記憶が刻む夢、ひとひら





空を踊る花弁を追い駆けて、手を伸ばす。


知ってるか、悟空。
下界じゃ、桜の花びらが地面に落ちる前に取れると、願い事が叶うんだってよ。

捲簾のその言葉を聞いて、直ぐに悟空は花びらを掴もうと駆け出した。
けれども中々上手く取る事は出来ず、手の中に納まったと思ったら、花弁はすいと逃げていて、掌は空っぽのまま。
何度も何度もそんな事を繰り返しながら、悟空は根気強く、夢中になって花弁を追う。



そんな子供を、三人の男はのんびりと眺めていた。




「おーおー、頑張るねえ」
「なんだか桜に遊ばれてるようにも見えますけど」
「いいんじゃねえの、楽しそうだし」




くつくつと笑って言う捲簾に、まあ、そうですね、と天蓬も笑みを零す。

花弁に逃げられてばかりの子供は、悔しそうに地団駄踏んだりはするけれど、花弁を追う表情は、捲簾の言う通り、楽しげなものに満ちていた。
追うも追われるも楽しんでいるのなら、無為に邪魔をする必要はあるまい。




「それにしても、悟空のお願い事ってなんでしょうね。あんなに一所懸命になるなんて」




桜の幹に寄り掛かって言った天蓬に、さあなあ、と捲簾は肩を竦める。


悟空が望みそうなものと言ったら、精々食べ物だとか面白そうな玩具だとか、そんな程度だろう。
わざわざまじないのような願い方などしなくても、保護者や遊び相手に強請れば貰えるものだ。

けれど、時折────子供の素直さで、悟空は思わぬものを願う事もある。
それらは私欲とは程遠いもので、叶ったってお前に見返りがある訳じゃないだろう、と大人は思う事もあるが、悟空は心からそれを望んでいるのだ。
例えば保護者に構って欲しいとか、新しい本が読みたいとか、友達が元気になりますようにとか……そんな他愛もない願いを。



捲簾が腕を伸ばして掌を開くと、ふわり、と其処に花弁が舞い落ちる。
まるで誘われたようなそれを、悟空が見つけていた。




「あーっ!ケン兄ちゃん、ずるい!」
「ずるいってお前……」




偶然の産物に文句を言われても、と捲簾は眉尻を下げて苦笑する。

駆け寄ってきた悟空は、ぷっくりと頬を膨らませて拗ねている。
自分が幾ら掴もうとしても出来なかった事を、何をするでもなく傍観していた捲簾が一瞬で叶えたのが悔しいのだろう。


捲簾はしゃがんで悟空の顔を正面から見詰め、花弁の収まっていた手を差し出した。




「ほれ」
「……へ?」
「手、出しな。早くしねぇと、飛んでくぞ」




促された悟空は、素直に右手を差し出した。
其処に花弁の乗った手を重ね、捲簾が手を離せば、小さな手の中に淡色の花弁がぽつりと存在していて。




「お前にやるよ」
「……いいの?」
「ああ。だから、願い事もお前のモンだ」




捲簾の言葉に、悟空はしばらくきょとんとした後、ぱああ、と瞳を輝かせた。

やった、と花弁を握り締めて飛び跳ねる子供。
捲簾はそんな悟空の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫ぜてやった。


悟空は踵を返すと、捲簾と天蓬とは少し離れた場所に立っていた人の下へと駆けて行く。
その後ろ姿は、飼い主を見付けた子犬に似ていて、捲簾と天蓬は顔を見合わせて笑う。

いつだって子供の優先順位は彼が一番で、嬉しい事を報告するのも、彼が一番最初なのだ。
それがどんな些細な事でも、悟空は彼の下に駆けて行って、身振り手振りできらきらと瞳を輝かせながら話して聞かせる。
彼はそれを、煩そうに眺めながら、けれども決してその空気は子供を拒絶する事はしなかった。



