その色彩が、光













そこにある色彩が



いつまでも色褪せなければ良いと思う


































「金蝉、なあ金蝉ってばー」




小さな手で、体を揺さぶられる。
それを無視し続けて、それなりの時間が経っていた。

いい加減諦めろと心中で溜息を吐きつつ、そうする為に自分がこの手を振り払うのも本当は容易い事なのだ。
なのにそれをしないのは、少なからず自分の中に罪悪感に似た感情が生まれているから。
それさえなければ、このまま十分だろうと一時間だろうと無視できるだろうし、振り払うことも可能だったのに。


むー、と拗ねた声を漏らしたのが聞こえて、束の間、筆を走らせる手を止める。
後は判を押すだけになった書類から目を逸らし、ほんの一瞬だけ、傍らにいる存在に視線を向けた。
そうすれば案の定、俯き加減で剥れた顔の子供がいる。




「なあってば」




また声をかけられる直前に、金蝉は書類へと視線を戻した。
ゆさゆさと揺さぶりも再開される。



金蝉が書類と向き合ってから約三時間、悟空が金蝉の傍らに来てから約三十分は経つだろうか。
執務机に乗せられた書類の量は、一時間前にはかなり減っていた筈だったのだが、また増えている。
加算された分は今日が締め切りの文書が殆どであった為、面倒臭くとも、無視する訳にはいかなかった。

本来なら、この加算された分の書類は、短く見積もっても三日前には此処に届けられている筈のものだった。
それが事務の手違いか、誰かのミスだかで何処かに引っ掛かって溜まっていたらしく、締め切りギリギリの今日になって発覚。
大慌てで金蝉の下まで回されて来た訳だが────これならいっそ見付からずにいた方が良かったと、金蝉は思う。


悟空は三十分前の更に三十分前、一度この部屋に戻って来ていた。

今日は朝から天蓬の所に行っていた悟空だったが、午後になったら金蝉と遊ぶんだと言っていた。
別段、約束した訳でもなかったし、何をして遊べと言うのかとも思ったが、楽しそうにしていた悟空を見て言葉は飲み込んだ。
“遊ぶ”とは言っても、まさか捲簾を相手にしている時のように駆けずり回りはしないだろうし。
仕事も確かに午後には終わりそうだと、今朝の段階では考えられたから、了承の意味で頭を撫でてやれば悟空は酷く嬉しそうにしていた。

一時間前に悟空が部屋に戻って来た時、書類はまだ幾らか残ってはいたものの、直に終わると言ってやる事が出来た。
もう少しだけ何処かで時間を潰していろと言う金蝉に、悟空は素直に頷いて、館の庭へ走って行った。
それから三十分程して、再び悟空が部屋に戻って来た時には、………書類は追加された後であった。



少し我慢すれば遊んで貰えると思ったから、悟空は素直に金蝉のいう事を聞いた。
無茶な遊びをするなと言いつけたのも守ったし、ちゃんと煩くしないで保護者を待っていられた。

なのに、いざ構って貰える筈の時間になったら、これだ。




「うー……」




ぼす、と金蝉の腰に塊がぶつかった。
見るまでもない、悟空の頭だ。




「遊んでくれるって言ったのに……」




────悪かったな、と胸中でのみ呟いた。
声に出さないのは、出した所で何も変わらないからだ。

此処に天蓬なり捲簾なりがいれば、それとなく悟空を宥めて気晴らしに連れ出してやれるだろう。
と金蝉は思うのだが、友人二人は“それじゃ意味がない”と言ったに違いない。
だって、悟空は金蝉に構って欲しいのであって───勿論、二人の事も好きだけれど───、求めているのは彼らではないのだ。


