リピートエンドレス・リスタート









無意識のうちに、繰り返し願う事がある


あの日、あの時、守れたのなら

小さなあの手は、あの温もりは、今も傍らにいてくれたのにと




















是音は、人の世界────下界を嫌ってはいない。
寧ろ好意的な目で見ていると、自分自身で自覚があった。


何が変わる訳でもない、ただただ不変が正しい事であるように、それ以外のものは排除すべきと容赦なく切り捨て、それでいて自分達の手は綺麗なままであると信じてやまない世界に比べたら、下界の方が余程、人間達の言う“楽園”であると思う。
浄も不浄も入り交じり、争いが起これば双方の言い分と目的があり────それは立場が変われば善悪も逆転すると言う事。
ほんの少しでも違うものが交われば、即処断の対象だとして排除する天上界に比べれば、下界はとても寛容的である。
此方は此方で、今現在、世で騒がれている妖怪の暴走化と言う問題の他、民族だの宗派だのと言う問題はあるが、それも、異なる存在を許さない天界ではまず起こりえないものだ。

下界で平穏を望む人々の多くは、天界のような安寧とした世界こそが楽園であると考えるようだが、其処にいるといずれは脳が腐って行く、と是音は思う。
命の遣り取りが毎日のように何処かで起こる、この下界こそが、本当の意味で“楽園”なのだ。



特に用事がある訳でもなく、散歩のついでにふらりと立ち寄った街で、空の酒箱に腰を下ろし、大路を駆け回る子供達を眺めながら、是音はそんな事を考えていた。
特に意味があって思考していた訳ではなく、ただ単純に、下界と言う世界への感想を胸中で述べていただけである。

今現在、是音は暇を持て余している状態であった。
天界から下りてきた一同の頭を務めている男は、気紛れにこうした退屈な時間を作る癖がある。
何をしているのか、それは是音の知った事ではないし、詮索するような事でもないと思っている。
紫鳶も同じように思っているだろう。
そして、頭である焔本人も、その退屈な時間を誰がどのように過ごそうと、問うてくる事はなかった。




(とは言え、流石にそろそろ……)




数日間、ふらふらと出歩いてみたが、行った先で早々都合良く面白いものが見付かる訳でもない。
時折、屯した妖怪の軍勢が、是音達の目当ての四人に良からぬ事を仕掛けている所を見かけたが、かと言って、それをどうこうしようとも思わなかった。
彼らがあの程度の輩に負けるとは思っていないし、万が一にも遅れを取る事があったとしても、その時は彼らがその程度の力しか持っていなかった、と言うだけの事だ。

散歩をしている間に見付けた面白いものと言ったら、その程度の事だ。
特別、是音が気にかけるようなものは他にはない。
立ち寄ったこの街でも、是音の意識に留まるものは見当たらず、何かあるかと思った市場も、普通に見かける光景と然して差はなかった。




(まあ、あそこに比べりゃ、大分マシだけどな)




特別に変わったものがない、と言っても、当たり前にある光景だけで、是音は十分楽しめる。
爛漫と桜が咲き続け、悠久の時を過ごすだけの天界に比べると、下界は随分と忙しない。
右へ左へと人が歩き、あちこちで景気の良い声がして、時折諍いが起きて、それを咎める声がし……と言うように。
人々が当たり前と思っているそんな風景こそ、天界では得難いものであったのだ。


是音は、懐から煙草を取出し、火を点けた。
ゆらりと燻らせた煙が空に溶けて消えていく。

てんてん、と足下に転がったものが、こつん、とブーツの爪先に当たって止まった。
咥え煙草で視線を落とせば、子供の頭程の大きさの白いボールが居心地悪そうに蹲っている。




「あ」




思わず漏れたと言った風の声に、是音が顔を上げれば、十歳前後の子供が困ったように此方を見詰めて立ち尽くしていた。
その後ろには、同じほどの年齢と見受けられるもう一人の子供がいて、此方も似たような表情で是音を見ている。

是音がボールを拾って差し出すと、二人の子供はきょとんとして是音を見上げた。
受け取ろうとしない二人に、ほら、とばかりにボールを持つ手を軽く掲げてやると、ようやく子供が手を伸ばした。




「ありがとう、おじさん」
「ありがと!」




はにかんだ声と、はきはきとした元気の良い声で礼を言うと、二人はくるんと踵を返して、遠目に見守っていた仲間達の輪の中へ。
また元気に駆け回り始めた子供達の姿に、是音の口元が笑みを浮かべる。




(あれ位、だったな)




