記憶が刻む夢、ひとひら




夜の宴が定着したのは、いつからだっただろう。

夜更かしは癖になる、と顔を顰めていた金蝉も、いつの間にか抵抗なく輪の中に居場所を作っている。
だから悟空は、夜の宴が終わった翌日の朝から、次の宴はいつだろうと考えるようになっていた。



────“宴”と称した所で、やっている事はいつもと大して変わらない。

何かを持ち寄って集まって、桜の下で飲み食いし、他愛もない話をして、夜闇を踊る桜を見る。
子供は木登りに精を出し、酔っ払いは調子良く笑い、お喋り好きは常の二割増しで喋り、寡黙な男は静かに杯を傾ける。
其処に特別なものは何一つ存在していなかった。


けれど、その“なんでもない光景”こそが、子供にとって宝物だった。



今日も今日とて、宴の幕が上がり、酔っ払いはどんどん盃を空にする。
酔っ払いは寡黙な男の杯が空になるのを待たず、次から次へと注ぎ足して、終いには怒られる。
お喋りな男は、持ち前の雑学を延々を喋り続け、終いには煩いと怒られる。

そんな大人達を後目に見て、金瞳の子供───悟空は桜の木の上へとするすると上って行く。


高い場所から見える景色が、悟空は好きだ。
悟空の周りにいる大人は、皆背が高くて、悟空とは見えている世界が全く違う。
けれど、木の上や屋根の上に上ると、そんな大人達よりもずっとずっと高い世界が見えるのが嬉しかった。

両手足の枷の重みで、枝は直ぐに悲鳴を上げるから、あまり長い時間を其処で過ごす事は出来ない。
だからこそ、見えた景色は全部覚えていようと、悟空はじっと目を凝らして、天上の世界を見渡した。


足元では、賑やかな声が響いている。




「ほら、飲め飲め、金蝉!ってお前ちっとも減ってねえじゃねえか」
「お前が飲む前に注ぐからだろう!近付くな、酒臭い!」
「アルコール臭って結構キツいし、不快感を煽るんですよねえ。知ってます?酒臭さって言うのは、口臭や息だけでなく、体臭からも臭うものなんですよ」




酒の味の良さは、悟空にはまだ判らなかった。

捲簾や天蓬が美味い美味いと言って飲むので、一度だけ、少し舐めさせて貰ったけれど、苦い上に舌先がビリビリして、全く飲めたものではなかった。
あれの何処か美味いのか判らない、と言ったら、捲簾に「お子様には早かったな」と笑われてしまった。
それを「ケン兄ちゃんに笑われた!」と金蝉に言い付けたら、彼は経緯を聞いた後、般若のような顔で捲簾の首を絞めていた。

自分だけが飲めないのが悔しかったが、天蓬から「大人になったら一緒に飲みましょう」と言われて、諦めた。
その代わり、宴の時には目一杯食べる事にして。


ぎし、と足元が揺れたのを感じて、悟空はタイムアップを知った。
桜の幹に跳び付いて、ずるずると滑り落ちて行く。

酒を煽って頭上を見た捲簾が、子供が帰って来るのを発見した。




「おう、小猿ちゃんが降りて来たぜ」
「サルってゆーな!」
「その格好で言われてもなぁ」




説得力がない、とけらけら笑う捲簾に、悟空はむぅと頬を膨らませた。

高さ数メートルと言う所まで降りると、悟空は幹を蹴った。
両手足の枷の重みなど、悟空にとっては大した意味はなく、すとんと身軽に地面に着地する。




「上、キレーだった」
「良かったですねえ」
「うん!」




綺麗も何も、変わり映えないだろ、と金蝉が呟いたのを、捲簾が言ってやるなと宥めた。
それから、「子供にしか見えないモンがあるんだよ」とにやりと笑って告げる。




「ねーちゃんとこが見えた!」
「ンなとこまで此処から見えたっけか?」
「悟空は目が良いですからね。夜目も効くようですし」
「……ババアの所なんかガキが見るもんじゃねえよ」
「あー、しかも夜中だしなあ。何やってんだか、考えるだけで怖ぇ」
「なんで?」
「ん?いや、はは。なんでもねえよ、気にすんな」




