記憶が刻む夢、ひとひら





ふわり、風が吹いて。
ふわり、桜の花が舞う。



─────ここ、どこ。

そう考えてから、どうしてそんな事を考えたんだろう、と悟空は首を傾げた。
此処はいつも遊んでいる場所だから、“何処”であるかと考える必要などなかった筈だ。


辺りを見回せば、沢山の桜の花が咲き誇り、吹き抜ける風に枝を揺らし、無数の花弁が青空を踊っている。
それはごくごく見慣れた光景であって、改めて眺めるようなものでもなかった。
見る度に、綺麗な景色だとは思うし、よく見たら新しい芽が吹いていたりと、緩やかな変化が存在しているけれど。



不可思議な自分の思考と、何処かふわふわとした感覚に、悟空は反対側に首を傾げる。

そんな悟空の背に、かけられる声。




「おーい、何やってんだ、悟空!」




よく通る声に振り返れば、木々の向こう側で此方を見ている黒服の男がいる。
その隣には白衣を着た男がいて、二人揃って口元から紫煙を揺らしていた。


─────誰、だっけ。

そう考えて、また首を反対側に倒す。
あっちへこっちへ首を傾ける子供に、二人の男も首を傾げつつ、悟空の下へ歩み寄って来た。




「どうしたんですか?」
「腹でも減ったか」




黒服の男が膝を曲げて、悟空と目線の高さを合わせた。

衣と同じ黒髪に、心なしか緋色を霞ませた黒い瞳。
口に咥えていた煙草を指に挟んで顔から離し、逆の手で悟空の頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。


癖っ毛の大地色の髪がぴんぴんと跳ねている。
黒衣の男の手が離れると、今度は白衣の男の手が伸びて、大地色の髪を手櫛で梳いた。

その人は眼鏡をかけていて、首元には緩んだネクタイを止めている。
瞳は色の濃い翡翠で、今は柔らかな光を携えて悟空を見下ろしていた。
……そして足元には、便所ゲタ。



悟空は、じっと二人を見上げていた。
大きな金色が零れんばかりに見詰めて来るのを、二人は不思議そうにしているものの、特に言及して来る事もなく、「うん?」と悟空の反応を促す声を漏らすだけ。


三人は、しばらくそのまま停止していた。
見上げる子供と、見下ろす男二人、じっと。

そのまま幾拍かの時間が流れた後で、




(─────あ、)




ふ、と頭の中に浮かんだ記号───いや、単語───いや───、

────名前。




「天ちゃん」
「はい」
「ケン兄ちゃん」
「おう。なんだ?」




呼べば二人は答えてくれた。
当然だ、それが彼らの名前なのだから。


もう一度、二人の手が悟空の頭を撫でる。

大きくて暖かくて、しっかりとした掌だ。
片方はぐいぐいと、もう片方は優しく、悟空の頭を撫でてくれる。



それから、




「お、やっと来たぜ」
「遅いですよ、お父さん」




舞い散る桜の向こうから、ゆっくりと歩いて来る男が、一人。
淡色の緋の隙間に、風に揺れる金色を見た瞬間、悟空の足は動いていた。

気持ちが動くよりも真っ先に体が動くのは、悟空にとってはごく普通の事で、自然の事だった。
いつだって体は気持ちに正直だったから、思ったままに行動すれば、それが悟空の心そのものになる。
だから、走る足に止める事も、そう動く心に戸惑う事もない。


だって、その先にいる人を、悟空は知っている。





「        」































目が覚めた。
殆ど唐突に。

ゆっくりとした浮上でも、不快感に促された訳でもなく、唐突に目が覚めた。


起きた、と認識するよりも先に、無機質な白が見えた。
それを見て、なんだあれ、と思った後で、ああ天井だと気付いて、なんでこんな事を考えたのだろうと思う。



蹴飛ばしていた掛け布団が足元に引っ掛かっていて、それを巻き込みながら、悟空は起き上がった。
目ヤニの残る眼を手の甲で擦った後で、大きな欠伸を一つ。

腹減ったな、と思いながら部屋の掛け時計を見て、悟空は目を丸くした。


────短い針が示しているのは、10。
窓の外には、燦々と陽光が降り注いでいる。




「朝飯っ!」




叫んで布団を飛び出して、悟空はドア一枚向こうにある執務室に駆け込んだ。
其処には三蔵がいて、彼は既に法衣に双肩の経文と言う正装スタイルで、執務机に向かっていた。




「三蔵、オレの朝飯」
「残ってる訳ねえだろ、バカ猿」




挨拶よりも何よりも早く問えば、三蔵は此方に視線を向ける事もなく答えた。
その内容に、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受け、悟空はがっくりと肩を落とす。



