Reset







(あ、寝てた)




意識が戻って最初に思ったのは、それだった。
目覚め方がいつもよりも随分唐突でクリアだったけれど、感覚的にはよく似ていたような気がしたのだ。
体の重さとか、だるさとか、直ぐには働かなかった頭だとかが。

けれども数分の間そのまま過ごしていたら、少しずつ、体の重さの理由が判ってきた。
ああ足りないからだ────と、下敷きにしていた真紅の冷たさを感じながら。


いつも着ているヨレた白衣は、もう白い部分の方が少ない。
紅と言うにも変色した所も多いだろうから、洗ってもきっともう取れない。

でも、極力目立たない位には落とさないと。
だってあの子に心配をかけてしまう、それは余りにも心苦しいではないか。
あの子にはいつだって、何も不安なんて感じないで笑っていて欲しいのに。



眠気はもう感じなかった。
それより、無性に煙草が吸いたい。


ごろり、仰向けになる。
それだけで体のあちこちが悲鳴を上げたようにも思えたが、気の所為のようにも感じられた。

色々な感覚器官が可笑しくなっているのだろうが、それならそれで良い。
そんな事より煙草、そっちの方が大事だった。
煙嫌いの旧知の友人が聞いたら呆れ帰りそうだが、此方は正反対にヘビースモーカーだ。
どうしたってこればっかり止められない。


けれども探ってみた懐からは、酷い有様の煙草しか見付からなかった。



(買い置き)

(の、煙草は)

(なかったんですよね)



残り数本だったから、買い足さないとと思っていて。
買い置きと言えば、残っていたのは煙草じゃなくてラーメンだ。


あれは、何のつもりで買ったラーメンだったのだろうか。
自分の食事のつもりだったか、最近食事を作る時間がないと言う部下に渡す分だったか。
多分、最初に買った時はそんな気分だったのだと思うのだけど。

でもそう思った後に浮かんで来たのは、眩しい金色。
不器用な保護者が作ったマズいラーメンしか知らないようだったから、もっと簡単で美味しいものもあるんだと、教えてあげようと思って買ったのだったか。


どれをどのタイミングで買ったんだろう。

とんこつ、醤油、塩、味噌……一通りは揃っていた筈だから、いつでもどれでも作れたのに。
結局それも買ったままの放ったらかしになってしまった。



(持ってくれば、良かったな)



あの子は直ぐにお腹を空かせてしまうから。
お腹一杯食べた時は、とても幸せそうに笑うから。

ピクニックに食べるのも良いなと思ってから。
ああ、外だとお湯がない、と気付いてどうしようかと考えてみる。
川辺と森のピクニックなら、焚き火をして水を沸かせば大丈夫か。


それから────眼鏡のスペアだ。
なくても見えることは見えるけれど、やっぱり視界は良好とは言い難い。

でも部屋の何処に置いたのだったか覚えていない。
まぁ、その内出て来るだろうと思っていたのだけれど……多分、もう必要ないだろう。
新しく誂えた方が早そうだ。


じんじんとした痛みが引いて来た。
正確には痛みが引いたのではなくて、感覚器官が先に根を上げただけなのだろうけど、無視する。
悲鳴を上げられると何をするにも億劫になるから、判らない位が丁度良い。


なので、一つ息を吐き出して、ゆっくりと起き上がる、が。
内臓が飛び出しそうな痛みがあって、また床に落ちた。

後頭部を打ったのが痛い。
じっとしているとなんともないのに、動くと痛い。
その辺りも麻痺してくれれば良いのに。



仕方なく、仰向けに寝転んだままで天井を見上げて────其処に飛び散った紅い絵の具を見つけた。



首だけ動かして辺りを見れば、酷い有様だ。
惨状と呼べる惨状の姿を一枚絵に凝縮させたらこんな風になるのかも知れない。


切り捨てた亡骸の幾つかには見覚えがあったけれど、それが誰であるのかまでは考えなかった。
謝罪をして赦される訳でもなかったし、それをすると自分が選んだ道を否定する事になる。
それでは切り捨てた元同僚達は、どうして死ななければならなかったのだと言う話になるだろう。

斬るのなら、切り捨てるのなら、生半可な気持ちでいる事だけは、あってはならない。
それは斬ったものへの侮辱になるから。



(謝らない)

(後悔しない)


(もう道は違えていたから)



こうなる事は必然で。
刃を向ける事は当然で。

生き抜く為に、目指した“楽園”に辿り着く為に、こうなる事は避けられなかったのだから。


だから、斬る時は躊躇わずに斬った。


斬った事は謝らないし、立ちはだかった事を非難する気もない。
それが彼らの選んだ道で、自分たちの選んだ道はそんな彼らにとって仇なす対象であっただけの事。
天界に背いた自分たちを彼らが処罰しようと言うのは、逆の立場ならば自分も同じようにする事だった。