ぐいぐいと捲簾の手が悟空の頭を掴んで揺らす。
それにされるがままになって、悟空はぐらぐらと頭を揺さぶられた。

子供の前でする話ではない、と、三人の大人が話をはぐらかすのを感じて、悟空は剥れた。
またオレばっかり仲間外れ、と言う子供に、そうじゃないと三人が慌てる。




「大人になったら聞かせてやるって」
「……おい、捲簾」
「まーまー、睨むなって、お父さん」
「そうですよ、金蝉」




紫闇が旧知の翡翠を睨めば、その翡翠には含みのある色があった。

嘘も方便。
そんな言葉を音なく察して、金蝉は溜息を吐く事で、これ以上同じ話題が続くのを避けた。




「────さてと。大分酒も回ったな」
「そろそろお開きにしましょうか」




言って、捲簾が手早く散らかった徳利や盃を片付け始める。
肉まんや唐揚げを乗せて持ってきた皿も、大きさごとに揃えて重ねて行く。

それを見た悟空が、先程とは別の意味で不満げに唇を尖らせた。




「えー、もうお終い?」
「何がもう、だ。今何時だと思ってんだ。ガキはとっくに寝る時間だ」
「ガキじゃねえもん!」




憤慨する悟空に構わず、金蝉が腰を上げる。
片付けはいつも捲簾と天蓬がする事で、金蝉がするべきは、養い子を部屋に連れ帰って寝かしつける事だった。

保護者に置いて行かれて、部屋を閉め出されるなんて事になったら大変だ。
悟空はそう思って、慌てて立ち上がって、桜並木を進む金蝉を追い駆ける。
実際には、彼が子供を置いて行く事など、先ず有り得ない話なのだけれど、そんな事は当人には知らぬ話であった。


捲簾と天蓬は、遠くなって行く金色の男と、それを追い駆ける子供の背中を見送って、小さく笑みを漏らす。




「次の日取りは、いつにしましょうか」
「さーてね。お父さんのご機嫌次第って奴だ」




それさえ良ければ、明日にでも構わない。
けれど、厳格と言う名の過保護な父親は、子供の夜更かし癖はきっと良く思わないに違いない。

気長に待とうぜ、と言う相棒に、天蓬も頷いた。



─────此処の桜は、変わらない。

だから、あの子が見たいと願う光景も、次の時までずっと変わらず、存在している筈だから。


























夜の帳の世界を舞い踊る、無数の小さな花弁。

目を開いたら、それ一色で世界が埋め尽くされていた。




「……どういうこった?」




火の消えた煙草を咥えたまま、悟浄が呟いた。
それに、常であれば───面倒臭そうにでも───答えてくれそうな二人は、沈黙している。

いや、悟浄の言葉は彼ら二人の心情を代弁したものでもあり、彼らも気持ちは同じだったのだ。
故に悟浄の問いに対する答えを、彼らは持ち合わせていない。


今は冬の只中であると言うのに、何故こんなにも、無数の桜が咲き誇っているのだろうか。
時刻は昼であった筈なのに、桜の向こうに在る空は宵闇に覆われ、透き通る青は何処にも見られない。
何よりも、自分達は建物の中にいたのだから、外にいるのが先ず可笑しい。

まるで瞬きをした一瞬の内に、瞬間移動でもしてしまったような、しかしそんな事は現実には有り得ない事だ。
強い妖力を持った妖怪ならばある程度は可能かも知れないが、此処にいるのは人間と半端者だけであるから、やはり、これは起こり得ない事であった。


