意識に、子供を抱き締める腕に力を込めていた。
その所為か子供は息苦しそうに身動ぎしたが、その時の金蝉には、それにも気付く事が出来なかった。


「金蝉……?」


どうしたの、と。
腕の中の子供が問い掛けてきたが、金蝉は答えない。


保護者の様子が可笑しい事に、悟空は首を傾げた。
こっちを見ていない紫闇に不安を感じてか、自分を見てと金糸を軽く引っ張る。
そうすると、出逢った最初に引っこ抜かれてしまった所為だろう、止めろと声がかかるのだ。

けれども、今回はそれもなかった。
こっちを見てもくれなくて、悟空はむぅと頬を膨らませる。



が、直ぐに止めた。



此方を見ない紫闇が別のものを見ている事に気付く。
何をそんなに気に留めているのかが気になって、悟空は首をくるりと巡らせた。

その金色の瞳の目前を、ふわりと大きな花弁が一瞬塞いで、流れる。


流れてそして、見つけたのは。




ゆっくりと、何処かふらりふらりと。
揺れているのは上の部分で、足元は意外としっかりと地面を踏みしめていた。

柔らかな緑の若草が生い茂り、土を多い尽くしている丘を歩んでくる、一人の男がいる。



黒を基調にした服は見るも無残なと言う言葉がよく似合うほどにボロボロだ。
けれども悲愴を感じさせないのはどうしてか、恐らくそれを纏う人物の表情の所為だろう。

折れた短い煙草を銜えて、それには火が灯されていない。
しかしまるで点いているかのようにも見えるのは、いつも煙草を吸っていた時の表情と変わらないから。
上半身をふらふらさせているのも、眩暈がするとか言うのではなく、物見を楽しんでいるかのような雰囲気で。


男は周囲の色を、風景を、匂いを風を楽しむように、あちらこちらに視線を遣りながら歩く。
いつもと同じ足取りで、いつもと同じ表情で、いつもと同じ雰囲気で。


服があれだけ酷い有様なのだから、中身はきっと、もっと酷い。
ジャケットのポケットに突っ込んだ手とか、少し不自然な揺らし方をしている肩とか、
たまに足元を気にするのも多分そうなのだろうけど、やっぱり悲愴は感じられない。
悪ふざけをして転んだ時にドジやった、なんて言い出しそうな。

火の点いていない煙草を、まるで吸っていたかのように吐き出す仕草をしてみたり。
ない筈の紫煙が風に流されるように見えるから、見ている側には不思議なものだったけれど。
……多分、それで馴染んだ煙の味を楽しもうと思っているのだ、次の煙草がもうないから。



別れ際まで凶器を握っていた右手は、もう煙草以外は何も持っていない。


ひらり、右手が持ち上がる。




「よう」




いつものように、挨拶されて。
抱き締められていた子供は、零れんばかりに目を見開いた。



悟空がふらりと立ち上がると、金蝉は抱き締めていた腕を放した。
裸足の足が若草を踏んで、近付いてくる人へと向かう。

数時間かぶりに金蝉が立ち上がったのと、悟空が駆け出したのは同時だった。


縺れそうになる足を叱咤して走る悟空を見て、彼は笑った。
笑ってしゃがむと、悟空に向かって両手を広げてみせる。

黒の服の下に、部分的に変色を始めている肌があった。
隙間から裂傷が見えた、蒼痣があった、貫かれている穴があった。
だけれど悟空は我慢できなくて、躊躇う暇もなく、その腕の中に飛び込んだ。



「──────ケン兄ちゃん……!!」



喉から詰まっていたものを吐き出すように、名前を呼んだ。
おう、と小さな返事が聞こえて、悟空の視界はじわりと滲む。


「ケン兄ちゃん、ケン兄ちゃん、ケン兄ちゃん……!」
「おう。聞こえてるよ」


ポンポンと頭を撫でる、大きな手。
大好きな保護者の手とは少し違う、ごつごつとした大きな手。

もう二度と、撫でて貰えないと思っていた大きな手。


厚い胸板に顔を埋めると、鼻腔を掠める幾つかの匂い。
それは嫌なものもあったけれど、それよりも嗅ぎ慣れた煙草の匂いがとても居心地が良くて。
ぐりぐり鼻先を押し付けたら、くすぐってぇよと笑う声が振って来た。


抱きついて離れない子供の頭を撫でながら、捲簾は顔を上げた。
すると、未だ僅かに信じられない────そんな顔をした子供の保護者と目が合う。


「酷ぇなあ」
「………?」


苦笑と共に漏らした捲簾に、金蝉は眉根を寄せる。


「幽霊に出くわしたみてえな面してるぜ」
「……気分的には似たようなもんだ」
「だから酷いってんだよ。なぁ、悟空」


細い肩に手を乗せて、胸から悟空の顔を離させてから、捲簾は言う。
悟空はいやいやするように捲簾の服を握り締めたが、見下ろす瞳の色に気付いて、悟空は捲簾を見詰め返した。


「金蝉の奴、俺が此処に来れねえと思ってたんだぜ。酷ぇよな」


そう言いながら。
悟空もそんな風に思っていた事を、捲簾も気付いていた。
無理もないし仕方がないとも思う、別れた時は彼自身もそのつもりだったから。

でもこうして辿り着く事が出来たのだから、あの時の想いはどうあれ、今は笑い話にしてしまいたい。
だって今目の前に存在する事が赦されているのだから。


捲簾の言葉に悟空はしばしきょとんとして、一瞬、じわりと涙を滲ませた。
だがそれが零れ落ちる事はなくて、ごしごし乱暴に腕で拭われる。


「そーだよ、酷いよ金蝉!」
「お前な……」


声を弾ませる悟空に、呆れた表情を作る金蝉だったけれど。
その口元が緩んでいる事には、誰もが気付いていた。

泣いたカラスがもう笑った、それで良い。
笑ってくれるのなら、それで。


「オレは信じてたもん」
「おう」
「ホントだよ。ホントにホント。ケン兄ちゃん、後で来るって信じてた」
「そっかそっか。ありがとな」


じわじわ滲む涙に、悟空も捲簾も、金蝉も気付かない振りをして。
信じていたと繰り返す悟空の頬を両手で包んで、捲簾は笑う。


事実がどうであったとしても。
そんな風に言う事が出来るのが、今は嬉しい。

信じてる、信じてる、信じてた。
そう言う事も、言って貰う事も、もしかしたら出来なかったかも知れないのだ。
嘘でもなんでも良い、今はそう言って貰えることが嬉しかった────心から。



「そんなお前にご褒美だぜ、悟空」



くしゃくしゃ頭を撫でて告げられた言葉に、悟空はきょとんと首を傾げた。