桜の約束、数え唄








金蝉、金蝉
ケン兄ちゃんと何の話してたの?

……下界の桜の話だ
此処とは随分違うらしいな

違うの?
どう違うの?

下界の桜は決まった時期にしか咲かないようだ
此処と違って、十日もすれば見れなくなる

それだけ?

後は……あいつは色々言っていたが、俺にはよく判らん
だが、いつかは見てみたいもんだな

じゃあ、その時はオレも一緒に行きたい!
そんで、皆と一緒に飯食って、酒飲むの!

酒はお前にはまだ早い
だが、────そうだな
もう少し、お前の背が伸びたらな……


















悟空の誕生日は、四月初め頃の日だとされていたが、その頃に、果たして本当に自分が生まれたのかは判らない。
生まれた日が、今から五百年も昔の事であり、その時分―――あの岩牢で目覚める前―――の頃の記憶が全く思い出せないのだから、無理もない。

けれども、時間が巡り始めた事が“誕生”と言うのであれば、確かにこの日は悟空の誕生日であった。
正確な日付を本人が覚えている訳ではなかったが、あの日、彼に外の世界へと連れ出された時に感じた柔らかな陽の光が、『春』である事を伝えていた。
五行山を下りる道すがら、鳥が嬉しそうに歌を謳い、心地良い風が生い茂る緑の枝葉を揺らし、さらさらと流れる川面で楽しそうに魚が跳ねる。
若しもあの日が夏ならば、太陽の光は突き刺すように眩しかっただろうし、秋ならば木々の葉は赤く、冬ならば冷たい雪が世界を閉ざしていた筈だ。
だから悟空は、今の自分が、少なくとも『春』に生まれた事は理解していた。

他に悟空が自分の生まれ時を把握するものとして、初めて寺院に来た時に見た、満開の桜がある。
寺院に着いてから暫くの間、悟空は物置小屋に隠れていたが、退屈に空いて(或いは空腹に負けて)小屋を抜け出していた。
その折に悟空は、月宵の中で舞い踊る、薄桃色の花弁を見た。
それを見付けた途端、何かが其処で呼んでいるような気がして、我知らず、ふらふらとそれに歩み寄った。
直後に僧の声が聞こえ、我に帰り、大慌てで物置小屋に戻ったが、その夜、悟空は奇妙な気分に包まれていた。
それが何だったのかと言われると、あれから五年が経った今でも全く判らないのだが、今でも時折、悟空はあの時と似た感覚に襲われる時がある。
それは決まって、春、舞い散る桜をぼんやりと見詰めている時に訪れた。

何が自分を呼んでいるのか、自分の何が魅かれているのか、悟空自身にも判らない。
ない頭を振り絞って考えてみた事もあるのだが、その時の感覚を深く思い出そうとすればする程、胸の奥にぽっかりと穴が開いているような気がして、無性に悲しくなってくる。
けれど同時に、何故か無性に懐かしくて忘れ難いものが、胸の奥を優しく包み込んでくれるような気がする。

矛盾したものを抱えて、悟空は今年も、舞い散る花の花弁を遠く眺めていた。
















ばたばたと慌ただしく動き回る僧侶たちを見る事もなく、悟空は寺院本殿の屋根の上から、境内に並び佇む桜の木々を眺めていた。
満開に咲き誇った桜は、強い風が吹く度、その小さな花弁を空へと舞い散らせて行く。
飛んだ花弁は風に乗って遠くまで飛ぶものもあれば、其処から離れる事を嫌がるように、ふわりと地上に降りて行くものもある。
その舞い散る姿は、厳かながらも何処か忙しない寺院内の様子とは裏腹に、とてもゆっくりと穏やかなものであった。

