桜の約束、数え唄






寺院の中は、外回廊や中廊下があちこちに延びて繋がっている為、中々複雑な造りになっている。
原則立ち入り禁止の中庭や庭園などを跨いで行く事が出来れば、大きな建物同士を行き来するのは然程難しい事ではないが、人間にそれは難しい話であった。
だが、翼のあるジープならば簡単だ。
外に出られる場所から適当に出て来て、上空を飛んで行けば、立ち入り禁止区域も何も関係ない。


三蔵の執務室の窓から外に出たジープは、真っ直ぐに空へ向かって飛んで行った。
地上から高さ数十メートルまで来た所で上昇するのを止め、ひくひくと小さな鼻を鳴らし、きょろきょろと辺りを見回す。

最近の寺院は、どこもかしこも、花の匂いで一杯だ。
それに混じって香の匂いも漂っており、此方はいつ来てもジープの鼻に掠るもの。
刺激はそれ程強くはないので、鼻を痛める事はないが、目当ての匂いが中々探れなくなってしまう。
先程、強い風で運ばれてきた匂いの出所も、また判らなくなってしまった。


が、見通しの良い高さから辺りを見渡せば、匂いに頼らずとも、探していたものは直ぐに見付ける事が出来た。


ジープが向かったのは、この寺院の中でも一際大きな本殿の上だ。
ジープは吹く風に気紛れに身を任せるように羽を休めながら、その上空へと辿り着くと、トンビのようにくるくるとその場を旋回した。

ジープが旋回する真下の屋根上には、大の字になって寝転んでいる子供の姿がある。
飼い主たちが目当てにしていた、無邪気で元気な子供───悟空だ。
ジープは風の匂いに乗って来た彼の匂いに気付き、八戒たちが寺院に来ている事を伝える為に、飼い主たちより一足先に悟空を呼びに来たのである。


しかし悟空は、頭上を旋回するジープに気付いていない。
耳の良い悟空の事、いつもなら羽根音に気付いて手を振って来る筈なのだが、今日の悟空は一向に動く様子がない。
可笑しく思ってジープが首を傾げながら下りて行くと、理由が判った。
彼は、いつも爛々と輝く金色の瞳を瞼の裏に隠し、すぅすぅと小さな寝息を立てていたのである。


ジープはゆっくりと悟空の枕元に降りて、頬に顔を寄せた。
くんくんと匂いを嗅いでみると、太陽を思わせる温かな匂いと一緒に、ほんのりと花の香りがする。

悟空の身体の上には、小さな薄桃色の花弁が幾つも落ちていた。
体が埋もれる程に沢山ある訳ではないが、点々と降り積もっている花弁から香りが移る程度には数がある。
悟空の頬や額の金錮の上にも数枚乗っており、ジープは小さな口でそれを咥えて、悟空の顔から退けてやった。

そうしている間に、ジープの小さな息遣いや、短いヒゲが当たってくすぐったかったのか、



「…んん〜……」



むずがるように小さく唸って、悟空はゆっくりと目を開けた。
瞼の下から覗いた金色の瞳に、覗き込む小竜の姿が映り込む。



「……ジープ?」



眠たげな瞳で名を呼んだ子供に、ジープはキュウ、と嬉しそうに鳴いた。
白い尾がぱたぱたと揺れる。


ふあ、と欠伸をしながら悟空が起き上がった。
首下や胸に落ちていた花弁がはらはらと落ちて、悟空の足に溜まる。
そんな悟空の後ろには、桜の花弁で彼の寝転んでいた跡が残されていた。

悟空はごしごしと目を擦りながら、傍らに座っているジープを見る。



「ジープがいるって事は……八戒たちも来てんのか」



悟空の言葉に、ジープがこくりと頷いた。
早く行こう、と言うように、ジープの羽根がぱたぱたと羽ばたいて、小さな体が浮く。

しかし、悟空はその場に座ったまま、動かない。



「んー……」



何かを考え込むような声を漏らしながら、じっと遠くを見詰める悟空の横顔に、ジープはきょとんと首を傾げた。
早く行かないと、八戒が作った折角の肉まんが冷めてしまう。
行こうよ、とジープは悟空の服の袖をくいくいと引っ張ったが、悟空の腰は中々上がろうとしなかった。


悟空の視線の先には、寺院の境内に植えられた桜の木々がある。
数はそれ程多くはないのだが、境内の参道に沿って整列して植えられているので、参拝者からの評判は高いらしい。
他にも、中庭や散水庭園にも植えられているので、この時期の寺院は、あちらこちらから花の香りと花弁が届いて来るのである。