しかし、現実に今、自分達は外界にいる。
何処とも知れない、見知らぬ場所に。



ピィ、と足元で声がして、八戒が視線を落とせば、桜の絨毯の上にちょこんと座っている白竜。
八戒はジープを抱き上げて、その直ぐ傍らで眠っていた筈の子供を探す。




「悟空?」
「あいつ、何処行った?」




何処に、行ける訳もない筈だ。
彼は眠り続けているのだから。

しかし、昏睡していた筈の子供の姿は、何処にも見られない。


八戒は辺りを見渡して、やはり其処が見慣れぬ場所である事を確かめると、沈黙している三蔵へ視線を移す。




「これは、一体何が起きているんでしょうか…」
「……俺が知るか。だが…やはり、あのビー玉が事の原因だって事は、間違いなさそうだ」




ごく普通の老婆が渡したビー玉だと思っていたのだが、何か宿っていたのだろうか。
妖怪の力に反応して発動する結界と言うものを扱える術者と言うのは、存在する。
その類の人間が、何かしらの力を込めていたのか。

仮説は幾ら並べた所で、仮説の域を出ない。
三蔵はビー玉の出自について考えるのは止め、歩き出した。


此処が何処であるのか、そもそもこの世界が何であるのか、確かめるには一先ず動いてみるしかない。
悟浄と八戒も、三蔵の後に続いて歩き出す。



足元は、茶色の地面が見えないほどに、無数の桜の花弁に覆われていた。
一体どれ程の花弁が落ちれば、こんな光景になるのだろうか。
見える景色は全て桜の木々で埋められているけれど、それでも、花弁が散れば木上の花も減って行く筈。
しかし、敷き詰められた花弁と、今も風に踊り舞い散る花弁は世界を埋め尽くさんばかりの数だと言うのに、咲き誇る木々の桜は一向に姿を消そうとしない。

まるで、万年桜。
どれだけ花弁が散ろうと、どれだけ刻が流れようと、枯れる事を知らないかのよう。




「─────なんだか、怖い光景、ですね」




これだけの桜で埋め尽くされた世界なら、壮観、と言える。
けれども八戒の口から突いて出た言葉は、それとは違う意味のもので、誰もそれを否定しようとはしなかった。


咲いて散るから、次の命は芽吹き、巡るのだ。
桜はそうして季節を越し、歳月を過ごし、次の世代へとその齢を重ねて生きていく。

けれど、散らない桜は、酷く空恐ろしい。



桜の世界は、延々と続いて行く。
見える景色に変化はなく、まるで同じ場所で足踏みしているようにも思えて来た。
ああくそ、と悟浄が悪態を吐いたのも、無理はあるまい。


狐に化かされている気分を抱えたまま、歩き続ける。
そうして、このまま永劫歩き続けるのか、と誰ともなく思った頃。

ぴくん、とジープが顔を上げ、羽ばたきを鳴らした。




「ジープ?」
「おい!」




飼い主と同居人の呼ぶ声を聞かず、ジープは飛び出した。


ジープは迷わず、真っ直ぐに、桜の向こうへ飛び進む。

何かを見付けたのかも知れない。
思えば、最初に悟空が握っていたと言うビー玉に気付いたのもジープであった。
行くぞ、と三蔵の声を合図に、ジープの背中を追い駆ける。



強い風が吹いて、足元の花弁が舞い上がり、視界を埋め尽くす。
それでも足を止めずに走って、走って──────




「わ!何、こいつ?」




聞き慣れた、けれども聞き覚えのあるよりも高いトーンの声。

視界を埋める花弁を振り切るように、強く一歩を踏み出すと、途端に風が止んだ。
花弁が再び地面に落ちて絨毯となって、代わりに三人の前に現れたのは、眩い金糸を持つ男。


金糸、の、男。
それは、誰かに、よく似た。




「──────誰だ?お前ら」




紫電に警戒の色を滲ませて、その男は三蔵を睨んだ。
その傍らで、小竜と戯れている子供がいる。


子供は酷く見覚えのある色形をしていたけれど、それを明確に投影する事が出来るのは三蔵一人だった。
自分達が知る子供は、確かに“子供”ではあったが、今目の前にいる子供は、知っている“子供”よりもずっと小さい。
身長は低く、いつも結われている大地色の後ろ髪は無造作に開いており、両の手足には鈍光を反射させる黒い枷。