結局、金蝉に出来る事と言ったら、出来るだけ早く詰まれた書類を片付ける事。
そうなると、甘える子供の顔すら、碌に見てやる事も出来なくなっていた。




「なんだよ!金蝉のウソツキ!バカ!ハーゲ!」
「誰がハゲだ!!」




一瞬素通りしかけた罵倒の中に、聞き過ごせない単語を聞いて、反射的に怒鳴り返した。
そうして子供の顔を久方ぶりに見て、後悔する。

────泣き出す一歩手前の顔で、悟空は金蝉を見上げていた。




「遊んでくれるって言ったのに!金蝉、紙の方が大事なんだ!」




なんでそうなる、と言いそうになって、止めた。
子供を無視して紙と向き合っていたのだ、端から端に飛躍する子供の思考ではそう行き着くのも無理はない。




「金蝉のバーカ!もう一緒に遊んでやんない!」




泣きそうな顔でそう叫んで、悟空は執務机を飛び越えて、部屋を出て行った。
判った上での嫌がらせだろう、綺麗に詰まれていた書類を見事にぶちまけて。


カシャカシャと嵌められた枷の鎖の音が離れて行く。
開けっ放しにされたドアも、蝶番とドアそのものの重みによってゆっくりと閉じられた。
それで子供が此処にいたと言う事実は、既に過去のものとなる。

なったのだが……部屋の惨状ばかりは如何ともならない。
関連事に綺麗に纏められていた筈の書類はバラバラに散らばり、順序も判らない。
これをもう一度纏める手間を思うと、もう食指は動きそうになかった。


座っている椅子の傍に落ちていた紙を一枚、取り上げる。
その書類の期限は今日、夕刻までにと書かれていたが、やる気が起きなくて机の上に無造作に放る。




「…………どうしろってんだ……」




今度こそ、声に出して呟いた。



悟空とて判っている筈だ。
これが金蝉の仕事であって、これにより周囲から金蝉への信頼・信用関係が成り立っていると言う事は。


幾ら観世音菩薩からの提言とは言え、異端の幼児を傍に置く事には、周囲からの異論が上がるのは否めない。
益して捲簾や天蓬のように軍属ではない為、何某かが起こった時に抑えとなる者がいないのは、周囲に無用な不穏感を募らせる事になる。
文官である金蝉がそれに対して出来る事と言ったら、出来るだけ今まで通りに仕事を済ませ、決して悟空は邪魔な存在ではないのだと無言で示し続ける事位。

だから悟空も普段は金蝉に無闇矢鱈と構って攻撃をする事もないし、一人で好きに時間を潰している。
そうして金蝉の仕事が一段落して、ようやく自分が構って貰えるのだという事も、理解している筈なのだ。


しかし、理解と感情は別物で、特に子供の内は伴わない代物だ。
大人でさえ頭で判っていても────と言う所を、子供に堪えろと言うのが無理な話なのである。



ともかく。
このバラバラになった書類を一通り片付けなければ、何事も進まない。

一番進まない自分の気持ちを無視して、金蝉は書類を集め直す為に腰を上げた。





















お邪魔します、と手短な挨拶をして、此方の反応を待たずに扉を開けたのは天蓬だった。


その頃には、散々だった部屋の有様もなんとか落ち着きを取り戻していた。
が、まだ数枚の書類は床に落ちたままで、物によっては机の下に滑り込むなどと言う暴挙に出ていた。

几帳面な性格をした金蝉の部屋が散らかることは滅多にない。
悟空を引き取ったばかりの頃は、出したものは出しっぱなし、仕舞ったと思ったら崩れて出てきたり、折り紙になった書類はあるしと随分賑やかになっていたが、流石にそれももう落ち着いた。
日々の躾と、生来の素直さのお陰で、悟空は言われた通りに片付けが出来るようになったのである。
なので、散らかす子供が散らかさなければ、彼の執務室は基本的に整然としている。

にも関わらず、今日は色々と不具合が起きた為、散らかってしまった部屋なのだが────天蓬は驚きはしなかった。




「捲簾からの伝言です。早く迎えに行けよ、おとーさん、とのことで」
「誰が父親だ、誰が……」




一応保護者……否、飼い主である事は自覚している。
が、父親になどなった覚えはないつもりだ。

天蓬も捲簾も、果てには観世音菩薩までもが、自分と悟空を親子にしたがる。
そう言われても無理がないのは判っているが、どうにも金蝉はそれを容認する事が出来なかった。
それが一種の気恥ずかしさからの拒否感だと本人は気付いていない。


