リメンバー・リリース




部下の稽古を見届けた後で、是音は自室に戻るべく、歩を進めていた。
組まれたスケジュールの中では、この後も別班の部下の稽古に付き合う事になっていたが、気分が乗らなかったので、適当な言い訳をして逃げさせて貰った。
どうせ、自分がやっている事と言ったら、本当に“見ているだけ”なのだ。
指導するような事がある訳でもないので、部下の中でも真面目な気質の者に役目を押し付けて、是音はそそくさと退散したのである。

部下は自分を慕ってくれているので、無下にするつもりはない。
ないが、どうしてもやる気が出ない日や、見ているだけの時間の退屈さに辟易する日はあるものだ。
だから今日は一足先に現場を後にして、その代わり、次の稽古の時は真面目に付き合ってやろうと思う。
……その日になったら、また逃亡する可能性も、無きにしも非ずだが、今それについて是音を言及する者はいない。


こう言った、非常に個人的な理由で、午後から夕方にかけての訓練をサボった是音であるが、かと言って、これからするべき予定がある訳ではない。
組まれていた予定をサボって無理やり空けたのだから、当然の事だ。

さてこれからどうするかな────と、ぼんやりと考えながら(要するに何も考えてはいない)回廊を歩く是音の目に、小さな人影が移った。
それは回廊向こうの広い中庭の真ん中で、ぽつんと地面に座り込んでいる。



(ありゃあ……この間のチビ助か?)



────今から、一ヶ月ほど前になるだろうか。
惰性な生活が癖になって来たので、明確な日付はすっかり頭から抜け落ちてしまっていたが、恐らく、それ位前の事だと思う。

過ぎた悪戯をして、逃げ回っている二人の子供を保護及び捕獲した日の事。
容易く見つかりそうな所に隠れる子供を、是音は自分の部屋へと連れて行き、過ぎた悪戯を叱って、被害者であった軍大将に謝るように促した。
その後の事は是音は知らないが、あれから時折軍大将を見かけても、彼は常と変らない様子だったので、きっと子供達はきちんと謝ったのだろう。
拳骨の一つ二つは貰ったかも知れないが、それで許して貰えたのなら、御の字と言うものだ。


その時の子供の片割れが、いる。



(今日は一人か?)



是音が辺りを見回しても、あの時連れ立っていたもう一人の子供の姿は見付からない。
闘神太子が率いる隊に出動要請はなかったと思うが、かと言って、あの子供に自由な時間が許されている訳ではないだろう。
彼の背景について知りつつ、先日の無邪気な様を思い出した是音は、ガキなんだからもっと遊ばせてやればいいのに────と思う。

そして、取り残されたように、庭の真ん中でぽつんと座り込んでいる子供にも、是音は似たような事を考えていた。
もっと誰か、純粋な心で構ってやる大人がいれば良いのに、と。



(つっても、まぁ……しょうがねえよなぁ。単なるガキじゃねえんだから)



是音は、回廊から庭へと下りた。
柔らかな土草を踏みながら、ゆっくりと子供の背中へと近付いて行く。

足音が聞こえたか、それとも気配を察したか。
子供の頭が揺れて、ちゃり、と小さく金属の擦れる音が鳴った。
振り返った金色が是音を見付けて、ことんと首を傾げる。



「あれ?あんた─────」



邪気のない金色が、じっと是音を見詰めている。

えっと、と考え込む異端の子供────悟空に、是音はそのまま近付いた。
座り込んでいた悟空の傍らに肩膝をつくと、つんつんと立った大地色の髪をぐしゃぐしゃと撫でてやる。
悟空は撫でられるまま、ゆらゆらと頭を揺らしながら、見下ろす隻眼の男を見上げた。