だから、謝らないし、後悔しないし、振り返らない。



打った後頭部の痛みが薄れて来て、もう一度起き上がる。
さっきよりも殊更ゆっくり、痛みがあっても落ちたりしないように。

ずるりと体を引き摺って、壁際まで運ぶ。
柱に手をかけて、どうにかこうにか、足を立たせる事が出来た。
柱に縋るように持たれかかって、無い力を振り絞って体を持ち上げる。


それだけで喉から呼吸が漏れて、ひゅーひゅーと掠れた音が鳴っているのが聞こえる。


歩き出すと、足元が滑った。
赤い液体があちらこちらに散らばって床を塗らしていて、その上を裸足で歩いているのだから当たり前だ。
でも脱いだ靴下も下駄履きも、何処にあるのかもう見つけられない。

いつも片付けを任していた彼に頼んでも、今回ばかりは見付けられないのではないだろうか。
落として踏んでしまった眼鏡が、欠片も見付けられそうにないのと同じで。



床に倒れ伏して二度と動かない亡骸達を跨ぐ。
何時間か前に───ひょっとしたらほんの数分前に通ったばかりの道を戻る。

不思議と、静けさだけが其処にはあった。
続く廊下には紅い景色が続いていたけれど、其処に見慣れた姿形は見当たらない。
動く人の形は何処にも無くて、どうやら動いているのは自分だけのようだった。


追っ手は、もういないのだろうか。
自分は、どれ程の時間を眠っていたのだろう。

その間に、誰か此処にきただろうか。
来たとして、自分は一度は発見されたのだろうか。
されたとして───回収されないと言うパターンはあるのだろうか。

それとも何か他の事態でも起きていて、此方に構っていられなくなったとか────……



(まあ、なんでも良いですね)



もう自分には関係の無い話だし。
関係があってもどうにか出来る立場ではなくなったし。
そういうものを、一切合切放り投げて、此処にいる訳だから。

それより見たいものが、今はある。


放って置いてくれているなら、それで良い。
もう関わらないでくれるのなら、それが良い。
死んだ事にでもしておいてくれれば、良い。

それなら、もう何も、あの子を怖がらせるものはない。
あの子から大切なものを奪っていく者はいない。



(煙草)



吸いたいなあ。
思考が一番最初に戻って、そう思った。

あの子は、煙草の煙によく咽ていて、それを見た保護者が板についた旧知の友人は、此方を睨みつけていたけれど。
吸いたいなあと思って其方を気にして我慢していると、子供の方が気付いて煙草を持ってきてくれる。
気遣いが嬉しくて、それを無駄にしたくなくて、じゃあ一本だけと言っていつも煙草に火を点ける。


吸いたいなあ。
あの子が持って来てくれた煙草。
はいどうぞって、持って来てくれた一本。

吸いたいなあ。



生きてると感じさせてくれる美味しい煙草が、吸いたい。





屍の山の上を、歩く。
歩く度に膝が笑う。

崩れ落ちそうで、でも崩れる事はまだ出来ない。



あの子が持って来てくれる煙草。
もう一回吸うまで、まだ死ねない。

もう一回。
もう一回?
いや、何度だって。

だってほら、指切りだってしたのだし。




“生きてる”と感じさせてくれる、美味い煙草と、眩しい笑顔。

それが感じたいから、見たいから。


───────約束の地へ。


































「ご褒美、って?」


問い掛ける悟空に、捲簾はにーっと笑ってみせる。
それがなんだか楽しそうで、嬉しそうで、悟空は益々首を傾げた。


大地色の髪を撫でていた手が離れて、捲簾が立ち上がる。
捲簾は悟空を見下ろして、それから金蝉と一度目を合わせて、親子が揃って首を傾げる様子にくくっと笑った。

何だろうと不思議そうに見上げてくる子供の頭を、少し強引に動かして、ある方向を向けさせた。
そして自分もくるりと踵を返して、自分が今しがた降りてきたばかりの丘を見る。
金瞳と紫闇も其方を向いた。


「約束守って此処に来たのは、俺達だけじゃないんだぜ」


その言葉の意味を金蝉が問い掛けた、けれど。
捲簾は何も言わずに、緩やかな坂になっている丘を指差す。


──────と。


丘の向こうから現れたのは、薄汚れて所々黒に滲んだ白衣を着た男で。
いつも口に銜えている煙草は相変わらず其処にあったけど、火は点いていなかった。

その影を見つけて目を丸くする悟空を、捲簾はくしゃくしゃ頭を撫でて、その場を退く。
子供からも、その後ろに立つ金蝉からも、近付いてくる影の形を判るように。





ゆっくり、ゆっくり。
先に現れた男と同じような歩調で、歩み寄ってくる男が一人。


風で時折白衣の裾が翻って、その所為で、白衣が実は裏返しなんだと知る。
裏地になった本来の表地は、もう白衣とは呼べない位に色々な色に染まっている。
でも着替える暇も、着替えられる代わりの衣もなかったから、急場しのぎでこんな処置。