養い子を、あの暗く空々しい岩牢から連れ出した時と同じ姿。
いや、若しかしたら、あれよりも幾らか幼いかも知れない。
丸い金色の眼には、あの時のような何処か老成した気配もなく、首を傾げる仕草は、年相応の様であった。



ピィ、とジープが鳴いて、子供の下を離れる。
戻ってきたジープは飼い主の肩に降りて、三人を促すように前へと首を揺らした。




「………悟空」
「ふえ?」




三蔵の呼び声に、子供がぱちりと瞬きした。
そんな子供を、金糸の男が背に庇う。




「何者だ?」
「……こっちの台詞だ」




睨み合う三蔵と金糸の男。
その様を客観視しながら、悟浄と八戒は目を丸くしていた。

探していた子供が、姿が違う形で現れたのも驚いたが、それ以上に二人の目を引いたのは、金糸の男の容姿だ。
服装や髪の長さこそ違うものの、顔付や声色は、三蔵と瓜二つだった。
桃源郷では先ずお目にかかる機会ではないであろう三蔵の金糸すら、同じ色をしているのである。


三蔵と金糸の男が似ている事に、子供も気付いたらしく、きょろきょろと二人を交互に見ている。
確かめようとしてか、子供の足が前に出ようとするのを、金糸の男が手で制した。