「えっと……」
「覚えてるか」
「うん。でも、あんたの名前、覚えてない」



言葉を濁すでもなく、はっきりと言った子供に、そりゃそうだ、と是音は思った。



「この間逢った時、俺はお前らに名前を言ってなかったからな」
「そうだっけ」
「少なくとも、俺は名乗った覚えはねえなぁ」



だから、名前を覚えていなくても無理はない。
そもそも知らないのだから。

そっかー、と納得したように頷く悟空に、つくづく警戒心が足りないな、と是音は思った。
一ヶ月前、名前も教えないまま、彼らを自室に招いた自分が言えた台詞ではないが、子供達のあの行動は、幾らなんでも無防備過ぎる。
知らない人について行っちゃいけません、と言う教えすら、子供達はすっかり忘れているようだ。
知り合いの知り合いだとか、保護者の友人の知り合いだとか、それだけであっさり信用してしまう程、彼らは良い意味でも、悪い意味でも、無垢であった。


是音が撫でていた手を離すと、相変わらず疑う事を知らない金色が見上げて来る。
心なしか嬉しそうに煌めいて見えるのは、構って貰える相手が現れたから、だろうか。



「なあ、あんた、暇なの?」



きらきらと輝いた瞳で言った悟空は、判り易く、返事を期待しているのが見て取れた。



「ま、そうだな。暇っちゃあ暇、って感じか」
「じゃあ遊ぼ!那托と遊ぶ約束してたんだけど、急に軍のしゅーしゅーかかったって、遊べなくなってつまんなかったんだ」



那托率いる軍に天帝からの収集命令────それは即ち、那托に下界への出陣命令が下ったと言う事だ。
それを聞いて、是音は片眉を潜めた。
数ヶ月前に牛魔王討伐を終えて以来、事後処理を任されている是音達が見るに、下界は平穏なものとなっている。
以前はあちこちで暴れまわっていた化け物達も形を潜めた為、闘神太子が出張らなければならないような事態は起きていない筈だ。

どうもきな臭い気がするな、と訝しむ是音であったが、目の前の子供には、そんな大人の事情は何処吹く風だ。
なぁなぁ、と小さな手が是音の服の裾を引っ張る。



「おじさんってばー」
「………」



10歳前後の子供からすれば、自分が立派な“おじさん”である事は、理解している。
結婚していたし、息子もいたしとなれば、尚の事だ。
それでもやはり、言われてしまうと傷付いた気がしてしまう。

とは言え、ムキになって訂正するような事ではないから、是音は先の子供の言葉は聞かなかった事にして、なんだ?と金色と向き合った。



「な、遊ぼ!」



────そう言って、無邪気に誘ってくる子供の笑顔が、いつか見た息子の顔と重なった気がした。















「あれ?」



是音が自室のドアを開け、悟空が中に入る。
その後の悟空の第一声が、それだった。


金属の音を鳴らしながら、悟空は遠慮なく部屋の真ん中へ駆けた。
其処に立ち尽くして、きょろきょろと部屋全体を見渡した後、悟空はかくん、と首を傾ける。
何か奇妙なものでも見つけたか、夢幻の中にでも迷い込んだかのような子供の仕草に、是音は声をかけた。



「どうかしたか」
「……ここ、本当にあんたの部屋?」



辺りを見回しながら、悟空は尋ねた。
ああ、と是音が頷いてやると、かくん、と傾けていた首が反対側へと倒れる。



「なんか前と違う?」
「…ま、そりゃそうだろうな」



一ヶ月前、子供達が初めてこの部屋に来た時には、酷い有様だった。
脱いだものは脱ぎっぱなし、洗濯物は吊るしたまま片付けず、ゴミは袋に纏めてはいたもののゴミ捨て場まで出さずに放置、埃も被っていたし────とにかく散らかっていたのだ。
部屋に入った子供の第一声が「汚い!」だった位に、目も当てられない状態になっていた。

あまりにも正直すぎる感想を述べてくれた子供達が帰った後、是音は部屋の掃除を始めた。
溜め込んだゴミはまとめて捨てて(分別は面倒なのでしていない。するべきであったのだろうが、其処までマメな性分ではないので無理だった)、埃の被った衣類はまとめて洗濯した。
干して乾いた洗濯物は、畳むのが面倒だったので、取り敢えずまとめて箪笥に突っ込んだ。
綺麗好きな人間が見たら、「これは目に見えない場所に隠しただけ」と言った程度の簡単な掃除ではあるが、それでも、部屋の中はかなり見違えた。
要するに、それだけ汚かったと言う事だが、そんな追い打ちをかける者は、今の是音の傍にはいない。