悟空がこうして屋根の上で桜を眺め始めてから、どれ程の時間が流れただろうか。
昼食を食べてから此処に来たが、太陽が一番高い所に上っている所を見るに、今は午後二時から三時と言った頃合いか。
となると、悟空は少なくとも二時間近くの間、何処に行く事もなく、桜を眺め続けていた事になる。
いつも元気で落ち着きのない悟空を知る人間にとって、これは驚くべき事だろう。

だが、悟空とて、何をするでもなくぼんやりとしたい気分になる時もあるのだ。
特に、頭の中に、ぼんやりとした靄がかかっている時は。



(……って言ったら、悟浄とか絶対笑うんだろうな)



何かと自分を揶揄って来る、派手な赤髪の男を思い出して、悟空は久しぶりに表情を変えた。
立てた膝に頬杖をついて、むっつりとした表情を浮かべる悟空の肩の上で、掌サイズの小さな鳥が首を傾げている。

ふわふわとした羽毛の頭で、すりすりと頬を撫でられて、悟空は少しだけ唇を緩めた。
頬杖とは逆手の指先で、鳥の首下を擽ってやると、チチチ、と小さく歌う声が聞こえる。
伸ばした人差し指を小鳥の足下に近付けてやれば、小鳥は心得たように其方に乗り移って、細い指先の上で上手くバランスを整えた。
その指を高く掲げるように、悟空は腕を持ち上げ、空を背景にした小鳥を見詰める。



「失礼だよな。そりゃあ難しい事考えるのは苦手だけど、オレだって色々思う事あるっての」



先の胸の内の独り言の続きを、声に出して言った。
独り言なのに話しかけられた小鳥は、きょとんとした表情で首を傾げている。
そんな小鳥に、悟空は笑って見せた。

小鳥は暫く小首を右へ左へ傾げた後で、悟空の指から飛び立った。
ぱたぱたと小さな羽音を鳴らしながら、青空の向こうへと消えて行く小鳥を、悟空はまたぼんやりと見送る。

小鳥が見えなくなって間もなく、悟空は空へ伸ばしていた手をゆっくりと下ろし、それと同じ速度で背中を倒した。
ぱたん、と倒れた瓦屋根は、夏の焼き石のように熱くはなく、ほんのりと土の温もりを抱いている。

悟空の見える空は、青一色だった。
ここ暫くは天候も安定していたが、雲一つない青空と言うのは、久しぶりだ。
太陽は春らしくぽかぽかとした陽気で大地を照らし、風も適度な涼を孕んでいる。
木陰で風を受けると少し寒いかも知れないが、寺院の本殿の上、その真ん中を陣取っている悟空には関係のない事だ。

高い南天に上った太陽を見上げて、悟空の目が眩む。
網膜のちかちかとした違和感を、目を擦って誤魔化して、悟空は空を仰いだまま目を閉じた。
瞼越しに透けた光で、目の奥まで暖かくなって来るのが判る。

風が吹いて、桜の枝々が揺れる音がする。
瞼を開ければきっと、青空を背に舞い散る薄桃色の花弁が見えるだろう。
そんな景色を見るのは、決して嫌いではないのだけれど、



(……寝よ……)



もやもやとした、浮遊感にも似た落ち着かない感情を持て余して、悟空はそれらを振り切るように目を閉じた。















出逢って以来、八戒が度々寺院に顔を出すのは、元々彼が犯罪者と言う立場であり、三蔵の力によって釈放された後、彼の監視下で過ごす事を義務付けられている事に因る。
しかし、八戒は案外と、寺院に通う事を嫌ってはいなかった。
寺院は妖怪に対して風当たりが強く、決して居心地の良い場所とは言い難いが、此処には無愛想な最高僧侶と、無邪気で元気な子供がいる。
八戒が専ら気に入っているのは、無邪気で元気な子供の事であった。

