リピートエンドレス・リスタート



早朝から行われた部下への鍛練を終えた時には、時刻は昼過ぎになっていた。
朝食も些末なものを適当に胃袋に詰めて来ただけだったから、消化はとうに終わっており、空腹で若干気持ち悪さすら覚える始末。
せめて食事の時間くらい確保させてくれれば良いものを、と思いつつ、部下の鍛練をすっぽかしてしまう事も出来なかった。

是音は天界人が────天界と言うこの世界そのものが好きではない。
掃き溜めのようだと思う事も少なくはなかった。
けれども、己を好いてくれる者を一様に無碍に扱えるほど、情の薄い男でもない。
結局の所、貧乏クジを引いてしまう気質であると言う事だ。


空っぽの胃を撫でて慰めながら、遅い昼食を何にしようかと思案する。
下界に降りた時に買ったカップラーメンが余っていた筈だが、湯を沸かすのが面倒だ。




(とは言え、腹が減ってんのは確かだしな……)




火のついていない煙草を咥えて遊ばせながら、是音は溜息を吐く。


数年前までは、もう少しまともな食生活を送っていた。
元々、食事に特別のこだわりがある訳ではなかったが、腹が減っては戦は出来ぬと言う。
味だの見た目だのはどうでも良かったが、最低限、燃料補給はしておかねばならないから、インスタントでも食堂の料理でも、きちんと食べに行っていた。

そして数ヶ月前までは、帰れば温かな食事が用意されていた。
扉を開けると、無邪気に「お帰りなさい」と跳び付いて来る息子がいて、それを微笑ましそうに眺める妻がいた。
好き嫌いの多い息子を膝に乗せ、食べないとオバケに喰われるぞ、などと脅してやると、息子は青い顔でニンジンやピーマンを頬張った。
けれど、妻がふと背中を向けている時、こっそり食べてやる事もあった。
それがばれて、甘やかしては駄目、と綺麗な面を怒りで赤くした妻に怒られて、息子と一緒に白旗を上げる事も、あった。

……そんな温もりを一度でも味わってしまったら、もう他の食事なんて採る気になれない。
あの温もりが二度と戻って来ない事、守ってやれなかった事を、現実として突き付けられているような気がしたら、尚更。



とは言え、このまま夜まで何も食べない訳には行かない。
やっぱり部屋に帰ってラーメンでも食べるか、と面倒臭さに頭を掻きながら、突き当りの角を曲がり、

─────ドンッ、と勢いよくぶつかってきた塊が二つ。




「うおっ!?」
「わ!」
「いてっ!」




後ろに蹈鞴を踏んだ是音の前で、ころんころんと転がる影。
倒れまいと踏ん張り、是音が視線を落としてみると、其処には大地色と銀色があった。




「いってー……なんだよ…」
「那托が前見ないからだぞ」
「お前が押すからだろ」




床に座り込んで、ぺちぺちとお互いの額やら頬やら肩やらを叩き合っているのは、この天界で知らない者はいないと言う程の有名な子供達。
下界から連れて来られた、大地が生んだ精霊と、この天界で唯一の死を背負わされた闘神太子────悟空と那托であった。


那托の事は、同僚である紫鳶からよく聞いていたし、天帝の間で実際に目にした事は何度もあった。
しかし、別隊に所属する是音は、こうまで近い距離で彼と接触した事はない。
曲がり角でぶつかるなど、今まで有り得なかった事だ。

その隣にいる子供についても、是音は初めて目にした。
天帝の生誕祭での騒ぎや、牛魔王討伐から戻った那托の下に現れた事は聞いていたが、是音はその場に居合わせる事はなかった。
しかし、大地色の髪に金色の瞳、両手両足の枷を見れば、この子供が件の“人でも妖怪でもない”特異な生き物である事は明らかだ。


あちこちで実しやかに耳にする、不浄なるもの、異端なるものと言う、陰口染みた囁き。
それを聞いていた時、是音は特別何某かを思う事はなかったのだが、こうして実物を目にすると、噂は所詮噂でしかなく、無責任の産物であったと実感した。




「だからアレやりすぎって言ったじゃん!」
「なんだよ、お前だってノリノリだったじゃないか!」
「オレ止めたもん!」
「ガムテ持ち出して来たの悟空だろ!」
「口と目塞いだのは那托じゃんか!」