以前は脱ぎ散らかした衣類で周囲を生めていたベッドは、今は足の踏み場を探さなくても簡単に辿り着けるようになっている。
是音がそのベッドに腰を下ろすと、悟空も直ぐにその隣に座った。
ぷらぷらと短い脚を遊ばせると、足首についた鎖がちゃりちゃりと金属をぶつけ合う音を小さく鳴らす。

金色が是音を見上げて、うきうきと楽しそうに閃いた。



「なあ、何して遊ぶ?」
「……あー、そうだな……」



悟空の問いに、是音は部屋の中を見回す。
小物入れになっている小箪笥が目について、是音はベッドから腰を上げた。
引き出しを一つ開けると、ごちゃごちゃとした小物の中に、プラスチックケースに入った厚紙の束がある。



「お前、トランプって知ってるか」



ケースの蓋を開けて、トップにあった一枚を手に取って表替えして見せると、其処にはダイヤのエース。



「知ってる!天ちゃんにババ抜き教えて貰ったよ」
「ババ抜きか……他に何か知ってるルールはあるか?」
「ポーカーも教えて貰った。数字が同じのが揃えば良いんだろ?」
「……まあ、そうだな」



少なくとも、フォーカードまでは悟空が言った通りのもので間違いではない。
しかし、それ以上の役を、悟空はどうやら覚えていなかったようだ。

是音は、もっと単純で判り易いルールのものはないかと考えて、



「お前、神経衰弱って知ってるか?」
「しん……?」



きょとんとして首を傾げる悟空に、よしよし、と是音は思った。

是音はベッドを下りると、床にカードを一枚一枚並べて行く。
整然と並んで行くカードを見て、悟空はまたなんだろう、と首を傾げた。
是音は52枚のカードを裏返した状態で並べ終えると、余ったジョーカーはケースに戻し、胡坐をかいて床に座った。



「神経衰弱ってのは、早い話が、絵合わせ───と言うより、数字合わせだな」
「数字合わせ……」
「やり方は、先ず俺が一枚、表にする。……スペードのエースか。って事だから俺は、このカードの中から、同じエースのカードを見付ければ自分のモンになる。ただし、捲れるチャンスは一回だけだ」
「自分のもの…?」
「点数代わりだと思えばいい」
「点取りゲームなの?」
「判り易く言えばな。同じ数字のカードを引けば、そのカードは二枚とも自分のモンになる。おまけで、次のカードを捲るチャンスも貰える。だが────」



是音が適当に一枚のカードを捲ると、其処にはダイヤの8。
是音は二枚のカードを裏返した。



「外れるとこの通り、点にはならない。で、お前の番だ」



指差して行った是音に、悟空は自身の顔を指差して、ぱちりと瞬き一つ。
取り敢えずやってみろと促すと、悟空は並べられたカードを見渡して、悟空から向かって右側にあったカードの一枚を表替えすと、其処にはハートのエース。



「あ!」
「お、ラッキーだな」
「柄の色、赤と黒でもいいの?赤は赤じゃないと駄目?」
「いいや、数字さえあってりゃ問題ないぜ」
「じゃ、確か…えーっと、えーっと……これ!」



悟空は是音が先程捲ったカードを表返し、記憶通り、スペードのエースを見付けて、嬉しそうにはしゃぐ。



「やった!このカード、俺が持ってっていいの?」
「ああ。そんで、もう一回チャンスだ。好きなの捲りな」
「んー……じゃあこれっ」



合わせたカードを手元に引き取って、悟空は次のカードを捲る。
ハートの9と対になるものを探し、きょろきょろとカードを見渡して、



「……ちょっと覗いちゃ駄目?」
「そりゃ無理だなぁ」



上目でおねだりしてくる子供に、是音はからからと笑って言った。
だよなぁ、と悟空は眉尻を下げ、きょろきょろとカードを見回し、目についた真ん中のカードを表替えす。



「────残念でした、と」
「ちぇー」
「次は俺だな」



是音は自分の目の前にあるカードを一枚捲ると、同じ列の左端のカードを捲った。
数字は揃わず、どちらもカードを裏に戻して、再び悟空の番になる。

悟空は向かって左の端から二番目を捲り、



「あ、8ってさっき出た!」



スペードの8のカードを見て、悟空が声を弾ませる。
この辺りにあった、と小さな手が伸ばされたが、それは中々カードに触れず、数枚のカードの上をふらふらと彷徨う。
大体の場所は覚えているのだが、その中の何処にあったのか、詳細な部分が全く思い出せなかった。