いつも首にきちんと絞められていたネクタイは、右腕をぐるぐる覆っている。
其処から白衣に滲んでいる色があったけれど、何故か痛そう、とは思えない。


多分、先にやってきた男と同じで、彼の表情がそんな風に思わせる。


火の点いていない煙草を弄る仕草とか、長い前髪を時折掻き揚げてみせる仕草とか。
何処か眠たそうにも、気だるそうにも見えるその仕草が、何よりも彼らしく見えた。



足元はどうしたのだか、いつも下駄履きがない。
どころか靴下もなくて、裸足で地面の上を歩いている。
若草が土を覆っているから、多分、痛くはないだろう。

そんな痛みなどよりも、足の裏から感じられる大地の息吹を堪能しているようにも見えて。
いつも裸足で歩き回っていた子供は、こんな気持ちで歩いていたのかなぁと考えたりもしていて。



道を切り開く為に握り締められていた凶器は、もうない。
いつも持っていた本も、今は其処にない。

あるのは、彼自身の姿形、そのものだけで。


ふわり、笑顔が零れて。




「お待たせしました」




待ち合わせに遅刻した、たったそれだけの事のように。
告げられた言葉に、悟空の瞳にじわりと大粒の雫が浮かんだ。



ふらりと覚束ない足取りで一歩を踏み出した悟空に、彼は微笑んで。
ゆっくりと歩み寄って一歩手前で立ち止まって、彼はしゃがむ。
悟空がもう一歩踏み出せば、もうお互いに手が届く距離になった。

間近になった顔に黒縁眼鏡がないのが珍しくて、悟空はまじまじ、目の前の顔を覗き込む。
そうしていると、キレイな顔立ちをした頬だとか、首だとか、すっぱり裂けた痕があった。


いたそう。
そう思って手を伸ばして、裂けた頬に触れてみる。

翡翠がくすぐったそうに細められた。



その顔は、悟空にとっても、よく見慣れたもので。


「天ちゃ………」


名前を呼ぶ声が震えたけれど、それでもどうにか呼ぶ事が出来た。
呼び声を聞いた彼は嬉しそうに笑って、小さな体を抱き寄せる。


「すみません、遅刻しちゃったみたいですね」
「……ん、う〜っ……!」


ぐず、ぐすん。
鼻を啜っている悟空の頬に、天蓬は自分の頬を押し付けた。
ふにふにと子供らしい柔らかい丸みが、とても愛しい。

悟空も、自分よりも少し低いけれど温かい熱が伝わってくるのが嬉しくて、ぐりぐり頬を押し付ける。
くすぐったそうに天蓬が笑うから、悟空はもっともっと笑って欲しくて、もっともっと押し付けた。


ぽんぽんと背中を叩く、捲簾よりも少し細くて、だけど金蝉よりも節のある手。
いつもキレイに動いて分厚い本のページを捲る、手。

もう二度と、次のページを捲ってくれる事はないと思っていた、手。


「あー、煙草吸いたい」
「いきなりソレか」


悟空を抱き締めたままで呟いた天蓬に、捲簾が呆れた様子で言った。


「銜えてんだから、火ィ点けりゃいいじゃねえか」
「ええ、まあ、それでも良いんですけど」


そう言いながらも自分も煙草に火を点けずにいる捲簾と、目線を合わせて。
その後は、示し合わせた訳でもないのに、二対の瞳は抱き締められて小さく震えている幼子に向けられた。

子供がいるんだから、その子供が咽ると怒る保護者が此処にはいるから。
もうちょっとだけ禁煙をして、後で思いっきり吸う事にしよう。
その時この子が笑っていたら、この最後の一本は、とても美味しくなるに違いない。


大地色の頭をふわふわ撫でていると。
それが少しの間もぞもぞ動いて、金色の瞳がひょっこり上を向いた。

翡翠とぶつかった金色の端っこに、じんわり透明な雫が浮かんでいる。
もうちょっとで零れそうなほど溢れているそれを、天蓬は親指でそっと拭ってあげた。


「あの、ね」
「はい?」
「あのね、天ちゃん。オレね」
「はい」


まだ幾らか震える声で、少し喉を詰まらせながら。
一所懸命に唇を開いて音の形を作る悟空に、天蓬は目を細めて耳を傾けた。


「オレ、ね。ケン兄ちゃん、信じてたんだよ」
「そうですか」
「そんでね、そんで。天ちゃん、も、信じてた、よ」


途切れ途切れに紡がれる言葉の、何処から何処までが真実であるのか。
気付いてしまっているけれど、気付かないふりをして。

大人はずるい。
こんな風に、騙されたふりをして、子供をだます事も出来る。
でも、今はそんなずるさも赦されていい筈だ。


「オレ、えらい?」
「はい。とってもえらいですよ」


そして、とっても良い子。
此処に来るまで、立ち止まらないで走り続けてくれた、頑張れる子。

真っ直ぐ真っ直ぐ走り続けて、想いに応えてくれる子。



「だからね、悟空。そんな貴方に、とっておきのご褒美ですよ」



もう一度告げられた言葉に、悟空はまたことりと首を傾げた。