────何百年前の話になるだろう。
最早それを明確に数える事も出来なかったが、それでも思い出す事が出来る、息子の顔。
愛しいその息子の時間は、今目の前を駆けて行く子供達と同じ頃で止まっている。

……もしも生きていれば、今頃は、自分達を束ねる男と同じ位には成長してくれていたかも知れないのに。

それは考えるだけ詮無い事であり、虚しい事であり、無為な事でしかない。
けれども、考えられずにはいられない程に、是音にとって息子や妻の存在は、何物にも代え難いものであったのだ。
例えそれが、禁忌の世界に足を踏み入れ、罪の証の言葉と共に授かった命だとしても。


じゃり、と土を踏む音がして、視界がふっと暗くなった。
影の形を追うように顔を上げると、光源となる太陽を隠して、逆光になった夜色が青空に映えた。




「こんな所で何をしている?」




そう問うた男の表情は、翳りになって見えなかったが、恐らく、笑っているのだろうと是音は思った。
特に根拠はないけれど。

是音は、煙草を指に挟んで、口内に閉じ込めていた煙を吐き出して、言った。




「そっくりそのまま、同じ台詞を返させてもらうぜ、大将」




夜のような漆黒の髪と、陰陽の紋を肩に乗せた羽織、時折聞こえる金属の音。
この賑やかで平和な昼間の街風景の中で、是音などより何をしているのか甚だ疑問が尽きないのは、彼の方だろう。

是音の言葉に、焔は肩を竦めてみせるだけ。
それを見るまでもなく、どうせ気紛れなのだろうな、と是音は思っていたのだが、この様子を見ると正解らしい。


是音が焔を見上げても、焔の空と金色は此方を見る事はない。
じ、と前方を見詰める形となっている彼に、一体何をそんなに気にしているのかと視線を追ってみれば、先程の子供達が賑やかに走り回っている。




「お前、子供好きだったか?」
「さて。判らないな」




ぼんやりとした曖昧な答えを聞いて、そうだろうな、と是音は思った。


焔と言う男は、何に対しても無関心であった。
執着するものがない訳ではなかったが、それも片手で数えて足りる程度だし、それ以外の物はどうなろうと気に留めない。
それは桃源郷で暮らしている人々に対しても同じ事だから、今眼前で元気に走る子供達に対しても、それは変わるまい。
まして、自分達の最後の望みの形を思えば、ああした存在に一つ一つ意識を置いていない方が正しい、とも言える。

ならば何故、今こうして、子供達を見詰めているのだろうか。
常に感情を殺している筈の横顔に、微かな感慨の色を滲ませて。


疑問は気にはなるものの、問いかけられるような事ではなさそうだと、是音もまた子供達へと視線を戻した所で、傍らから声が聞こえた。




「あれくらい、だったか。いや、……もう少し、小さいか」




それは完全に独り言で、恐らく、聞き流してしまうのが正しいのだろうと是音も思った。
けれども、聞き流して忘れてしまうには、その呟きが彼らしくないものに聞こえて、耳に残ってしまったのだ。




「なんか思い出したのか」
「……ああ」




返事はないだろうと問いかけてみたら、意外にも答えが返って来た。
今日は気紛れの多い日だな、と思いつつ、煙草を口に咥え直す。




「孫悟空と、初めて逢った時の事を思い出した」
「へえ。あのチビと」
「随分、小さかったな」
「そりゃそうだろ」




焔と悟空が初めて逢った時────それは数か月前の出来事の話ではなく、五百年前のこと。
焔が闘神太子として着任するよりも前、是音と紫鳶がまだ天界軍に正式に身を置いていた頃であり、あの自由奔放な男達が転生する以前の話になる。


五百年の昔、天界へと連れて来られた金瞳の少年は、まだ幼い、子供と呼べる年齢だった。
紫鳶が直接の部下として仕えていた、幼い闘神太子と同じくらいに小さな子供で、何かと天界で騒ぎを起こしては話題になっていた。
観世音菩薩によって天界で預かる事となった子供は、悠久と安寧の刻に嵐を運んで来たかのように、毎日のように騒ぎを起こしていたものである。

今でさえ小柄な方である少年の事だ、幼い頃はきっともっと小さかった事だろう。
今、是音達の前で駆け回っている子供達と同じ位か、焔が言ったように、もっと小さかったか。
しかし、小さいからと言って彼は決してか弱い存在ではなく、安穏とした世界で自己の保身を願う性根の腐った男達よりも、あの子供はずっとずっと強い心を持っていた。