それに付き添う悟浄はと言うと、本来、寺院に顔を出さねばならない用事はない。
とある一件以来、三蔵から依頼と言う形で仕事を回されるようになり、それを請け負う、又は解決後の物品返還と報酬の受け取り等の為に向かう事はあるが、要件と言えばそれだけ。
仕事が絡んでいない時は、煙草も満足に吸えない―――三蔵の部屋には灰皿があるが、あれは生臭最高僧の権力に因るものであって、決して赦されているものではあるまい───寺院に等、足しげく通う必要はないのだ。
それなのに彼が八戒と共に度々寺院にやって来るのは、同居人と同じく、無邪気で元気な子供が其処にいるからに他ならない。

序に、最近は二人の訪問者に加え、一匹の小竜も寺院にやって来るようになった。
小竜は飼い主としている八戒の肩を指定席としており、一人家に残しても可哀想だろうと言う事で、八戒と悟浄に伴って寺院に通うのである。
ちなみに此方も無邪気で元気な子供を気に入っており、よく彼と一緒に遊んでいる光景が見られる。

しかし、行ってみると目当ての本人は不在―――と言う事は、珍しいものではない。
保護者と違って主だった義務や仕事がない子供は、基本的に一日を自由に行動しており、執務に忙殺されている三蔵よりも捕まえ難い事がある。


三蔵の執務室で、目当ての人物が今は何処にいるか知れないと言う話を保護者から聞き、八戒は腕に抱えていた蒸籠を持ち直して、残念そうに眉尻を下げた。



「悟空の為にと思って作って来た肉まんなんですが、本人がいないんじゃ仕方がありませんね。三蔵、此処に置かせて貰いますよ」
「ああ」



八戒の言葉に返事をする三蔵は、手許の書類に視線を落としたままだ。
八戒の言う“此処”が何処なのか、彼は全く確認していなかったが、八戒なら先ず邪魔になる所には置くまいと信用しているので、気に留める事はない。

さらさらと筆を動かす三蔵の前で、紫煙を燻らせているのは悟浄である。
悟浄は肺一杯に取り込んだ煙を、ゆっくりと長い息と共に吐き出して、開いたままの窓を見る。



「此処にいねえって事は、裏山か?寺ン中は静かだから、こっちにはいそうにねぇし」
「そうですね。今日は天気も良いですし、春になって山も大分暖かくなったでしょうから」



今年は三月の中頃まで、中々気温が上がらなかったが、下旬からは大分春めいて来た。
月を跨いだ今ではすっかり春らしくなり、固かった花の蕾は綻んで、山には土筆も生えている。
時折、寒の戻りを臭わせる日もあるが、陽光さえ覗けばそれなりに暖かく、快適な日が続いている。

冬の間、悟空は随分と退屈そうにしていた。
子供体温で熱量が高い悟空は、多少の寒さ等まるで意に介さずに外で遊びたがるが、山に住む悟空の遊び相手───動物達はそうは行かない。
多くは秋のうちにたらふく脂肪を蓄え、餌の少ない冬の最中は、眠ってやり過ごしている。
眠る必要のない動物達も、餌を探す以外は巣から出て来ない為、冬の山は常に比べて酷く静かであった。
その上、今年の冬は例年以上に降雪が多く、寺院や街が真っ白になったとなれば、山の中など尚更だ。
流石にそんな状態で、それも例年以上に寒くなった空の下で遊び回るのは、流石に悟空も堪えるようで、彼は今年の冬は専ら寺院の中で過ごしていた。
致し方のない事で、悟空自身も「風邪引いたら三蔵に迷惑になるから」と納得している様子ではあったが、外遊びが出来ない故に消費されないエネルギーが積もりに積もり、二進も三進も行かない状態であった事は間違いない。

そんな冬を過ごした後の反動か、春になって暖かくなり、山の動物達が目を覚まし始めた頃には、悟空は毎日のように山で遊ぶようになっていた。
朝食を終えると山に登り、昼の時間が近付く頃合いになると山を下りて食事を採り、その後はまた山へ。
丸一日をそうして過ごすので、夕食を終えた後には直ぐに眠くなり、あっと言う間に夢の中へ旅立つ。
そして翌日、また朝の内から山に登っていた。


