もう少し、あと少し










ほんの少し前まで、見下ろしていた筈なのに

気付いた時には、案外と近くに目線が来ていたりするものだから


その意味に気付くまで、もう少し、わざとらしく子供扱いしてみせる




















“それ”の存在を知ったばかりの頃は、“それ”が近付く度、指折り数える子供の姿が見られていた。
“それ”は子供にとってとても特別なもので、楽しみなもので、待ち遠しい物だった。
そんな子供の姿に、保護者や周囲の大人達は呆れていたり微笑ましげに眺めていたりと言う風であったが、“それ”をわくわくとした心で待ち続けていられるのは、正しく子供の特権と言う奴で、それを邪魔しようとする意地の悪い者はいなかった。


“それ”が近付くと、子供は毎朝、日捲りカレンダーを確かめる。
数字が一つずつ上がって行くのが、カウントダウンだった。

元々朝に強い子供であるが、“それ”が近付くと、尚の事強くなる。
日捲りカレンダーを捲った後は、うきうきとした表情で惰眠を貪る保護者の傍らで丸くなり、カレンダーを見詰めながら、保護者が目を覚ますのを待つ。
保護者が起きて、朝食を採った後は、子供は自由時間となるのだが、その間も子供はずっと浮かれっ放しだった。
“それ”が来る日が楽しみで仕方がないのだ。
その日になったら───と思うだけで、子供は足も心も軽やかにならずにはいられない。

浮かれ過ぎて、木登り中に足を滑らせて落下したり、まだ青い実を食べて酸っぱさに顔を顰めたりしたが、そんな事は子供にとって大した問題にはならなかった。
頭の中は楽しみにしている“それ”で一杯だったのだから。


しかし、子供が“それ”を楽しみにしていたのは、子供が子供でいられた間だけの事。
目の前の事で頭が一杯になって、無邪気にそれに夢中になって、楽しい事だけを考えている事を、赦されていた間だけの事。

一つ、また一つ。
幼かった子供の背が伸びて、少年となり、大人の形がぼんやりと覗けるようになった頃。
子供は子供ではなくなり、少年から大人へと、柔らかな殻を破ろうとする頃、嘗て子供であったその少年は、無心に“それ”を待ち侘びる事はなくなっていた。
















毎日の出来後を記帳した日記帳は、八戒にとって大切なものであった。

毎日の出来事を───とは言うものの、本当に毎日の出来事が記帳できると言う事は珍しい。
移動中は朝から晩まで運転手としてジープを走らせ、夜になると野営の食事を用意しなければならない。
眠る頃にようやく暇が出来るのだが、明日の行程を思えば、また朝から晩まで運転手を担わなければならないので、早目に休むのが好ましい。


八戒は、几帳面な性格だ。
そして、何事も丁寧に、綺麗に片付けたい。

日記も同じだ。
書き始めたら、出来るだけ丁寧に、一日の出来事をまとめて記して置きたい。
誰に見せる訳でもないので、自分だけが判るように書いても良いのだが、最早書き方の癖とでも言えば良いだろうか。
朝食の時に悟空と悟浄がエビを取り合って喧嘩を始めたとか、昼食直前に妖怪が襲撃に来た所為で、昼食のスープが入っていた鍋を引っ繰り返され、悟空が見事に怒り狂ったとか、三蔵が悟浄のライターのガスを勝手に抜いて自分のライターに補充した事について、悟浄が坊主が窃盗罪を犯して良いのかと、今更な文句で一触即発に陥ったとか────どれもこれも、羅列すれば非常に下らない事であり、且つ「いつもの事」と片付けられるような出来事ばかり。
だから、一々事の顛末の次第を全て書き記すのは意味がない事のように思える。

だが、これは最早癖だ。
そして、書いているのが楽しいので、やはり止める事は難しい。



八戒が記している日記は、ぶっちゃけてしまえば、自己満足の代物なのだ。
自分自身を見つめ直す為にだとか、新たな点を発見する為にだとか、そんな有意義な理由で始めたものではない。
ただ、書き記して置こうと思ったから、始めただけのものだった。