拾える書類を拾いきった所で、金蝉は執務机に戻った。
椅子を引いて座った直後、くしゃりと何かが足元で音を立てた。
まさかと思って覗き込んでみれば、踏みつけている書類が一枚。




(……駄目だな)




墨と足跡で滲んだ皺くちゃの書類を見て、今日何度目か判らない溜息を吐く。

これの他にも、何枚か使えなくなった書類がある。
未処理だった書類はまだ良いが、判を押したものまでぐしゃぐしゃになっているのを見た時には、頭痛を覚えたものである。


出来るだけ手早く処理済と未処理の書類を選別する。
其処にひょい、と手が差し出されて、顔を上げれば苦笑する旧友がいた。




「手伝いますよ」
「重要書類もある」
「守秘義務は守ります。見たものは、部屋を出たら忘れますから」




だから手を貸す────いや、手を貸させろと、天蓬は言外に告げる。

金蝉が此処で書類と格闘している以上、子供はいつまで経っても放ったらかしにならざるを得ない。
今頃は捲簾が遊び相手をしているのだろうが、天蓬はそれで悟空の気が本当に晴れるとは思っていなかった。
どんなに遅かろうと早かろうと、此処にいる仏頂面の保護者が子供を迎えなければ、あの子は本当の意味で笑ってくれないのだ。


金蝉は暫く眉根を寄せて天蓬を見上げていたが、最終的には折れた。
無視し続けた挙句に拗ねさせてしまった子供への罪悪感も、少なからず、ある。

目を伏せて、束ねていた書類の半分を手渡す。




「随分と急ぎの書類が多いですねえ」
「遅れてるんだよ。どっかの誰かの不手際だそうだ」




その急ぎの書類が回ってきたのは、ほんの一時間足らず前の事。
意気揚々と一度目帰ってきた子供に、直に終わると言った直後の事だ。

持ってきた部下を睨みつけていたかも知れない、と金蝉は思い出すが、まあ、それは今はどうでも良い事だ。




「ああ、それで悟空が拗ねちゃったんですね。構って貰えなくなったから」




パラパラと手際よく書類を捌きながら、天蓬は苦笑する。


この部屋を出て行った悟空は、先ず間違いなく、天蓬の部屋に駆け込んだのだろう。
自由に見えて不自由な悟空の行ける場所は限られているし、其処なら自分を構ってくれる人がいるから。

そうしてきっと、あの子供はこう言ったに違いない。
“金蝉のウソツキ”“遊ぶって約束したのに”─────と。
泣きそうな顔をしていたから、もしかしたら声をあげて泣いたかも知れない。

それから延々と保護者の悪口を言って、剥れて、今頃はきっと捲簾にあやされているのだ。


容易に想像できる子供の経緯。
それが判ってしまう位に保護者が板について来ている。

なのに、未だにこうして子供を放っておく時間の方が多くて、交わした些細な約束すらも叶えてやれない。



深い溜息を吐いた金蝉に、天蓬は小さく笑った。
先ほどの苦笑とは別の意味で。




「悟空、怒ってましたよ。出来ない約束はするなって言ったのは金蝉なのにって」
「……仕方ねえだろ。こんな事になるとは思っていなかった」
「ですよねえ。おや、これ酷いですね」
「…なんだ」
「書類自体は無事なんですけど、この書類に間違いだらけが」
「………」
「期限は今日です」




ぴきぴき、と血管に血が詰まっていくのが判る。
そのままプチッと破裂してしまいそうだった。




「この書類はもう駄目ですね」
「…悪いが、事務に持って行ってくれ。再提出させないと片付かない」
「了解。貴方は此処から離れられそうにないですしね」




書類はただの決済報告書だったので、天蓬が見ても問題はなかった。
これが重要書類なら金蝉がわざわざ出向かなければならなかったのだが、これは幸いだ。




「大急ぎで回して来たって事は、ちゃんと確認もしていなかったんでしょうね」




となると、この先、まだまだミス発覚の書類が出てくると言う事だ。




「面倒臭ぇ……」
「あー、これも駄目ですね……」
「もういちいち言うな。頭が痛くなる」




金蝉の言葉にはいはいとおざなりな返事をして、天蓬は書類の山を三つに分けた。
一つは処理済、もう一つは未処理、それから再提出が必要なミスの書類。
更にその未処理の山から、提出期限が今日・明日一杯のものと、それ以降のものに分ける。
金蝉も自分が分けていた分をそれらの山に載せた。