寺院の朝は早い。
修行僧の多くは陽も上り切らない内から、本殿や境内の掃除、食事の下拵えなどを始めなければならない。
それに比べれば、最高僧の三蔵は重役出勤宜しくのんびりとしたものだが、それでも早い時間である事に変わりはない。

だから当然、比例して、朝食の時間も早くなる。
三蔵の寝起きが最悪である事は、既に寺院では知られている為、あまり早朝から煩い音を立てて三蔵に朝食を促す事はないのだが、彼の下にいる養い子は話が違う。
腹を空かせたままで放って置くと、御仏の為の供物に躊躇なく手を出すので、これは僧侶達にとって仏罰ものである。
その為修行僧たちは、三蔵の言い付けとして、早朝の食事は悟空の分だけを時間通りに出すようにしていた。
そして三蔵が起きる頃合いになると、三蔵の分と、悟空にも二度目の朝食を差し出すのが定着していた。


仮に悟空が一度目の食事を逃しても、三蔵が起きるまでに目を覚ませば、もう一度食事にありつくチャンスがある事になる。
最も、悟空は基本的にどれだけ朝早くとも寝覚めはすっきりとしているし、食べる事に関して並々ならぬ執着を持っているから、朝食を食べ損ねて眠り続ける、と言うのは先ず起きない珍事であった。

────それが今日、初めて起きた。



悟空はよろよろと三蔵の下に近付いて、執務机にべたっと俯せになり、恨めし気に三蔵を見た。




「なんで起こしてくれなかったんだよ、さんぞぉ〜……」
「自分の寝起きの時間ぐらい、自分で管理できるだろうが。甘えんな」




きっぱりと切り捨てられて、悟空はごもっとも、と溜息を吐く。

三蔵は悟空の保護者であるが、世話焼き人ではないし、そうした手間を彼は嫌う。
故に悟空は、最低限でも自分の事は自分でやる、と言う癖がついていた。
就寝時間や起床時間も同じ事で、「この時間に起こして」などと頼んだ所で、「てめぇで起きろ」とけんもほろろに言われるのがオチだ。


執務机に突っ伏した悟空の腹から、ぐきゅるるるるる、と盛大な音が鳴る。




「腹減ったぁ〜……」
「供物の類に手を出すなよ。後が煩い」
「うー……」




そうは言われても。
悟空の頭には、数日前から本殿の仏像の下に捧げられている果物が思い浮かんでいた。

今頃、あそこに飾られた桃は、良い具合に熟しているに違いない。
仄かな甘い香りを想像するだけで、悟空は涎が出てしまう。


食べ物の事を考えていたら、余計に腹が減って来た。
腹が減ると、また食べ物の事を考えてしまう。
延々と終わらないサイクルに、悟空はこのまま飢えで死んでしまいそうな気分だった。



─────コンコン、と執務室の廊下側のドアをノックする音がしたのは、そんな時。


部屋の主である三蔵からの返答を待たず、ドアが開けられる。
入って来たのは、目も眩まんばかりの鮮やかな紅色と、柔らかな笑みを湛える翡翠であった。
翡翠の肩には、真っ白な小竜がちょこんと乗っている。

悟浄、八戒、ジープであった。




「よう、バカ猿に生臭坊主」
「ご依頼の品、回収して来ましたよ」
「ああ」




軽口交じりに挨拶をする悟浄の傍らから、八戒が抱えていた紙袋から布に包まれたものを取り出す。
執務室に置かれたそれは、ゴトンと言う固い音を立て、それなりに重量があるようだ。
三蔵は布の端を捲って中身を確認しただけで、布を全て取り去ろうとはしなかった。