前に出るな。

無言で子供を庇おうとする男の姿は、まるで動物の親が子供を守ろうとしているかのようだ。
事実、それと見ても間違いではないだろう。



三蔵と金糸の男は、睨み合ったまま動かない。
張り詰めたその糸を揺らしたのは、男に庇われた子供だった。




「金蝉、金蝉」




幼い声に金糸の男────金蝉と言うらしい───が視線を落とせば、子供が服の端を掴んで引っ張っている。
金色の瞳は、場違いにも、何故かきらきらと輝いて、




「あいつ、金蝉にそっくり。金蝉のおとーと?」
「……俺に兄弟はいねえよ」




ぷっつん、とそんな音がするような唐突さで、緊張の糸が切れた。
男はがっくりと肩の力を落として溜息交じりに応え、三蔵は子供の言動に不機嫌なオーラを振りまく。

だってそっくりじゃん、と無邪気に言う子供に、金蝉は深い溜息を吐く。
その傍ら、機嫌を急激に低下させていく三蔵の気配を察し、八戒が彼の代わりに前に出た。




「あの……すみません、その子、悟空ですよね?」
「………」
「うん、オレの名前、悟空だよ!」




応とも否とも言わない、保護者であろう人物に代わり、子供の方がやはり無邪気に答える。
心なしか嬉しそうに自己紹介した理由は、子供が自ら聞かせてくれた。




「金蝉がつけてくれたんだ。なっ」




金蝉の腰にくっついて、悟空は保護者を見上げて嬉しそうに笑う。

金蝉は、宥めるように、見上げる子供の大地色の髪をくしゃくしゃと撫でた。
それに悟空はくすぐったそうに笑い、金蝉の腕を捉まえて、小さな手でぎゅっと握る。


ごく普通の、保護者と子供の、穏やかな情景が其処に在る。
けれど、これは───恐らくではあるけれど───無邪気に笑う子供が見ている“夢”なのだ。



舌打ちが聞こえた。
悟浄が隣に立つ男を見れば、まるで忌々しいものを見ているかのような目付きがある。

そんな顔をする位なら、普段からもう少し構ってやれば良いものを。
そう思ってから、それが出来れば本人達も、それに巻き込まれる自分達も、何も苦労はしない。


八戒もそれを察して、性急ではあったが、金糸の男に対して一歩踏む込む。




「すみませんが、その子と少し話をさせてくれませんか?」
「オレ?」
「……その前に、お前達の素性を説明しろ。何処の誰とも判らん奴の指図を聞く気はない」




金蝉の言葉は最もだ。
だが、八戒は返す言葉に詰まってしまった。

素性を説明しろと言われても、何を言えば信用して貰えるだろうか。
口八丁でこの場をやり過ごすには、此方としても情報不足であった。


うーん、と考え込む飼い主の迷いを読み取ったか、ジープが羽ばたき、子供の下へと飛んでいく。




「わ、あはは!なんだろこいつ、すっげー懐っこいのな」
「………」




紫電が様子を伺うようにジープを睨んだが、ジープはそれを気に留めなかった。
ジープは二人の周りをぐるぐる回り、悟空の顔の前でホバリングする。




「なあなあ、触っていい?噛まない?」
「ええ、大丈夫ですよ。言葉も判りますから、話しかけてあげて下さい」
「へー、頭いいんだなあ、お前」




悟空は手を伸ばし、躊躇わずにジープの顔に触れた。
丸みのある指がジープの頬を滑った後、背の鬣を撫でる。

ピィ、とジープが嬉しそうに鳴いて、悟空の肩に降りた。
生き物らしい重みに驚いたように、悟空が僅かに体勢を崩したが、転ぶようなことはない。


ジープを戯れる悟空を一瞥して、金蝉は正体不明の異邦人───三蔵達───へ視線を戻す。




「それで?お前達は、何処から来た?何処に所属している者だ?」
「所属……ですか。生憎、其方が想像しているものは、僕らには当て嵌まらないと思います」
「………」
「その前に、此処が何処だか教えて貰いてーんだけど」




自分達ばかり問われるのは不公平だろう、と悟浄が割り込んだ。
金蝉は胡乱な目で此方を睨んだまま、口を開く。




「此処は天界だ」




天界───天上界。
観世音菩薩や三仏神と言った、“神々”の住む世界。


悟空が嘗て天界にいたと言う事は、三蔵だけでなく、悟浄と八戒も話として聞いた事はあった。
幼い子供は、下界で生まれて天界へ連れて行かれ、大罪を犯して再び地上へと堕とされた。
その罪の代償として、悟空は記憶を失い、五行山へ封印されたのだと言う。

だが、悟空は自分自身にそうした過去がある事を知らず、何故五行山へ封印されていたのかも覚えていない。
拾ってから数年が経過した今でも、記憶の片鱗は戻る様子を見せなかった。




「どういうこった?俺達はタイムスリップしちまったとか、そういうワケ?」
「馬鹿か」




悟浄の言葉に、下らない、と一蹴したのは三蔵だ。

三蔵は眼前の男を睨み付け、強い声で言いきる。




「これは、夢だ」




奇妙なビー玉が見せた、ただの夢。

夢の世界に迷い込むと言う、不可思議な現象に見舞われていても、この世界はあくまで“夢”。
現実で眠り、この桜の世界で遊ぶ無邪気な子供が見ている、単なる“夢”以外の何者でもない。


─────夢。
金糸の男が反芻するように呟いた。




「────夢、か」
「そうだ。此処にいる俺達も、お前らも、間抜け面してるバカ猿も」
「サルじゃねーよ!」
「喧しい。お前は黙ってろ、ややこしいもの持って来やがって」




条件反射のように噛み付いた悟空に、三蔵が苛々とした表情で言い返す。
だが悟空は三蔵の言葉の意味を理解できなかったようで、眉根を寄せて首を傾げた。
それを宥めるように、ジープが悟空の頬に擦り寄る。