息を切らせて保護者の下に辿り着いた悟空は、彼の前で握っていた手を開いて見せた。





「ほら、金蝉!」





お願い叶うんだって、と無邪気に言った子供を見下ろす紫闇は、冷たいようで、いつだって暖かいのだ。




































四日ぶりに寺院を訪れた悟浄、八戒、ジープを迎えたのは、最高僧の不機嫌な顔だった。
その傍らで、いつも無邪気に出迎えてくれた子供の笑顔は、ない。

それ自体は、別段、珍しい話ではない。
仕事中の保護者の邪魔をするまいと、けれども暇を持て余すのは落ち着かないので、悟空はよく裏山に遊びに行く。
その間に悟浄たちが寺院を訪れれば、出迎えるのが眉間の皺だけになるのは当然の事だ。




「残念ですね。パイを焼いて来たんですけど」




八戒の手には、布を被せた籠があり、ほんのりと甘い香りを漂わせている。
ジープが時折誘われるように首を伸ばし、じっと物欲しそうに見つめていた。




「裏山にでも行ってんのか?」
「いや」




煙草に火を点けて問うた悟浄に、三蔵が短く否定した。


三蔵は、執務机に落ち着いてはいるものの、手に筆を握ってはいない。
これは悟浄達が来た時からの話で、机の隅には山になっている書類の束があり、ついでに灰皿にも吸い殻の山がある。
まるで仕事が進んでいない風なのだが、大体その原因となり得る子供の気配は、此処にはない。

悟空は基本的にじっと大人しくしていられるような性格ではない。
だから、保護者の傍にいないのなら、何処かで遊んでいると言うのが自然な行動だったのだが────違うと言うなら、悟空は何処で何をしているのか。


無言で問う二人の視線を汲んだ訳ではないだろうが、紫闇が寝室へと繋がる扉へと向けられた。
倣って悟浄達も其方へと目を向ける。




「バカ猿なら、まだ寝てる」
「え?もうお昼ですよ。体調でも悪いんですか?」
「知らねえよ。馬鹿面して寝てるだけで、蹴っても起きやしねえ。静かでいいから放って置いてるが」




静かで良い、等と言うのなら、吸い殻の山は一体どうして出来上がったのか。
説明を求めたら、きっと此方を睨んで沈黙するのだろうな、と八戒は思う。




「なになに?三蔵様ってば、昼になっても起きれない位、お猿ちゃんにナニしたのよ?」
「…………」




ジャキ、と銀色の小銃が悟浄へと向けられる。
指先がトリガーにかけられて、悟浄は慌ててホールドアップした。




「冗談だろ、マジになんなよ!」
「下らん冗談しか言わない口なら、ない方が世の為だな」
「はいはい三蔵、その辺にして下さい」




この寺院に置いて、銃声が響くのは殊更珍しい現象ではなくなっているが、このままでは話が進まない。
八戒はパンパンと手を叩いて、悟浄にも「黙っててくださいね」と笑顔で釘を差す。
悟浄が苦虫を噛むように口を噤んだのを見て、三蔵も舌打ち一つ漏らし、銃を仕舞った。



一先ず本人の様子を見るべきとして、八戒は三蔵に一言断りを入れて、寝室へと続くドアを開けた。

時刻が昼ともなれば、普段は悟空はとっくに布団を出ているので、起床と共に布団も片付けられているのが常であった。
しかし、ドアを開けて真っ先に、八戒はベッド横の布団の中で包まっている子供を見付ける。
悟空はまるで胎児のように丸く蹲っていて、すうすうと規則正しい寝息を立て、それに合わせて細い肩もゆっくりと動いている。


ドアを開けたまま、八戒は悟空の下へ歩み寄る。
ジープが肩を離れて、眠る悟空の枕元に降り、つんつん、と丸い頬を突く。
しかし、悟空はそれに反応らしい反応も見せず、滾々と眠り続けている。

寝汗を掻いている訳でもないし、頬も特別赤らんでいる訳でもなかったが、念の為と、八戒は悟空の額に手を当てた。
幾らか熱く感じられるのは、冬空の下を歩いて来た所為で、八戒の手が冷え切っているからだろう。