楕円形に包まれたそれを見ながら、これの中身がでっかい饅頭だったらな、と悟空は想像する。
それと同時に、二度目の空腹音が鳴った。


盛大に鳴り響いた腹の虫に、悟浄が呆れたように悟空を見下ろし、




「なんだぁ?まだ十時だぞ。今から腹減らしてんのか。どんだけ燃費悪いんだよ」
「……今日は違やい」
「寝坊で飯抜きだ」




筆を動かしながら言った三蔵に、悟浄と八戒は目を丸くして、顔を見合わせる。

二人が驚くのも無理はない。
万年欠食児童の悟空は、睡眠欲より食欲が第一だ。
そんな悟空が寝過ごして朝食を食べ損ねる等、滅多な事ではない。


八戒が、執務机に突っ伏している悟空の顔を覗き込む。
柔らかな翡翠の光に、心配している色が灯って、優しいなあ、と悟空は胸中で独り言ちた。




「どうしたんです?調子でも悪いんですか?」
「ううん」
「マジで単なる寝過ごしか?」
「……うん」




有り得ねえ、と言った悟浄に、そう思う、と悟空も頷いた。

悟空の額に八戒の手が当てられて、「熱もないですね」と言ったのが聞こえた。
その通り、悟空の体調には何処にも悪い所などないから、だからこそ寝過ごす理由などなかったのだ。




「なあ、八戒。今日はなんかお土産ないの?」
「そうですね……残念ながら」




布の塊を入れていた紙袋をゴミ箱に捨てた八戒は、手ぶらになった両手を見せて、眉尻を下げる。
悟空は最後の砦が崩れたような気持ちで、また執務机に俯せた。



これが春や秋であれば、裏山にでも行って、遊びがてら腹拵えをする事も出来る。
人の手が殆ど入らない山の中には、木の実や果物が生っていて、悟空はそれらの場所を一通り覚えていた。

しかし、季節は冬である。
野生動物が有りつける食べ物など僅かなもので、殆どの動物や木の皮を削ったり、根を掘り起こして其処に棲む虫を食べたりして日々を凌いでいる。
猿だ猿だと揶揄される悟空だが、流石に木の皮や虫を食べれる程に野生化している訳ではないから、それには抵抗があった。
探せば山菜くらいは見つかるかも知れないが、見付けて直ぐに食べられる訳ではないし、悟空の腹には足りない。




「もう諦めろ。昼まで我慢するんだな」
「うあー……」




三蔵の言葉に項垂れる。

それしかないと頭では判っている悟空だが、理解と納得は別物である。
こと、食べ物の事に限っては、特に。


やっぱり本殿の桃、食べようかな。
三蔵に知られたらハリセンどころでは済まない事を考える。


執務机に突っ伏したまま、机に齧りつきそうな悟空の頭を撫でていたのは、八戒だ。
宥めるようなそれを甘受していると、ジープが悟空の前に降りて来た。
「大丈夫?」と宥めるような表情のジープに、へにゃりと笑うのが精一杯で、悟空はまた机に伏せる。




「で?なんだってお前、寝過ごしたんだ?」
「……うぇ?」
「調子が悪い訳でもねぇんだろ」




うん、と頷いてから、そう言えばなんでだっけ、と悟空は考えた。


目覚めの時、意識の浮上は唐突めいたものであったが、其処に自分が張り上げた悲鳴のようなものはなかった筈だ。
寝癖が悪いのは常の事としても、寝汗などは一つも掻いていなかったし、悪夢を見た後によく有るような、気持ちの悪さや、理由のない気分の落ち込みを感じる事もなかった。

目覚めは───寝起き直後の驚愕があったとは言え───至って爽快なものであったと言って良い。
なればこそ、尚の事、悟空が食事を忘れて寝過ごすような理由はない。




「なんだろ。なんかあったっけ?」
「昨日、夜遅くまで起きていたとか」
「三蔵が寝る時間に一緒に寝たよ。直ぐには寝付けなかったから、布団でゴロゴロしてたけど」




三蔵が寝る時間は非常に早く、日付が変わる頃には就寝する体勢に入る。
悟空もそれに倣うのが常であったから、寺院にいる時の悟空は、非常に規則正しい生活をしていた。
時折、寝る気も起きず、睡魔も来ない時もあるが、部屋の電気は既に消えているし、騒がしくすると三蔵に怒られるので、退屈を遊ばせながらも、布団の上で寝転がって過ごすのが常だ。


いつもと違う事をした覚えなど、これっぽっちもない。
そう言う悟空に、問うた悟浄はがしがしと頭を掻いてから、




「ま、アレだ。たまにはそういう日もあるって事だな」
「そうですね。寝る子は育つと言いますし、ゆっくり眠れたのは良い事ですよ」
「朝飯食えなかったから良くねえよ〜」




ああ、それがありましたね。
八戒は苦笑してそう言うと、宥めるように悟空の頭を撫でた。

────が、相変わらず腹の虫は盛大な鳴き声を立てるのであった。