全てを仕分けし終わった時には、子供が部屋を飛び出して言ってから一時間弱の時間が経っていた。


出来上がった山を見て、金蝉は眉間に皺を寄せた。
幾らなんでも、ミスの書類の山が多過ぎる。

ミスの山を睨み付ける金蝉に、天蓬は腕を組み、




「これ、もう放っといて良いんじゃないですか?ざっと見た限りでは、あまり重要そうなものはありませんでしたし」
「それで無視できるならするんだがな。重要でなくとも、このまま流せんものもある」
「はあ……結局再提出ですか」




文官も面倒ですね、と呟く天蓬に、全くだと金蝉も漏らす。




「それじゃ、事務にこれを持って行きますね。ついでに事務手続きもやっておきます。貴方の名義でいいですね?」
「ああ」




ミス書類の山を抱えて、天蓬は部屋を後にした。
それを見送った後で、金蝉も処理済の山を抱えて部屋を出る。

提出は全ての書類の処理が終わってからでも良かったのだが、このまま直ぐ仕事に取り掛かる気にはなれなかった。
一度観世音菩薩に書類を届けて、部屋に戻って、改めて執務に着く事にする。
単なる時間の無駄遣いに思えなくもないが、惰性で部屋に篭り、やる気も起きないまま机に向かっているよりは良いだろう。


─────以前なら。
悟空を引き取る以前なら、こんな事にはならなかった。
書類をバラまいて片付けてなんて、非効率な事は起こらなかった。

仮にそんな出来事が起きたとしても、終わるまでは机から離れなかっただろう。


仕事を早く済ませる為に、遠回りに見えるような時間の使い方など考えなかった。
そもそも、仕事を早く終わらせなければならないと、そんな焦燥に狩られた事自体がなかったと思う。



煩くて騒がしくて手のかかる子供は、今頃は何をしているだろう。
同じレベルで遊んでくれる捲簾と一緒に、下らないゲームでもしているかも知れない。


抱えた書類の山を見下ろして、多分、いや絶対、自分は要領が悪いのだと思う。


捲簾や天蓬も忙しい筈だ。
あれでも一隊をまとめている二人は、決して暇を持て余している訳ではないだろう。
最近は専ら事後処理ばかりで戦闘はないと言っていたが、小隊での訓練は欠かしていないし、上司としてデスクワークもある筈だ。

けれど二人は折を見ては自分の趣味に時間を費やし、悟空の相手も十分してやれる。
金蝉が構ってやれない分を補うように、悟空を一人にしないように手を尽くしてくれていた。


彼らに出来て、自分に出来ない、と言う事はないだろう。
なのに出来ないと言う事は、自分の手際が悪いという事に他ならない。


さっき発覚したミスだらけの書類も、もう再提出要求などしなくて良いのかも知れない。
刻限は今日の夕刻、夜までなんて、今から再提出させて一から処理させて、間に合うとは思えなかった。
天蓬に言った通り、無視できないものもあるのだが、だったらその一部の無視できないものだけ再提出に回して、後は破棄してしまえば良かったかも知れない。

そうすれば、明日以降の仕事が面倒になるとは言っても、今日ぐらいは時間を空けられたのに。
悟空の拗ねた顔も少しは晴らせてやれたのに。



今になって気付いてももう遅い。
天蓬は行ってしまったから、自分はさっさと書類を観世音菩薩に回して、残りのものを片付けなければ。





ふと。
外回廊を曲がった所で、子供の笑い声が聞こえた。

見れば、図体の大きな子供を追い掛け回している、無邪気な子供の姿があって。


──────自分が引き取ったのは間違いだったかも知れない、と。


今の今更になって抱く思いを押し殺して、金蝉はその光景から目を逸らした。