その色彩が、光




舞い散る花弁を追い駆けて、何度も何度も捉まえようと手を伸ばす子供。
けれども、子供がどんなに素早く手を伸ばしても、花弁はふわりと揺れてその手から逃げるのだ。

何度目か知れない失敗をして、悟空はむぅと剥れた。
どうして掴めないのか心底不思議そうな顔で、空っぽの手の平を開いて睨む。




「コツがいるんだよ」




しばらくその様子を眺めていた捲簾は、見兼ねたように言った。
するとキョトンとした顔で悟空が此方を振り返る。




「コツって?」
「掴もうとするから駄目なんだ。待つんだよ」




言って、捲簾は右腕を伸ばし、手の平を上に向けて開いた。
しばし待っていると、ふわりと花弁が捲簾の手の中に落ちてくる。
それをゆっくりと優しく掴んでやった。

とてとて駆け寄って来た悟空に、またゆっくりと手の平を開いてみせる。
果たして、花弁は其処にあった。




「すっげー!どうやったの?な、どうやったの?」
「だから、見たまんまだよ」




追い駆けるんじゃなくて、待つ。
そうしないと、小さな風で直ぐに煽られてしまう花弁を掴む事なんて出来ない。


教えてやっても悟空はよく判らなかったようで、むぅと唇を尖らせる。
捲簾はそんな子供に苦笑して、枷のある子供の右腕を掴んで持ち上げてやった。
手の平を上にして開かせ、そのまましばらく待ってみる。

……ふわり、花弁が一枚其処に落ちてくるまでには、少々の時間を要した。


途端、悟空の顔がきらきら輝く。




「で、ゆっくり掴め。慌てるなよ。また逃げられるぞ」




捲簾に言われる通り、小さな丸っこい手がゆっくりと閉じて行く。
じっと自分の手を見つめる悟空の瞳には、ドキドキと高揚しているのが見て取れた。


薄くて小さくて柔らかな花弁。
固さのある紙や棒切れと違って、握っていても握っているとは実感できない。

一度握った手をもう一度ゆっくり開いていく悟空は、待ち切れないように開いていく指の隙間から手の中を覗き込む。




「あ、」




小さく声を漏らした悟空の瞳が輝いた。
はわわ、と口を戦慄かせている様子がなんだか可笑しくて、捲簾は噴出しそうになるのを手で押さえて誤魔化す。




「やった!ケン兄ちゃん、ありがと!」




握り拳をして言った悟空。
思わず握ってしまったので、その拍子に花びらはすいっと子供の手から逃げてしまった。
しかし一度掴む事が出来たので満足しているのか、悟空はにこにこ嬉しそうに笑っている。

全身で喜んでいる悟空を見ていると、教えてやって良かったと捲簾も思う。
走り回っている間に大地色の髪に乗っかった花びらを取ってやりながら、捲簾も笑う。


悟空の髪にくっついた桜の花弁は、意外と数が多かった。
しばらく丁寧に取ってやっていた捲簾だったが、悟空の癖っ毛が災いしてか、絡まって取れない。
最終的に面倒になってきて、ぐしゃぐしゃと撫でるついでに掻き回してやった。

突然の荒っぽい行為に悟空はわぁ、と驚いた声をあげる。
手が離れると水から上がった仔犬のようにぶんぶんと頭を振るって、それで頑固にくっついていた花弁も取れていった。




「で、なんだって花びら追っ駆けてたりしたんだ?」




悟空が飛んでいるもの───花びらに限らず、例えば蝶とか───を追い駆け回すのは、珍しくない。
動いているものを見ると衝動的に追いたくなるのだろう。
落ち着きのない子供らしい行動だと思うので、其処に疑問を覚えることはなかった。

しかし、今日のようにムキになる程に花弁を追い駆けた事はなかったと思う。
それも何処か真剣な目で。


目的を果たした所で、もう聞いても良いだろうと思い、捲簾は問い掛ける。
と、悟空は喜んでいたのが途端に落ち着いてしまった。




「あんね。花びら取れたら、お願いごとが叶うんだって」
「……天蓬か?」
「うん」




生まれて間もない、真っ白な悟空は、知識と言うものが少ない。
天蓬からあれこれ教えて貰い、文字の読み書きも覚えているようだが、文字の多い書物はまだ読む気にはならないようだ(捲簾もならない)。

天蓬が悟空に教える内容は様々で、悟空にはまだ判らないような難しい事から、些細な事まで多種多様。
最近は捲簾も一緒になって色々教えているが、捲簾が教えるのは大抵遊びの内容であった。
それ以外の事を天蓬が教えており────今回はそれに該当する。
何より、捲簾がそんな事を教えた記憶がない。


クイズのように当ててみれば、案の定、正解。
悟空はこっくり頷いて、そのまま続けた。




「落ちてる花びらじゃ駄目なんだって。飛んでる間に取らなきゃ駄目って」
「ま、その方が難しいしな」




そんな事を教えて貰ったから、悟空は躍起になって花弁を追い駆けていたのだ。

誰が言い出したかも判らない、信憑性もない迷信を信じるなんて、なんとも子供らしい。
その無邪気さこそがいとしいのだと感じつつ、捲簾はそうかそうか、と悟空の頭を撫でた。




「花びらは取れたし。それで、お前のお願いってのはなんだ?」




天蓬がいつこんな話を悟空に聞かせたのかは知らないが、今日のうちでない事は確かだ。
今日は捲簾はずっと天蓬の部屋にいて、金蝉の仕事が終わるまで、悟空の遊び相手をしていた。
その間に天蓬がやっていたのは、いつも通り何某かの本を読んでいて、じゃれ付いてくる悟空に構ってやっていた。
悟空が話したようなまじないの会話は、なかった筈だ。