「おい、どうだ?」




寝室に入って来た悟浄が、八戒の後ろから眠る子供を覗き込んで、問う。




「うーん……本当に寝ているだけみたいですね」
「……おい、三蔵。またこいつ、飯食わねえまんまで寝てんのか?」




振り返って、入り口に寄り掛かっていた三蔵に聞けば、三蔵は眉間の皺を更に深くし、




「ああ。それも、今日の朝昼どころじゃなく、昨日から何も食ってねえ」
「はあ?」
「一昨日は夕方頃に起きて来たが、昨日はまるで起きなかった。今の今まで寝続けてやがる」
「それは……」




体調云々と言うよりも、明らかな変事ではないか。


悟浄が悟空の躯を揺さぶる。
心なしか、呼ぶ声に焦りが見えるのは、気の所為ではないだろう。

それを端に見ながら、八戒は三蔵へと向き直る。




「三蔵、どうして放って置いたんですか?」
「どうしても何も、殴ろうが蹴ろうが起きねえなら、どうしようもないだろう」




三蔵へと向けられた翡翠には、僅かに咎めの色があるが、三蔵は意に介さなかった。
紫煙を揺らせてきっぱりと言い切る三蔵に、八戒が微かに片眉を上げる。
飼い主の空気の変化を感じ取ったジープが、眠る悟空に助けを求めるように擦り寄った。




「こうなる以前に、悟空の身に何かあったとか、そういう事も考えなかったんですか?」
「ああ。こいつはこの数日、至って大人しかったからな。坊主どもからの文句もない」




冬になって寒空の日々が続き、裏山の動物たちの殆どは冬眠に入った。
まだ活動している種はいるが、大抵の動物は空腹からか気が立っており、遊び相手には出来そうにないと、此処暫くの間、悟空の足は裏山から遠退いていた。

それでも一人で裏山に遊びに行く事はあるのだが、悟空が眠り続ける前の日から数えて一週間の間、悟空はずっと寺院の敷地内で過ごしていた。
本殿の屋根の上で渡り鳥に手を振っていたり、雀と戯れていたり、たまの日向で猫と一緒に昼寝をしていたりと、常の快活さを思えば、大人しいレベルであったと、三蔵は記憶している。
寺院の坊主達と揉め事を起こす事もなく、三蔵にとっては、非常に過ごしやすい快適な日が続いていた。


悟空は眠り続ける以前の数日間を、三蔵の目の届く範囲で過ごしていた。
姿が見えない時と言ったら、過ごしやすい場所を探して移動している時くらいのもので、食事時と夕方になれば三蔵の下に戻ってくる。
其処で、一日であんな事があった、こんな事があったと、逐一報告するのである。
三蔵にしてみれば代わり映えの一日であるから、一々反応をするのも面倒だし、悟空は“三蔵に聞かせる”事を楽しんでいるので、三蔵が特別な反応をする必要はなかった。

だから大抵、三蔵は悟空が語る報告内容を聞き留めておらず、右から左に流している。

その微かに残った記憶も掘り起して、悟空が眠り続ける理由も考えてみたが、やはり琴線に触れるようなものはない。
結局の所、三蔵には悟空が目覚めない原因が判らなかったと言う事だ。


そうしてあれこれと考えた後で、目覚めない事は変事であるとは言え、見る限り、悟空の体調に異常は見られなかった。
本当に眠り続けているだけで、その内ひょっこり起きて「腹減った」と言い出すような気がしたのだ。