だから好きなように書けば良いのだ。
一から十まで詳細に記しても良いし、箇所書きになっても良いし、「特になし」の一文で終わらせてしまっても良い。
文章に起こすには抵抗のある事があるのなら、それは無理に書かなくても良い。


そんな気持ちで書いているから、一年以上も長続きしているのかも知れない。
西域への旅を始めて以来、書き続けてきた日記の過去を読み返しながら、八戒はそんな事を考えていた。



(案外、早いものですね)



一年だ。
たかが一年。
されど一年。
長いようで短いし、短いようで案外と長い。

生まれてから二十三年───旅を始めた頃には二十二年だったか───間、過ごしてきた日々の数を思えば、一年なんてものは一握りの砂粒に過ぎない。
しかし、その一年間の密度を思うと、こんなにも濃いのは初めてだったのではないか、とも思う。
寺院にいた頃が薄かったとは思わないし、増して、それ以前の記憶が霞んでしまった訳でもないけれど、どうにもこの一年の日々は濃いように思えてならなかった。


歳を取ると一年が過ぎるのが早くなる、と言うのは、子供の頃のように日々新しい刺激を得る事がなくなるから、らしい。
年齢を重ねた分だけ、経験も重ねている訳だから、幼い頃のように、世界の全てが新しく思える事が減って行く。
幼い頃、一秒一分の時間が経つ度、世界が目まぐるしく変革して行くように思えたのは、まだ経験が浅い為に、新感覚の情報の刺激が強く印象に残るからだ。
大人になるとそれが減り、老人になる頃には、新しい刺激など早々出会えなくなってしまい、刺激が少ない=強く印象に残る出来事が少ないと言う事になり、時間が経つのが早く感じるのだ。

その他にも、人間の体内で起こる血圧や脈拍数の変化も、時間の経過の感覚変化に関係があるようだが、今はそれは言うまい。

街で過ごしていた日々に比べ、旅に出てからの一年間が酷く濃厚な一年であったかのように思えるのは、恐らく、それが理由なのではないだろうか。
街で過ごしていた頃とは違い、旅をしている今は、毎日何かしらの変化が起きる。
風景であったり、天気であったり、足下で響く砂利の音であったり。
煙草の匂いや、後部座席の喧騒と銃声は変わらないが、その時に響く売り言葉買い言葉、悲鳴の色は毎回違う。
騒動の種は幾らも種類がないので、其処に関してはパターン化しているが、それは街にいた頃も同じだったので、これは最早、様式美だ。
そのパターンも含めて楽しめば良い、と八戒は思っている。



ぱらり、とページを捲ると、白紙に迎えられる。
其処で八戒は、日記帳の表紙に固定しているペンを手に取り、ページの上部に今日の日付を書き込んだ。

四月四日────そう記してから、あ、と八戒は小さく声を漏らした。
















騒々しさは相変わらずながら、概ね穏やかな一日であった。
お陰で一昨日の妖怪襲撃に因る大幅な遅れを取り戻す事が出来、予定通りの日数で街に辿り着く事が出来た。

とは言え、それなりの強行軍を押したのは事実である。
一日走り通したジープは、街に着くと直ぐに変身を解き、八戒の肩で文字通り羽を休めている。
今日はペット化の宿屋が取れれば良いが、と八戒が宿場通りへの道を確認していると、



「あ〜…腹減ったぁ……」



お決まりの文句と共に、これまたお決まりの腹の虫の音が鳴り響く。
小さな体の何処から、どうやってこんなにも大きな音が鳴るのか。
八戒が苦笑しながら振り返れば、悟空が空きっ腹を宥めるように、腹を撫でながら深々と溜息を吐いていた。
その隣で、悟浄が呆れた表情を浮かべている。



「お前な。昼飯人一倍食い散らかした癖して、もう空きっ腹かよ。燃費が悪いにも程があるぜ」
「仕方ないじゃん、悟浄と違って育ち盛りなんだから」
「へいへい。お子様は大変だね」
「誰がガキだ!」