だから、今の時期、本殿の屋根の上からは、右へ左へと何処を見ても、舞い散る桜の花弁を見付ける事が出来る。
逆に言えば、何処にいても、それらの踊る姿から目を逸らす事は出来ないと言う事だ。


じっと桜の花弁を見詰めている悟空の横顔を、ジープはじっと見詰めていた。
其処にある子供の横顔が、何処か寂しそうで、何処か嬉しそうに綻んでいるように見えるのは、気の所為だろうか。


そんな気持ちで、ジープがじっと彼を見詰めていると、遠くから聞き慣れた声が聞こえてきた。



「おーい、猿!そんな所で何やってんだ」



低く通る声に、靄がかかっているように見えた金瞳に、光が戻る。
悟空とジープが揃って声の聞こえた方を見ると、境内に目立つ赤色を見付ける。
悟浄と、その隣には八戒の姿もある。


悟空はようやく立ち上がると、服にくっついてしまった花弁をぱんぱんと払い落とす。
斜面になっている瓦屋根を危なげなく駆け下って行くと、その縁で悟空は瓦を蹴ってジャンプした。
ジープも直ぐにそれを追う。

決して低くはないであろう本殿の高屋根から飛び降りた悟空は、当然のように軽く着地して、友人達の下へ向かう。



「悟浄、八戒、いらっしゃい!」
「はい、お邪魔してます」



簡単な挨拶を交わして、八戒は悟空の頭をぽんぽんと撫でる。
その手を甘受し、くすぐったそうに笑う悟空の肩に、ジープが乗った。



「八戒と悟浄がいるって事は……三蔵から何か仕事?」
「いえ。遊びに来ただけですよ」
「感謝しろよ、猿。寺の料理じゃ足りねえって卑しいお前の為に、食い物届けに来てやったんだ」
「そりゃ八戒がだろ。悟浄は本当にただ遊びに来ただけじゃん」



八戒と悟浄が寺院に持って来る手製の料理は、須らく八戒が用意したものだ。
持って来る時でさえ、悟浄が持つと乱暴な扱いをする事がある(本人にそんなつもりはなく、ただ持って歩いているだけなのだが、八戒ほど気を付けている訳ではない為か、中身が引っ繰り返ったりと言う出来事が折々ある)ので、料理を持って来るのは八戒一人で足りる事だ。

とは言え、悟浄の来訪を悟空が歓迎していない訳ではない。
寺院内で気心の知れる者が極端に少ない悟空は、悟浄と八戒に出逢い、友人が出来た事を嬉しく思っていた。
山の動物達と遊ぶのも嫌いではないが、打てば響き返って来る“喧嘩友達”と言う存在は、やはり言葉の判る者同士でなければ作る事は難しい。


だから、悟浄は来ても来なくても良い、と言う悟空の台詞は単なる冗談で、悟浄もそれを判っている。
判っているが、言われたら言い返してやるのが、この二人の間柄である。



「何よ。わざわざこの悟浄様が逢いに来てやってんのに、ンな事言う訳?」
「悟浄様なんて柄かよ。どうせ三蔵の冷やかしに来ただけだろ?」
「まーな。序に何処かのチビ猿が、保護者さんに放ったらかしにされて、辛気臭い面してないか見ておいてやろうと思ってよ」
「辛気臭い面なんかするかよ」
「この間まで雪にビビって丸まってたのは何処のチビ猿ちゃんだっけ?」
「別にビビってねーし!」
「ほらほら、二人とも、その辺で」



撃てば響く悟空に、悟浄がにやにやと笑いながら揶揄い続ければ、いつまで経ってもこの遣り取りは終わらない。
ヒートアップした悟空が手を出す前にと、八戒が二人の間に割り込んだ。



「さあ、悟空。早く三蔵の所に戻りましょう。今日は肉まんを持って来たんですよ」
「やった!」



八戒の一言に、悟空は先程までの悟浄との遣り取りを綺麗さっぱり忘れて、ガッツポーズで喜んだ。

早く早くと手を引く悟空に連れられて、八戒が後を追う。
悟浄はそのはしゃぐ背中を眺めながら、つい先刻、屋根の上にいた子供の表情を思い出していた。









三蔵の執務室に戻って来ると、保護者への帰宅の挨拶もそこそこに、悟空は真っ先に、部屋の隅の予備テーブルに置かれていた蒸籠に食い付いた。

まだほんのりと熱を残した竹蒸籠は、三段重ねで大きさは二十センチ程。
それを持ち上げた時の重みに、悟空の心は益々踊った。
が、これを持って来てくれた人を無視して、勝手に開ける訳には行くまいと、逸る気持ちを抑えつつ、悟空は蒸籠持って八戒を振り返り、