お互いに責任を押し付けて言い合う二人は、まるで小さな子供────いや、事実彼らは子供なのだ。
是音は丸くしていた双眸を細め、きゃんきゃんと子犬のように吼えあう二人の頭をがしっと掴んでやった。




「うっ?」
「ふえっ?」




捕まった!?と身を固くする二人だったが、怖々と顔を上げて、其処にいるのが見知らぬ人物であると知り、今度は彼らが目を丸くする。
きょとんとして見上げて来る、零れんばかりの大きな瞳に、是音の顔が綺麗に映り込んでいる。




「お前ら、何したんだか知らねえが、逃げてるんなら喧嘩なんてしてる場合じゃないんじゃねえか?」
「あ!」
「そうだった!」




はっとしたように、子供達の顔が蒼白になって行く。

是音が掴んでいた頭を放すと、二人は是音の脇を擦り抜け、一目散に廊下を駆けて行った。
そのまま暫く走った後、途中の分かれ道を曲がって、彼らの姿は見えなくなる。


何をしていたんだかね、と、ぶつかった拍子に床に落とした煙草を拾い、ふっと息を吹きかけて埃を払う。
火を点けようかと悩んでいると、ばたばたと騒々しい足音が聞こえてきた。
子供のような軽いものではない、大人の足音だ。




「チビども、何処だー!?」




良く言えば平穏で静かな、悪く言えば喧騒を憎悪の如く排除したがる風潮の天界には、中々似つかわしくない騒音が聞こえた。
が、それは先程も是音の傍らを台風のように駆け抜けて行ったので、特別驚きはしなかった。

さて今度は何が出て来るだろうと、是音がのんびりと待っていると、




「こっちか!────っと、」




廊下向こうの分かれ道の角から、黒衣の男が現れた。
此方も先の子供達に負けず劣らず、天界軍では有名な、捲簾大将である。

眉尻をこれでもかと言わんばかりに吊り上げていた捲簾は、是音の姿を見付けると、慌てたように表情を緩める。
是音が歩み寄ると、捲簾はみっともない所を見られた、とでも言うように、気まずそうに頭を掻く。




「随分賑やかだな、捲簾大将」
「あー……まぁな」
「何かあったのか。例えば、何処かのお子様に悪戯された、とか」




是音の言葉に、ピク、と捲簾の眦が鋭くなった。




「見たのか、チビ二人」
「ああ、ついさっき」
「どっち行った?」
「此処を真っ直ぐだな」




子供達が駆けて行った道を指差す。
“真っ直ぐ”に。

捲簾は、サンキュ、と挨拶もそこそこに、走り出した。
怒声のような意味不明の言葉が聞こえて来たが、それも程なく消えていく。
真っ直ぐに廊下を走った先の、突き当りの曲がり角の向こうへと。

怒声も足音も遠く聞こえなくなったのを見計らって、捲簾は傍にあった窓を開け放った。
緩やかな風が是音の頬を撫で、何処からか運ばれてきた花びらが桟に落ちる。
是音は花びらの乗った桟に腕を乗せて、窓のすぐ下を覗き込んだ。




「おっかねえのは行ったぞ、悪戯坊主ども」




────其処には、縮こまって壁にくっついている子供が二人。
先程、捲簾が駆けて行った道を、途中で曲がった悟空と那托であった。

恐る恐る、二人の顔が持ち上がって、是音を見上げる。
行った?と改めて無言で聞いて来る二対の瞳に、是音が頷いてやると、ようやく二人の子供は立ち上がった。




「あー、怖かった」
「すっげー怒ってたもんなぁ」
「だからやり過ぎだったんだって、アレ」




まだ落ち着かないらしい心臓の鼓動を、胸を撫でて宥めつつ、悟空と那托は安堵の息を吐く。

怖かったな、ともう一度呟く二人を見て、確かに中々の形相であったと是音も思う。
捲簾大将と言う男は、中々気風が良く度量も広く、子供のちょっとした悪戯なので怒り心頭にはなりそうにない(寧ろ一緒にふざけそうだ)。
そんな彼があそこまで般若の顔で子供を追い掛け回すとは。