────だから、放って置いた。
そう言った三蔵に、八戒はあからまさに深い溜息を吐いた。




「せめて医者に見せるとか、あるでしょう」
「明日も起きないなら、そうするつもりだった」




三蔵の台詞に、八戒は胡乱げな視線を向ける。
本当ですか、と音なく問う翡翠に、三蔵は答えないまま、煙草の煙を吐き出す。


悟空を揺さぶっていた悟浄の呼ぶ声が止まる。
八戒が振り返ると、悟浄は床に座って肩を竦めていた。

悟空は、相変わらず眠り続けている。




「駄目だ、ウンともスンとも言わねえ。いつもなら、食い物で釣りゃあ速攻で飛び起きるのにな」




昨日から眠り続けていると言う事は、一日半を絶食で過ごしている事になる。
三日前に朝食を食べ損ねるだけで死活問題と言っていた悟空にとって、有り得ない事だ。


ジープが悟空の頬をもう一度突く。
ピィ、と寂しげな声が聞こえた。

────と、ジープの赤い瞳がぱちりと瞬いて、何かを感じ取ったように、誘われるように首が伸びる。




「ジープ?」




八戒が呼んだ時、ジープの頭は悟空の布団の中に潜り込んでいた。
頭隠して尻隠さずの状態で、ジープは布団の中で何かを探るように、もぞもぞと蠢いている。

悟浄がシーツを掴んで退かせると、ジープは蹲った悟空の手元に顔を寄せていた。
その右手は固く握り締められているのだが、ジープはそれを解こうと躍起になっている。
額や鼻の頭でぐいぐいと悟空の手に隙間を作ろうとしているが、それは一向に功を奏さない。




「なんだ?何かあるのか?」




ジープに問いかける悟空だが、返ってくるのは「ピィ」と言う鳴き声だけ。

生憎、悟浄にジープの言葉は判らない。
しかし、もう一度ジープが悟空の手に頭を寄せるのを見て、小竜が“何か”を感じている事だけは察した。


悟浄は悟空の手を取ると、強引に指を開かせようと試みた。
が、眠っていると言うのに、その手はしっかりとした力で握り込められていて、中々開けそうにない。
まるで何かを握り締め、奪われまいとしているかのようだった。

なんだこりゃ、と悟浄が顔を顰める傍ら、三蔵は思い出す。




「……まさか、……」
「あ?やっぱ、なんかあったのか?」




握り込められたままの手と奮闘しながら、悟浄が肩越しに三蔵に問う。




「参拝客からビー玉を貰っていた」
「ビー玉?そんなもんが、これの原因だってのか?」
「原因かどうかは知らんが、そのビー玉を持って眠ると、夢の中で逢いたい奴に逢えるんだと。本気にした訳じゃないだろうが、三日前も一昨日も、それを持って寝ると言っていた。握っているのは、恐らくそいつで間違いないだろう」




見せられたビー玉を、三蔵は記憶の縁から引き揚げる。

特に変わった所などない、特別に多色で彩られている訳でもない、シンプルなガラス玉だった。
球体の中に小さな金平糖が埋め込まれているだけだったが、悟空はそれをいたく気に入り、飽きずにずっと眺めていた。
その光景は、ビー玉やおはじきを眺めている時によく見られるもので、特別気にするような事でもないだろう。


問題は、それを握って眠ってからの事だ。
悟空が昏睡の如く眠り続けるようになったのは、あれを握って眠るようになってから────無関係とは言い切れない。




「……取り敢えず、……離せ、コラ!この猿っ!」




目下、怪しいのはそのビー玉しかない。
此処にそれがあるのなら、一先ず取り上げて確認するべきだろう。

その為には、この握り締められた手を開かなければならないのだが、これが容易ではない。
悟空は確かに眠っていると言うのに、握られた手は、まるで固まったように頑ななのだ。
幾ら悟空が類稀なるバカ力を有するとは言え、眠りの中でまでそれが発揮されるとは思えない。


力任せに悟空の手を解こうとする悟浄だが、子供の手は全く開かれようとしなかった。
この騒ぎで本人が目覚めるかと言えば、全くそんな兆しはなく、健やかな寝息を立てているだけ。

─────どうする、と三蔵と八戒は顔を見合わせた。
力技でどうにもならないのなら、頭を捻るしかないが、策を労する対象は、常の食べ物の単語にすら反応しない。



ピィ、と小さな鳴き声がした。
悟浄の手を、小竜がぐいぐいと突く。




「なんだよ、ジープ。邪魔すんなって」




追い払おうとする悟浄だったが、ジープはその手にかぷりと噛み付いた。

顎に力が入っている訳ではないから、牙が皮膚を食い破る事はなかったし、然程痛くもない。
しかし、追い払おうとする悟浄への抵抗である事は判った。


仕方なく悟浄が手を引っ込めると、悟空の手がぽとりと布団の上に落ちる。
ジープがその手に顔を近付け、つん、つん、と鼻先で突く。






ピィ、と鳴く声がして。

悟空の手の指の隙間から、金色の光が辺りを包み込んだ。