「八戒、開けて良い?」
「ええ、どうぞ。三蔵、お茶淹れますね」
「ああ」



にこやかな笑顔で茶の用意をしている八戒の返事を聞いて、悟空はやった、とはしゃぐ。
そんな悟空の肩の上で、ジープも一緒になって尻尾を揺らして喜んでいた。


蒸籠の蓋を開けると、五センチ程の大きさの肉まんが敷き詰められて並んでいる。
二段目には十センチ程の大きさの肉まんが二つ並び、三段目には蒸籠の中をすっかり占領するように、特大サイズの肉まんが一つ入っていた。
夢のサイズと言わんばかりの特大肉まんに、悟空の目がきらきらと輝く。



「でっけー!すげー!八戒、これ作ったの?」
「そうでなけりゃ有り得ないだろ、そんなサイズ」



興奮し切りの悟空の言葉に、悟浄が煙草を灰皿に押し付けながら言った。
悟空はそれをまるで聞いておらず、「頂きまーす!」と元気の良い声で言って、特大サイズの肉まんに齧り付く。

八戒の淹れた茶を受け取って、三蔵が眉根を寄せて悟空を睨む。



「立ったまま食うな、バカ猿。座れ」
「んー」



むぐむぐと顎を動かしながら、悟空は予備テーブルに添えられていた椅子を運び出して座る。
悟浄と八戒もそれぞれ椅子を確保して、腰を落ち着けた。


時刻は三時を過ぎた所で、小腹の空く頃合いであった。
悟空は特大サイズの肉まんを、あっと言う間に半分まで食べ終えて、八戒の淹れた茶を一杯貰う。
その後の食べる速度は落ち付いて、特大サイズの肉まんは誰に取られる心配もなくなった為か、のんびりと食べ続けている。

悟浄と三蔵は、それぞれ小さな肉まんに手を付けている。
小さいとは言え、中身は肉をぎっしり詰めた、悟空用の八戒特製肉まんであるから、中々に食べ応えのあるものだ。
八戒も小さな肉まんを一つ、半分をジープにあげて、もう半分をゆっくりと食べていた。


二十センチ弱の特大肉まんとなると、流石の悟空も中々腹が膨れたらしい。
悟空の為にと、八戒がぎゅうぎゅうに肉を詰め込んでいた事もあって、おやつ時を狙って空いていた悟空の腹も、大分埋まっていた。
十センチの肉まんは流石に食べ切れないかも知れない、と悟空も思ったようで、それからは小さな肉まんを口に放り込んでいる。

一段目の蒸籠に一杯に詰まっていた小さな肉まんは、四人それぞれの手で順調に減って行った。
が、主力の悟空が特大サイズのお陰で腹が膨れた事もあり、全てを食べ切る事はなく、残りは悟空の夜食に宛てられる事になった。


食後の一服の茶を傾けていると、開けたままの窓の外から、さわさわと木々の揺れる音がした。
春風に煽られた桜が揺れて、枝から離れた薄桃色の花弁が飛ぶ。
その風に運ばれるように、花弁が一枚、部屋の中へと滑り込み、悟空の茶へと着水した。



「あ、花びら」
「花まで食う気か、猿」
「食わねえよ!ってか、食べれないだろ、花びらなんか」



意図せず落ちて来た花弁を、まるで悟空が食事用に調達したように言う悟浄に、悟空が当然噛み付く。
威嚇する犬のように八重歯を見せて睨む悟空を、八戒がまあまあ、と宥め、



「そうだ、悟空。さっきは屋根の上で何をしていたんですか?」



話題を逸らそうと訊ねた八戒に、悟空の動きがぴたりと止まる。
先程までの感情の波は何処へやら、一転したように鎮まった子供に、悟浄と八戒はそれぞれ首を傾げた。
悟空の肩に乗っていたジープも、彼の空気の変化に気付いて、キュウ?と小さく鳴く。


悟空は椅子に座り直して、桜の花弁が泳ぐ茶を見遣る。
一ミリにも満たない厚さの小さな花弁は、もう風に乗る事はないだろう。
ただゆっくりと、小さな水面の上で、静かに揺れている。



「……悟空?」



名を呼ばれて、悟空は顔を上げた。
口が開こうとして、また閉じる。
悟空は言葉を探すように目線を彷徨わせながら、がりがりと頭を掻く。

煙草を吐き出す三蔵の息が、殊更にはっきりと響く。
それと同時に、外界の桜の木々が、風を受けて小さくざわめいた。



「んー……別に、何もしてないよ。見てただけだったから」
「見てた?」
「うん。桜、見てただけだよ」



悟空は窓の外へと視線を移して、言った。


さわさわと、木々の囁く声がする。

悟浄と八戒は、悟空の視線を追うように、窓の外へと目を向けた。
この部屋からは、中庭に植えてある桜の木が直ぐ傍に見えている。
音を鳴らしているのも、迷い込んで来た花弁も、きっと中庭の木から齎されているものだろう。
日当たりの良い場所に植えられた桜は、寺院に植えられた桜の中でも一際大きく立派で、満開になった姿は中々見応えのあるものであった。