「お前ら、捲簾大将に一体何やらかしたんだ?」




窓枠に寄り掛かって問う男に、子供達が互いに目を合わせる。
誰こいつ、顔知ってるけど知らない、と囁き合うのが聞こえた。
ちら、と何処となく胡乱な眼差しを向けられて、助けてやったのに、と是音は胸中で溜息吐き、




「那托太子、あんたのトコの部隊に紫鳶ってのがいるだろう」
「ああ……おっさん、紫鳶の知り合いなのか?」
「お……」




那托の言葉に、是音の顔が引き攣る。
しかし、おっさんと言えばおっさんだよな……と自身の年齢と、子持ちであった事を思い出せば、10歳前後の子供からそう称されるのも無理はない、と思い直す。

一つ息を吐いて思考を立て直してから、是音は那托の言葉に頷いた。




「まあ、一応だけどな」




紫鳶とは同僚であるし、他の者よりも比較的会話を交わす事が多いので、知り合いであるのは間違いないだろう。
友人か、と言われると、是音も少々首を傾げてしまう所だが。

ふぅん、と肩の力を抜いた那托に、友達の知り合いの知り合いなら大丈夫だと思ったのか、悟空も硬質化していた空気を解いた。
素直過ぎる二人の子供に、危なっかしさを感じつつ、是音は小さく口元を緩める。




「それで、何の悪戯をしたんだ?」




改めて問うと、那托が袖に手を入れて、何かを取り出した。




「これ」
「……ガムテープ?」
「寝てるケン兄ちゃんの目と口に貼ったの」




─────中々怖い遊びをしてくれる。

眠りから覚めた時、目を開ける事が出来ず、声を上げる事も出来なくなっている等と、誰が予想して眠るものか。
せめてどちらか片方だけなら、見えないなら助けを呼べるし、声が出なくても視覚があれば大凡の情報を知る事が出来る。
情報も与えられず、救援も呼べないなど、幾ら百戦錬磨の戦士と言えど、パニックに陥るのは無理もない。

あくまで悪戯したのは目と口だけだったので、手足は動くし、お陰で自力でガムテープを剥がす事も出来たようだが、寝起きドッキリにしてはやる事が少々悪質だ。
しかし、子供達はそんな事などお構いなしで、




「鼻も塞ごうかと思ったんだけどさー、流石にそれって死んじゃうじゃん、下手したら」
「そうだな……」




其処までやったら、悪戯を通り越して殺人未遂になり兼ねない。
思い留まってくれて本当に良かったと思う。


それにしても────成程、あの男が怒り狂う訳だ。
流石に、ただの子供の悪戯として流すには度を越している。
下に恐ろしきは、無知と無邪気であるとよく判る。

子供が間違った事をしたら、それがどんなに悪意のない事であっても、それは悪い事であるときちんと教えて叱らなければいけない。
それが子供を守り、保護し、育てる大人の義務である。
しかし、当の子供達は、とにかく怒られるのが怖くて逃げ回っているようだ。




(……しょうがねぇなあ)




是音はがりがりと頭を掻いて、咥えていた煙草を手に取った。
寄り掛かっていた窓から体を放す。




「お前ら、隠れるんなら俺の所に来な」
「え?」
「…あんたのとこ?」




いいの、と言う表情で見上げて来る子供達に、本当に無垢なのだなと是音は思う。
見上げる二対が、失った自分自身の光とよく似た輝きを灯しているから、尚更。




「屋敷の中をうろつき回ってたら、遅かれ早かれ見付かるだろ。それより、あっちが絶対に思いつかない所に逃げ込んで、ほとぼりが冷めるのを待つ方が安全だぜ」
「そう……?そっかな?」
「うーん……確かに、さっきから隠れて捕まってだからなぁ。此処って軍の奴らが皆使ってる屋敷だから、捲簾の方が詳しいし。俺達、分が悪いし」
「じゃあ、行く?」




冷や汗を流しながら隠れ周るのに疲れていたのか、悟空の方はもう答えが出ているらしい。
親友に、どうするの、と問われた那托の方は、迷うように唸っているのだが─────ぐぅ、と二人の子供の腹が盛大に音を鳴らし、




「……今なら、昼飯もついてくるぜ。カップラーメンだけどな」




─────子供を釣るには食べ物が一番、というのは、古今東西の地上も天上も変わらないものである。