誰も知らない桜幻




桜の咲き誇る四月に入って間もない日。
ぽかぽかと暖かい陽気の中で、悟空の意識はゆっくりと目覚めへと傾いていった。



悟空が寝ているのは、三蔵が使うベッドの上だ。
自分用の布団はちゃんと用意されているのだけれど、此処暫く此方を使った日はない。
三蔵は最初は自分の布団で寝ろと言ったが、あまりに何度も続くので、もう好きにさせている。

何せ三蔵の帰りが毎晩遅く、仕事に行くのが毎朝早い為、悟空は三蔵とまともに会話をする事もない日が続き、
寂しさから温もりや匂い、気配の欠片を求めて無意識に其方に潜りこんでしまうのである。
無意識の行動を抑制するのは難しいもので、それも寝ている間の出来事と言うなら尚更だ。

それに、春になったとは言え陽が沈むと途端に冷え込む日もある。
そんな時の湯たんぽ代わりと思えば、三蔵としても決して邪魔とは言い切れないのだ────寝相がもう少し大人しければ、と言う要望を足したくもなるけれど。


三蔵は仕事に行くまで湯たんぽに当たる。
それは然程長い時間ではなかったが、悟空にとっては十分だ。

目覚めた時に三蔵の姿がないのは寂しいけれど、嗅ぎ慣れた煙草の匂いはシーツに残っている。
時に早く起きれば短い挨拶の一つ二つは出来るし、部屋を出て行く時に頭を撫でてくれる。
大人しくしていろと言う意味を含んだものではあっても、悟空にはとても嬉しい事だった。


頭を撫でて貰って、一日出来るだけ大人しくしていれば、三蔵の仕事は早く終わる筈。
だから悟空は、構って欲しいのをどうにか我慢する事が出来るのだ。

そう思い続けて、もう随分と我慢を重ねているような気もするけれど。


そうして毎日を過ごし、今日も同じ一日なのだろうなと思って目を開ける。
でも起き上がる気にはならなくて、自分以外の温もりが微かに残るシーツを手繰り寄せる。
皺くちゃになったそれを抱えるように抱きしめて、悟空はころりと寝返りを打った。


其処で、思いも寄らない光景に、ぱちりと一つ瞬きをする。


昨日の夜も、三蔵は遅く帰ってきた。
何時なのかは悟空には判らない、何故なら彼が戻ってくるよりも早く眠ってしまったから。

しかし遅かったのだろうと言うことは想像がついた。
昨日の昼に見たものではあったが、彼の執務机に詰まれた書類は、まだかなりの厚みがあった。
あれから足されたのは確実だろうから、ちょっとやそっとで終わる量ではなかった筈。


遅くに寝るなら遅くまで起きたくないだろうと悟空も思うのだが、生憎、三蔵はそうは行かない。
最低最悪の低血圧を押しながら、片付かない書類をどうにか片付けねばならないのだ。
この寺院の権限を握る最高僧は、地位と権力と同時に、そう言った事も一手に引き受けなければならなかった。

故に、夜は遅く、朝は早く。
三蔵は仕事に向かわなければならないのである。




しかしこの日、悟空が目覚めた時、未だに彼はこの部屋の中に留まっていた。




起き上がって、信じられないようなものを見る目で保護者を見つめる悟空。
その視線を向けられた当人は、椅子に落ち着いてテーブルの上の灰皿に吸殻を積み上げている。


夢の続きか、はたまた幻か。
其処に落ち着いている存在が信じられなくて、悟空は何度も目を擦る。
頬を抓ってみたりもした。

だが、その内消えるのではないかと思っていた目の前の光景は、どれだけ時間が経っても消えることはない。
所か存在感が薄れるなんて事もなく、確かに其処にいるのだと金糸に反射する光が主張する。



悟空が目を覚ましてから一分か二分か。
経った頃に、三蔵は悟空へと振り向いた。


「何間抜け面してんだ、猿」


そう言った三蔵の表情は、いつもと同じ不機嫌なもの。
いや、常よりも若干眉間の皺が深いようにも見えるような。


三蔵の格好は眠る時の薄生地の着物ではなく、悟空も見慣れた“三蔵法師”の衣装。
白い法衣に金の胸当て、双肩には経文がかかり、瞳も凛とした冷たさが宿る。

だと言うのにどうして、彼は未だにこの部屋に留まっているのか。


「……さんぞ、」
「なんだ」
「……仕事は?」


終わった訳じゃないだろうと問い掛けてみれば、三蔵の口からは紫煙と同じく溜息が吐き出される。
それはつまり、悟空の予想した通り、こんな場所でのんびりと過ごしている暇はないと言う事。