ならば、天蓬が子供にまじないの話をしたのは、今日以前のこと。
けれど今日に至るまで、(少なくとも捲簾が知る限り)悟空がこうした理由で花びらを追い駆けていたことはなかった。
と言う事は、思うところがあって今日こうして花弁を追うようになったと言う事だ。


そういう訳で問い掛けた捲簾だったが、その直後、悟空がむぅと剥れてしまった。
……それでなんとなく、悟空が何を考えているのか判る。

重い枷のついた小さな体を抱き上げる。
岩に腰掛けた自分の膝上に乗せてやって、捲簾は悟空の膨れた丸い頬を突つく。




「金蝉、遊んでくれなくなったから」




────その言葉だけで、捲簾には十分だった。



今日は朝から、悟空は上機嫌だった。
遊び相手をしてやりながら、捲簾は何度となく“今日は金蝉と遊ぶんだ”と言う言葉を聞いた。

万年体力不足のあの男が、悟空の遊びに付き合えるとは思えない。
精々散歩に付き合ってやるとか、駆け回る悟空を眺めているとか、それがあの男の出来る精一杯の“遊び”だ。
けれど、中々保護者に構ってもらえない悟空にとっては、一緒にいられるだけでとても幸せな事だったのだ。


昼前になって悟空は金蝉の執務室に戻り、それで遊び相手の捲簾はお役御免となった筈だった。
しかしどうした事か、それから一時間と少し経った頃になって、悟空は再び捲簾と天蓬の下に戻って来たのである。


剥れた顔の子供を館の外に連れ出して、捲簾は再び悟空の遊び相手を買って出た。
天蓬は捲簾からの伝言を持って金蝉の執務室へと向かい、まだ戻って来ていない。

外に連れ出して、悟空は直ぐに遊び出した。
いや、舞い散る花びらを夢中になって追い駆け始めたのだ。
“お願いごと”を叶えたくて。



ああやっぱ俺じゃ役不足か。
こっそりひっそり、寂しさを覚えつつ、それを笑顔で誤魔化して、捲簾は悟空を抱き締める。




(仕方ねえっちゃ仕方ねえんだろうが、こいつにゃまだ其処まで判らねえよな)




全く判らない訳ではないと思う。
けれど、理解して納得して自分の感情を全て飲み込んで我慢出来るかと言うと、きっと無理だろう。


金蝉に悪気はないだろうし、最近の彼を見ると大分保護者が板についてきたから、約束を破ったのは多分不可抗力だろう。
そもそも生真面目が服を着て歩いているような男だから、仕事を溜めるなんて真似も早々しない筈。
悟空を引き取ったばかりの頃は、子供も今よりずっと無邪気だったから、散々振り回されて仕事が手につかない日もあったようだが、今はそれも落ち着いているようだった。

特に、最近の金蝉は出来るだけ子供の相手をしてやるようになった。
どういう心境の変化があったのかは捲簾の知る由ではないが、まあ、良い傾向と言って良いだろう。
悟空も喜んでいる事だし。


それが今日になっていきなり約束を反故されたので、悟空は拗ねてしまった。
拗ねてしまったが、やっぱり大好きな保護者に構って欲しいのは変わらない。




「別にさ。判ってんだ。金蝉が忙しいことぐらい」
「おう」
「…ホントはオレの相手なんかしてらんないってことぐらい」





膝の上で唇を尖らせる悟空は、もう剥れていない。
ただ、その金色の瞳には寂しそうな色が灯る。




「でも今日は遊んでくれるって言ったから、嬉しかったんだ……」




なのに、それが駄目になった。
金蝉に悪気がなくても、仕方のない事でも、やっぱり寂しくて悔しくて。

むぅ、と唇を噤んだ悟空の頭を撫でて────捲簾はふと、視線を感じて首を巡らせる。




(───────お)




外回廊を歩く金糸を見つけた。
視線は此方には向けられていなかったが、十中八九、数瞬前まで此方を見ていたに違いない。




「悟空、あそこ見てみろ」
「ふえ?」




外回廊を指差して言うと、悟空はきょとんとして首を傾げてから、言われた方へと目を向ける。




「あ、金蝉だ」
「仕事終わったのかもな」
「ホント!」




捲簾の言葉に、悟空がぱっと明るくなる。


外回廊を渡って館の別棟に移った金蝉の手には、書類の束があった。
効率を気にする男は、何度も何度も往復する手間を嫌う。
そんな彼が書類を持って別棟に行ったと言う事は、仕事が一段落着いたという事か。

─────と、言う事は。
悟空のささやかなお願いごとが叶った、と言う事で。


天蓬に預けた伝言が伝えられているなら、直に迎えに来るだろうが、悟空はもうそれも待ち切れないようだった。
とにかく早く金蝉の下に行きたいらしく、うずうずして落ち着かない。

捲簾は膝上に乗せていた悟空を下ろし、地面の上に立たせてやる。




「ほれ、遊んで貰え。っつっても疲れてるだろうから、あんまり引っ張り回してやるなよ」
「うん。今日は部屋で一緒に折り紙するから大丈夫!」




折り紙。
あの仏頂面が折り紙。

想像して噴出しかけて、捲簾は寸での所で飲み込んだ。




「そんなら早く行って、お父さん待ってな」
「うん!」




ばいばい、と元気に駆け出した悟空を見送る。



長い大地色の髪が、犬の尻尾のように振られながら遠ざかって行く後姿を見て、捲簾は背筋を伸ばす。
背中と一緒に伸ばした腕を下ろして、ふと、舞い散る花弁が目に映る。

右手を伸ばして、手の平を上に向けて、開く。


……ふわり、花弁が一枚舞い降りた。




──────願わくば、あの子供のささやかな願いが、ずっと叶えられますように。