風が止んでも、散り落ちる花の雨は止まない。
まだ散り時ではないが、ひらり、ひらりと、数えられる数の花弁が山水の庭を泳いで行くのが見える。



「オレ、桜を見るの、好きなんだ」



悟空の言葉に、肩の上でジープが小さく首を傾げた。

桜を見るのが好き───と悟空は言ったけれど、ジープが屋根の上で見た彼の横顔は、何処か寂しそうだった。
涙を堪えているような、悲壮な色は見えなかったが、単純に花見を楽しんでいる風には見えなかったのだ。


傍らでじっと見詰める赤い瞳に、悟空は気付かない。
金色の瞳は、眩しいものを見詰めるように、窓の外で揺れる桜を眺めていた。



「花見が好き、ね。猿にしちゃ随分風流な事覚えたもんだな」
「猿じゃねえっての。花は結構好きだよ。きれーだし、いい匂いするのもあるし。でも、そう言う事じゃなくてさ」



茶々を入れる悟浄を、悟空は眉根を寄せて睨んだが、直ぐにまた窓の外へ視線を戻す。



「桜は、オレが三蔵に連れ出して貰ってから、最初に覚えた花だったからさ。桜が咲いたら、三蔵に逢えた日の事、思い出すんだ」



桜が咲き誇るこの季節に、悟空は三蔵に拾われた。
眩しい金色と、何処までも続く青空と、風に運ばれる薄桃色の花弁───それらが全て揃うのは、春の僅かな間だけ。
だから、この季節が来る度に、悟空は三蔵と出逢った日の事を思い出し、あの日から何度目の春なのだと数えるのが好きだった。
その数の分だけ、自分の時間は動いていて、三蔵と一緒に過ごした時間が増えて行くのが嬉しかった。


悟空は嘘を吐かない―――吐けない性格だ。
だから、今の悟空の言葉が嘘であるとは、この場にいる誰も思っていない。

しかし、悟浄には腑に落ちない事もあった。



「……花見が好きってのは、猿らしくないにしても───悪い事じゃねえけどな。それにしちゃお前、変な顔してるな」
「変ってなんだよ。そんな顔してない」



頬を膨らませて反論した悟空に、自覚がないのか、と悟浄が嘆息する。


悟浄と八戒の視線は、この部屋の主へと向けられていた。
悟空の保護者である三蔵ならば、本人以上に悟空の事を良く知っている。
何か知らないのか、と無言で問う二対の眼に、三蔵は眉間に深い皺を寄せていた。


普段は無邪気で子供らしい悟空だが、その裏側には、誰にも判らない虚無を抱えている。
五百年と言う計りし得ない刻を、孤独と寄り添って過ごした記憶は、解放されてから五年が経った今でも、悟空の心に深く根付いて消えない。

悟浄と八戒の脳裏には、ほんの数ヶ月前、「雪が怖い」と言って蹲っていた子供の姿が浮かんでいた。
子供ならば喜びはしゃいでいるとばかり思っていた真っ白な雪は、あの時の悟空にとって、音も世界も何もかも切り取ってしまう、孤独を更に強く感じさせるものでしかなかったのだ。
――――あの時と同じように、悟空にしか判らない、悟空にさえ漠然として見通せない“何か”が、本人にも知らず知らずの内に、その心を蝕んでいるとも限らない。

だが、悟空本人がその事に気付かなくても、三蔵ならば気付くのではないのか。
雪を恐れる養い子の様子にも、三蔵は気付いていた。
ならば今の悟空の表情の事も、彼が気付いていないとは思えない。


風に揺れる木々のざわめきだけが聞こえる程に、部屋の中は静まり返っていた。
穏やかに思えていた時間が、途端に居心地が悪くなったような気がして、ジープが小さく身を竦める。

キュウ、とか細い小竜の声を合図にしたように、三蔵は深い溜息を吐き、



「……行くぞ、猿」
「え?」



短くなった煙草を灰皿に押し付け、席を立った三蔵に呼ばれ、悟空はきょとんと首を傾げた。
何処行くの、と問う金色を、紫電が見返す。



「花見だ。今年はまだやってねえだろ」



そう言って部屋を出て行く三蔵を見て、ジープを肩に乗せたまま、悟空が慌てて後を追う。
置き去りにされた悟浄と八戒は、丸くした目でそれぞれ顔を見合わせ、一拍遅れて彼等の後を追った。