「行かないの?」
「行けねえんだよ」


問い掛けた悟空に、三蔵は忌々しげに答える。
八つ当たりされているようには感じられなかったので、悟空は特に怖いとは思わなかった。

それより、三蔵の言葉の方が気になる。


「なんで行かないの?」


続けて問う悟空に対し、三蔵は無言で部屋の出入り口を指差した。
示されたドアは隣にある執務室と繋がっている。


ベッドを降りて裸足の足でぺたぺた近付いて、ドアのノブに手をかける。
このドアには鍵が設けられていないから、悟空は直ぐにドアノブを回してドアを押し開こうとした。

しかし、ガチリと何かが引っかかったような音がするだけで、ドアは一向に開けられない。
ノブはちゃんと回るからドア自体に問題はないと見て良いだろう。
けれども、何度繰り返してみてもドアが開放される事はなかった。


ドアノブから手を離して、ドア全体を力一杯押してみる。
それでもビクともしないので、後の事は取り合えず考えないことにして、ドアの真ん中を蹴り飛ばした。
自分の力が常人を遥かに上回り、本気を出せば土壁でも壊せる自信がある悟空にとって、然程厚みのない木板を破る事など造作もない事だった─────筈なのだが。

どうした訳かやはりドアは開かず、壊れもせず、寧ろ蹴った足の方が痛む有様。
足を抱えて痛みをやり過ごそうとする悟空を眺めながら、三蔵はまた溜息を吐く。


「駄目か」
「すっげー痛ぇ! 何これ、三蔵っ」


ただの木板が鉄か鉛のような硬さになっている。
とんだ怪我をした気分で、悟空は自分よりも先に起きていてこの事態に気付いていた筈の三蔵に詰め寄った。


「何もクソも、それが判ってりゃ苦労しねえんだよ」
「そうだけど! 何だよコレ、誰かの嫌がらせなんじゃないのか!?」
「だとして、誰になんのメリットがある?」


仮に、僧侶の誰かが結界術か何かを施したとして。
悟空一人を閉じ込めるならまだしも、三蔵までこの状態では、寺院にとってはデメリットしかない。
何せ三蔵の捺印がなければ廻せない書類もあるし、説法なども三蔵が行わなければならないのだ。

三蔵がこの部屋に残っていたのが想定外で、悟空に対して結界を施す場合。
部屋にいる状態で閉じ込めるより、外にいる時に中に戻れないように施した方が目的達成は出来る筈だ。
彼らは、悟空をこの寺から、三蔵の傍らから排除したいと思っている筈だから。


どちらにしても矛盾や可笑しな点があって、三蔵も悟空も納得できない。


単純に立て付けが悪くて開かない────と言う事もないだろう。
だとしたら、悟空が本気で蹴った時にドアは吹っ飛んで開く筈だ。



悟空はむぅと顔を顰め、もう一つのドア──此方は廊下に繋がるものだ──に駆け寄る。
ノブを握って押してみるが、やはり此方も開かず、足は痛かったので殴ってみるが結果は同じ。
じんじんと鈍い痛みだけが手に残る結果となった。

ならばと窓に駆け寄ってみるが、これまた施錠をしていないと言うのに開いてくれない。
三蔵に一言断りを入れてから殴りつけてみたが、窓は振動で揺れる事さえしなかった。


「なんなんだよー!!」


ドアが開かないと言うのは、悟空にとって非常に困る事態だった。
何せ、このまま外からもドアが開けられないとなると、朝食が運ばれて来ないのだ。
食事一回分と侮るなかれ、悟空には死活問題である。


と、窓に向かって喚く悟空の横に三蔵が立つ。
何かわかったのかと見上げれば、三蔵は無言で窓に手をついて、


「……切断されてるな」
「?」


零れた呟きの意味が判らず、悟空は首を傾げる。


「手が窓に届いてねぇんだよ」
「届いてるよ?」
「見た目にはな。だが、実際は空間の接続が切れている。触れているようで触れていない」
「………?」


例えば、悟空がいつものように三蔵の法衣を握る時。
触れているのは確かに三蔵の法衣で間違いない。

しかし、その上に透明で薄い一枚の布を被せた場合、握っているのは法衣でも、触れているのは透明な布の方。
間に割り込む存在によって、三蔵の法衣と悟空の手は隔たれる。
空間が直接繋がっていないとは、そういう状況を示すものだった。


更に厳密に言えば、その透明な布すらない状態で繋がっていないのが、二人と部屋の四方の現在の状況である。
しかし余り長い話をすれば悟空の頭はスパークし、結局理解できない事は目に見えている。
要点と現状だけが把握できれば上々なのだ、悟空の場合は。


故に先程、悟空がドアや窓を殴った時、壊れもしなければ揺れもしなかったのだ。
空間の接続が切れて衝撃が届いていないから、ただの木板や薄いガラスが鉛のように硬い。
硬いと思ったのは、本来なら相手側に向かう筈だった力が全部跳ね返ってきたから────あの力は、そのまま悟空の力そのものだったのだ。