「それで?お前、何か話でもしたのか?」




あの子供は、誰にでも懐く。
今の是音達は、彼とは敵対関係にある為、無邪気に笑いかけてくれる事は滅多にないが、それでも時折、元々の子犬のような人懐っこさが垣間見える事がある。
ただし、純粋な敵意や悪意を持つ相手に対しては、本能的に悟るのか、強気な目で睨む事も多い。

しかし、天界にいた時分の幼い子供は、本当に誰にでも懐いていたのだ。
悪意敵意があると言う考え自体が無縁のようなもので、笑いかけられるだけで気を許してしまう事もあっただろう。
だからきっと、この人を寄せ付けない男に対しても、物怖じする事なく声をかけた筈だ。

是音は、それに対する焔の反応が直ぐに予想できた。




「話……か」
「どうだ?」
「……声をかけられたのは覚えている」
「返事はしたのか」
「いいや」




────やっぱり。
焔の答えに、是音はくつくつと笑った。




「何が可笑しい?」
「いんや。それより。お前、なんて声をかけられたんだ?」




矛先を変えるように問うと、焔は一度口を開こうとして、噤む。
細く整った眉が顰められ、そうすると何処かの不機嫌な男と似てるぞ、と胸中で呟きつつ、是音は焔の返答を待った。

一分か、二分か、────意外と長いな、と続く沈黙に対して感想を抱くようになった頃、焔が口を開いた。




「おじさん」
「─────は?」




……何か、今。
酷く不似合いと言うか、違和感と言うか、そんな単語が聞こえたような。

聞き間違いかと思って傍らの男を見上げると、彼の表情は逆光になって見えなくなっていた。
しかし是音は、なんとなく、怒っているんじゃないだろうかと思う。
これは地雷を踏んだかも知れない、と数分前の自分に馬鹿な事を訊くなと言ってやりたい。


どうにも気まずいような、喉の奥が物通りの悪い感覚を抱いて、誤魔化すように喉を摩る。




「あー……」
「…………」




いや、怒っていると言うよりは、傷付いていると言った方が正しいか。
そんなセンチメンタルな性格の男ではないとは思うが、焔は是音や紫鳶に比べると、人間的な年齢で言えば、大分若い方になる。
まして五百年前ともなれば───天界の時間の流れと、人間界の時間の流れは大分ズレがあるが───、焔も今よりも若い自覚があっただろう。

それを「おじさん」扱いとは。
無邪気で真っ直ぐな金色を思い出しながら、恐れ入る、と是音はこっそり感心していた。




「まあ、ガキの言う事だ。十歳そこらのチビからすりゃあ、大人は皆おじさんおばさんだ」




その際、実際の相手の年齢は関係ない。
子供にとって“大人”に括られた時点で、カテゴライズの幅はかなり限定されてしまい、並列して呼び名も決まってしまうものである。
その際、勿論、子供の方に悪意はない。

焔もそれは判っているようで、「……ああ」と大分間を開けてから返事があった。




「で、呼び名の事は、良いとして。他には何か話したか?」
「……花を持って行っていいかと聞かれた」
「花……ああ、あそこの花の事か」




焔が想いを寄せていた女性と共に、度々逢瀬していた、一面の花畑。
不浄の者が立ち入って、近付いた女性が処罰されたからと、天界人の殆どは近付かなくなっていたのだが、やはり子供は無邪気なものである。
周りがどれだけ、近付くな、と口酸っぱくして言った所で、基本的にブレーキのない好奇心に勝るものはない。
あの子供は、焔にとって一つの聖域のようにもなっていた花畑に入り、花を摘んで帰ったのだと言う。

子供が摘んで行った花がどうなったのかは、焔も知らない。
焔は子供の問いに答えずに立ち去ってしまっていたし、それから五百年間、焔が再び子供と正面から相対する事はなかった。


あれから五百年。
子供は、もう子供ではなくなっていたが、まだ時折、幼い心が見え隠れする。
成長真っ最中の少年の姿は、是音としても、ついつい見ていて微笑ましく思える瞬間があった。

きゃあきゃあと走り回る街の子供達を眺めながら、是音はくつりと笑う。




「どいつもこいつも、チビだな」
「そういうものなのだろう。子供と言うのは」
「ああ。だから、大人が守ってやんなきゃあってなるモンなんだろうよ」




小さな子供は、大きな力に対して、身を守る術を持たない。
だから誰かに庇護を求め、小さな手を目一杯伸ばし、小さなコンパスを必死に動かして、守ってくれる人の所へ走るのだ。




(ああ、そう言えば)





無邪気に走り回る光を二つ。
守ってやった事があった、ような気がした。