一か八かで、彷徨っていた手が「これ!」と一枚のカードを叩く。
ドキドキと煩い鼓動を感じながら、悟空がカードを引っ繰り返すと、



「残念でした」



先と全く同じ言葉を投げかけられて、悟空は判り易く頬を膨らませた。
是音はそんな悟空にくつくつと笑い、悟空が裏返したばかりのスペードの8を表返す。



「8は、此処だ」



記憶の中から、自分が選んだカードのポジションを思い出し、是音は一枚のカードを表に返す。
それは先程、悟空が選んだカードの直ぐ隣にあったもので、表にして露わになった柄は、ダイヤの8。



「あーっ!ずるい!」
「ずるいってなぁ、こういうゲームなんだから仕方がねえだろ」



握り拳を振り上げて、抗議するように賑やかになる子供に、是音は眉尻を下げて行った。
ぐうう、と唸って睨む金色は、心底悔しいと言う感情が見て取れる。

是音が次のカードを続けて捲ると、見覚えのある数字が表れた。
さっき見たな────と記憶を掘り起こしていると、向かい合う子供もそれを覚えていたようで、きょろきょろと並んだカードを見回している。
その視線がある一点に行き付いた所で、是音は其処に向かって手を伸ばす。
慌てたように両手をばたばたとさせ始めた子供を尻目に、是音はカードを表替えした。



「二連続ゲットだ」
「ずーるーいー!」



きゃんきゃんと吼えてまたも抗議する悟空。
そのまま掴みかかって来そうな悟空に、是音は両手を上げて降参ポーズで宥めてやる。



「偶然だ、偶然。怒るなよ」
「うーっ…!」
「さて、お次はこれと────……お、外れた。ほれ、お前の番だぜ」



捲ったカードの数字を確かめた後、是音はカードをまた裏返した。
悟空は拗ねたように唇を尖らせながら、ようやく回って来た出番を消費させる。
しかし、またも悟空は外してしまい、得点はないままで出番を明け渡す事になる。

是音は自分の一枚目のカードを表替えす前に、不貞腐れた顔をしている悟空を見て言った。



「お前、暗記は苦手か?」
「あんき?」
「あー……記憶力っつーか、物覚えっつーか、そんな感じの。ぱっと見てすぐ覚えてって言う奴」
「すげーって思った奴は結構覚えてるよ」
「じゃあ、こういうのはどうなんだ?」



カードの暗記なんて、どう考えても地味なものだ。
インパクトがある訳ではないし(数字に比べ絵柄のあるカードならば、多少はインパクトを持つかも知れないが)、幾ら単純な柄と数字を覚えるだけとは言え、苦手な人間にはこれも中々難しかったりするのだ。
増して、ずらりと並んだ50枚前後のカードの中から、一度だけ見た数字の場所を瞬間記憶するのは、大人でも容易な事ではない。
全てのカードが表替えった状態で、一挙に記憶しろと言うならともかく、それぞれバラバラに覚えなければならないのだから、尚更。


悟空は、是音の問いに、眉尻を下げた。
それが子供の胸中をありありと体言していて、是音の苦笑を誘う。

恐らく、この子供は暗記術は不得意なのだろう。
いや、暗記に限らず、頭を使うタイプのもの全般が苦手なのかも知れない。
だとすれば、この遊び選びは失敗だったか。



是音は沈黙した悟空の表情に気付かない振りをして、カードを捲った。
また見覚えのある数字が表れる。
子供の視線がそわそわと落ち付かなくなったのを見て、是音は次のカードへと手を伸ばした。