これでは悟空がどれだけ持ち前の馬鹿力を発揮した所で、意味がない。
直接攻撃が届かないのでは、何も壊れないし割れないし、外れる事さえないのだ。


「三蔵、なんとかしてよ。オレ腹減ったよ〜……」
「出来るモンならとっくにしてる」
「うぇえ〜……」


この不可解な現象が法力で敗れると言うのなら、三蔵はとうの昔にそれを実行して部屋を脱出している。
出来ないから、今の今までこうして手を拱いているしかなかったのだ。

悟空の行動によって空間が切断されていると言う状況は判った。
だが、それ以上は何も判らない。
空間の切断は人間が出来る事ではなく、故に戻す方法も人間は持ち得ない。


八方塞がり。
正にこの事。



ドンドン、と廊下の方からドアを叩く音がする。
いつまで経っても部屋から出てくる様子のない三蔵を、修行僧達が呼びに来たのだろう。

どうしようと悟空が三蔵を見上げると、三蔵はドアの方を見てはいるものの、近付こうとはしない。
内側からはどうしても出られそうにないから、外からの反応を待っているようだった。


「三蔵様、ご起床下さいませ。ご公務が滞っておりまして…」


三蔵は返事もせず、短くなった煙草を灰皿に押し付けてベッドに腰を下ろす。
直ぐに次の煙草を取り出す三蔵に、悟空はテーブルに置き忘れになっていたライターを放った。

再び紫煙を揺らす三蔵の横に、悟空も座る。
焦ってもどうにもならない事は嫌と言うほど立証されたので、今からジタバタしても仕方がない。
ただ、ドアが開いた時に僧侶達が何を言い出すかと思うと、少しだけ憂鬱な気分になった。



ドアの向こうの修行僧の気配は、次第に数を増やしていく。
木板を叩くタイミングも変わり、呼びかける声も数人のものになっていった。

暫くすると少々強引でも仕方がないと開き直ったらしく、ドアを叩く音が激しさを増し。
更にはガチャガチャとノブを回す音もして、ドアを開けようと四苦八苦している。
先程、悟空がしていた事と同じような事だ。


僧侶達は随分と長い時間を粘っていたが、ドアはやはり一向に開こうとしない。
外側からは引く形に開く扉は、何かが詰まったかつっかえたかの様に依然として動かなかった。


時折、三蔵を呼ぶ傍らで、悟空が何かしたのではと囁く声があった。
あらぬ濡れ衣に腹は立ったが、いつもの事と言えば確かにそうで、三蔵からも相手にするなと言われている。
後ろめたい事が何もないのだから、何も知らない連中の言う事など気にするだけ無駄なのだと。

全く気にならないと言えば嘘になるけれど、閉じ込められて困っているのは悟空も同じなのだ。
此方は立派な被害者なのだから、一方的に責められても、落ち込む理由にはならない。



─────かくして、時間ばかりが過ぎて行き。



ふと、悟空は気付いた。
今日はずっと三蔵が自分の傍にいると言う事に。


閉じ込められて出られない、だから仕事に行く事が出来ない。
それだけの事だと言うのは判っているが、それでも同じ空間にずっと一緒にいるのは確かだ。

朝からずっと顔を合わせて、今も傍にいるのは、随分久しぶりの事だ。
思うと、この状況もそんなに悪くないと思えるかも知れない。
気付いてしまった喜びに緩む顔を隠すように、シーツを手繰り寄せて其処に顔を埋めた。


のだけれど。


「何ニヤニヤしてんだ、猿」
「え」


隠しても何故だかバレる、そして見逃してくれない保護者。
しかも此方を見ていないのに、どうしていつも気付くのだろう。


シーツに顔を埋めたまま、悟空はごろりと寝転がって天井を仰ぐ。


「べっつに。三蔵がずーっとこの部屋にいるのって久しぶりだなって思っただけ」
「いたくているんじゃねえよ」
「判ってるよ」


頬を膨らませて言う悟空に、三蔵はどうだか、と呟く。



だが、三蔵にとってもこの珍事は決して面倒なだけのものではなかった。

連日紙の束と向き合うばかりで、かなりのフラストレーションが溜まっていたのは紛れもない事実。
書類の中には誰が見ても良さそうなものも混じっており、それがまた苛立ちを助長させる。
このまま仕事を続けていたら、堪忍袋よりも先に血管が切れるんじゃないかと思うほどだった。


それがこの珍事のお陰で、ゆっくりと過ごす事が出来る。
心穏やかとは言い難くとも、連日連夜、疲労を押して仕事に出ているよりは良い。


とは言え、いつまでもこの状態が続くのは困るが。


「坊さん達、なんかお経唱え始めたよ」
「法力でどうにかなると思ったんだろ。無駄な足掻きだがな」


自分の身に降りかかっている事なのに、悟空も三蔵も完全に他人事だ。
出来る事は何もないのだから無理もない。





僧侶達の手によってドアが開けられたら、きっと三蔵は直ぐに仕事に行ってしまうだろう。
それは寂しかったから、悟空はもうちょっとだけこのままがいいな、とこっそり思った。