「お前が天界だと言う、この世界そのものが、悟空が作り出した夢だ」




紫電が、傍らの子供を見下ろした。
悟空は大人達の会話の意味が判らないのだろう、きょとんとして保護者を見上げる。




「悟空」




呼ぶ声は、三蔵のものだった。
金瞳が紫闇へと向けられる。




「帰るぞ」
「……かえる?」
「いつまでも馬鹿面で寝てんじゃねえよ」




憮然としたその言葉に、悟空は益々意味が判らない、と顔を顰める。
隣に立つ保護者の服の端を掴んで、不安そうに金色が彼を見上げた。

紫電の男は、何も言わない。
それが悟空の不安を煽っているのだろう、悟空はしきりに金蝉の名を呼び始める。
守ってくれる筈の手を求めるように。




「金蝉。金蝉ってば」
「………」
「なあ。なあ金蝉。なんでなんにも言わないの?夢って何?何が夢?」




無邪気に小竜と遊んでいた時の輝きが消えていく。
金色の瞳には不安の色が宿り、なあ、と保護者を呼ぶ声は、泣き出しそうにも聞こえた。


風が吹いて、桜の絨毯が舞い飛んだ。
ザ、と視界の一切を奪うそれらに、三蔵と悟浄が舌打ちを漏らす。

花弁の世界の中で、男の声が聞こえる。




『────夢なんだ、悟空。それは、お前が一番よく判っている』




凛とした声色は酷く落ち着いていて、まるでこの出来事を全て知っていたかのようだった。

この桜に満ちた世界が、小さな子供の心が作り出した、仮初の箱庭である事を。
自分自身の存在が、小さな子供が生み出した、虚像の形である事を。



風が止んで花弁が落ちた時、男の姿は其処にはなく、ぽつんと小さな子供だけが取り残されていた。




「………金蝉?」




悟空は辺りを見渡すが、何処にも彼の男姿はない。
繋いでいた筈の手は空っぽで、見上げた先にあった紫電は跡形もなく、桜の絨毯の中で立ち尽くしているのは己一人。

どこ、と舌足らずな声が呟いた。
悟空は三蔵達に背中を向けて、広がる桜並木の向こうを見る。
其処には相変わらず、咲き誇る桜の木があるけれど、見える景色を、悟空はもう、綺麗だと思う事は出来なかった。


一人残された子供の背中に、冷たいものが落ちて行く。




「こんぜん」
「─────悟空」




低い声音に子供は振り返るが、其処にいるのが見慣れた人ではないと知って、呆然とする。


桜の絨毯を踏み締めた三蔵を見て、悟空の肩が跳ねた。




「─────やだ!」




そう叫んで、悟空は再び三蔵達に背を向けた。
弾かれるように走り出した小さな子供を、悟浄が直ぐに追い駆ける。




「待て、バカ猿!」
「悟浄!離れるのは危険です!」




八戒の静止の声も聞かず、悟浄と小さな子供は、桜の世界へ消えていく。
その上、悟空の肩にはジープが乗ったままだった。

八戒は頭を振って俄かの痛みを追い出し、立ち尽くしている三蔵を振り返る。




「どうするんです?三蔵」
「どうもこうも、一先ず探すしかねえだろ」
「それはそうなんですが……」




駆け出した子供の背中は、まるで現実世界に帰る事を拒んでいるかのようだった。

自分自身の願いによって作り出した夢の中は、きっと居心地の良いものだろう。
霞んだ記憶の中でも、無意識に“逢いたい”と願う程に、この世界は悟空の基盤となっているのだとしたら────この夢を否定すると言う事は、彼の心の奥底で眠る温かな世界を、丸ごと否定する事にも成り得る。


この世界に置いて、異物は自分達の方なのだ。



だが、三蔵にしてみれば、悟空が無意識に望んだ願望が何であるかなど、どうでも良い話だった。




「あのバカ猿が起きねえと、俺達だって戻れねえんだ」




だから、探して、ブン殴る。
それだけを言って、三蔵は夢の奥へと歩き出した。