こうした悟空の様子を、先週三蔵から聞いていた悟浄と八戒は、今日の彼の不在にも無理はないと考えていた。
三蔵の溜息交じりの吐息にも、落ち着きのない養い子への呆れを由来とするものだと、思っていた────が。



「馬鹿猿なら、寺の何処かだ。今日は外に出てねえだろ」
「マジか?それにしちゃ、随分寺ン中が静かじゃねえか」



寺院内は人の気配が多い為、決して静粛とは言い難いが、騒がしさはないし、僧侶の怒鳴る声も聞こえない。
悟空が何かトラブルを持ち込んでしまった時の騒がしさを思えば、静かな方だと言って良い。


三蔵は筆を置いて、煙草を咥えて火をつける。
悟浄のものと合わせて二人分の煙がゆらゆらと立ち昇り、窓から滑り込む風に浚われて消えた。
その跡を辿るようにして、迷い込んだ桜の花弁が一枚、三蔵の執務机に舞い降りる。



「……桜が咲いてるだろ」
「ええ。満開ですよ」
「だからだ」



三蔵の一言目に八戒は頷いて、二言目に首を傾げる。
察しの良い八戒とは言え、流石にこれだけの情報では判るものも判らず、どう言う意味ですか、と問うてみるものの、三蔵はそれきり口を閉ざしてしまった。

説明するのが面倒なのか、三蔵にもよく判らないまま、経験している事実だけを述べたのか、それすら八戒と悟浄には判らない。


蒸籠の中の肉まんは、八戒の手製で、悟空が喜ぶ特大サイズになっている。
家を出る前に蒸して来たばかりなので、まだ熱も逃げていない。
山に遊びに行っているのなら仕方がないと諦める所だったが、寺院内にいると言うなら、やはり温かい内に食べて貰いたい、と八戒は思った。

少し探して見ようか、と八戒が考えていると、肩に乗っていたジープがぴくりと鼻先を揺らした。
ジープは長い首を持ち上げ、開いたままの窓の外を見詰めると、白い翼を広げて羽ばたかせる。
肩の重みが離れた事に気付いて、八戒が顔を上げると、ジープはぱたぱたと窓の外へと向かっていた。



「ジープ、どうしたんですか?」



呼んでみると、ジープは振り返らないままでキュウと鳴いた。
翼は特に焦る風もなく、まるで散歩に行くかのようにのんびりと羽ばたき、遠退いて行く。

ジープは頭の良い竜である。
寺院の僧侶たちも、彼が八戒の連れているペットだと認識しているので、誰かの目に触れた所で騒ぎにはなるまい。

上へ上へと昇って行くジープの尾を目で追った後、八戒は踵を返した。



「悟空の匂いに気付いたのかも知れませんね」
「んじゃ、行ってみるか。此処で生臭坊主の面見てたって、景気悪くなるだけだし」
「だったらさっさと出て行け、クソ河童。邪魔だ」



短くなった煙草を灰皿に押し付ける悟浄に、三蔵は低い声で言った。
悟浄は「へいへい」とおざなりな返事をして、執務室を後にする八戒を追う。


再び静かになった部屋の中で、三蔵は執務机の上に迷い込んだ薄桃色の花弁を見遣る。
外界では、風が吹く度に咲き誇る桜の木々が枝々を揺らし、満開の花弁が散って行く。

春、温暖で桜のある場所ならば、何処ででも見られる光景だ。
薄桃色の花弁はとても小さく、遠目に見ると一つ一つは点にしか見えないのだが、それが無数にも思える程に集まると、まるで空を覆うカーテンのように見える。
しかし、あと十日もすれば、その花弁は今度は地を覆うだろう。

その桜の絨毯の上で、何をするでもなく、一人きりで寂しそうに桜の空を見上げていた子供の姿を、三蔵は見た事があった。