きゃんきゃんと噛み付いて来る悟空に、悟浄は煙草を吹きかけて揶揄う。
むせ返って涙目になる少年の姿に、悟浄はけらけらと面白がって笑った。

そんな二人に、いつもの激が飛ぶ。



「煩ぇ、馬鹿共!静かにしてろ!」



なんとも景気の良いハリセンの音が響き渡り、通り過ぎる街人達が何事かと振り返る。
何するんだと抗議する二人に、もう一度ハリセンが振り下ろされた。
目立つのは御免だ、と悟空と悟浄を睨む三蔵だが、そんな彼も、十分目立つ理由の一端を担っている。
そんな三人をにこにこと笑顔で見つめる八戒もまた、理由の一端を担っているのだが、そんな事は当人は気付いていない。


街までの道中と変わりない、今日も今日とて賑やかな面々。
しかし、強行軍と野宿続きで疲労が溜まっているのは否めない。
三蔵の不機嫌の象徴とも言える、眉間の皺が常の五割増しになっているのを見れば、それも明らかだ。

街の出入口傍に設置されていた、案内図を見上げた八戒は、今一度、宿場通りへの道順を確認すると、賑やかな三人へと向き直った。



「皆さん、行きますよ」
「行くって、晩飯?」
「いえ、宿屋に」



きらきらとした瞳で言った悟空に、八戒は眉尻を下げて言った。
途端、悟空はしょぼくれた子犬のように、判り易くテンションを下げた。



「宿なんか後で良いじゃん。それより、早く飯食おう」



小さな子供がおねだりでもするかのように、八戒の服の袖を引っ張りながら、悟空は言った。
それから、「ジープも腹減ったよな」と、八戒の肩に乗っているジープに同意を求める。
ジープはきょとんとした表情で首を傾げ、自分の飼い主である八戒を、困ったように見上げた。
お腹が空いているのは確かだけど、八戒は宿屋に行くと言っているし……と、赤い瞳が困惑を表している。


時刻は夕刻。
街は十分大きなもので、宿場通りもそれなりの規模がある。
旅人が通過点として立ち寄る街なので、古くから宿場町として栄えており、宿の数も(ランクを問わなければ)かなり多いようだった。
ならば、今直ぐに慌てて宿を取る必要もあるまい。

何より八戒は、“今日”と言うこの日、悟空を甘やかす事に決めていたからだ。



「そうですね。じゃあ先に夕飯にしましょうか」
「宿が先だ」



八戒の言葉に、やった、とガッツポーズしかけた悟空の動きが、介入した声によって止まった。
不機嫌を滲ませたその声は、無論、最高僧のもの。



「飯なんざ後でも食えるだろうが」
「宿だって後で取れるじゃん!」
「部屋がなくなって、お前らと顔を突き合わせて寝るのは御免だ」



すたすたと歩き出した三蔵に、悟空が抗議の声を上げるが、彼の歩みは止まらない。
悟空と違い、空腹感より疲労感の方が大きい三蔵は、食事よりも睡眠を取りたいようだ。
悟浄も今日は三蔵と同じ気分らしく、拗ねた貌をしている悟空に肩を竦めて見せると、三蔵の後を追う。

ぐうぅぅう、と悟空の腹の虫が盛大な音を立てた。
折角夕飯にありつけると思ったのに、お預けを食らわされて、悟空はがっくりと肩を落とす。



「飯〜……腹減った〜……」



三蔵の決は基本的に覆らない。
そして、一行の財布の紐を握っているのは、ゴールドカードを所持する三蔵である。
悟空が彼に逆らう事は出来ない。

とぼとぼと歩き出した悟空の背中は、空腹と気持ちの消沈も相俟って、なんとも哀愁が漂っている。
八戒はそんな悟空の隣を歩きながら、大地色の髪をぽんぽんと撫でて慰めた。



「食堂のある宿を選べるようにしますから、もう少しだけ待って下さいね」
「うー……うん…」



此処で自分が何を言っても、どうにもならない事は、悟空も重々判っている。
だから、渋々と言った表情を浮かべながらも、悟空はこっくりと頷いて、大人しく三蔵達の後に続く。

悟空の肩へと乗り移ったジープが、慰めるように悟空の頬に頭を摺り寄せた。